「女呼ぼうぜ」キャバクラを幻視する男
連載『そんなこと言うんだ』は、日常の中でふと耳にした言葉を毎回1つ取り上げて、その言葉を聞き流せなかった理由を大切に考えていくエッセイです。#4では、筆者が参加した飲み会で、男性が口にした「女呼ぼうぜ」という言葉から、”男が「女」を語る瞬間”について考えていきます。
■自我が目覚めたら友達が減った
23~25歳くらいの間、男友達とつるめなかった。
大勢集まる会で顔を合わせる程度ならいても、自発的に予定を合わせて会う男友達は1人しかいなかった。なんでそうなったのかを振り返ると、大学生活を終え社会に出るタイミングで、学部学科やサークルの繋がりから離れ、付き合う人間を完全に自分の意思で決めていい状態になったときに、自分でも気づかないくらい自然に男性がごっそりと選択肢から外れていったから、ということになる。
何か決定打になる大きな事件があったわけではなく、積もり積もったそれまでのもやもやが、輪を離れたことで少しずつ自覚できるようになった結果だと思う。そして、間違いなくその一因が今回取り上げる言葉だ。
■ホモソーシャルではおジャ魔女になれなかった
男児向けとされるコンテンツ同様、女児向けとされるコンテンツにも触れて育った。
毎月コロコロコミックとりぼんとちゃおを読み、日曜朝はデジモンアドベンチャーとおジャ魔女どれみを続けて観た。性自認もファジーで、こと嗜好に関しては8歳頃まで半分男児で半分女児だった。女子の友達のほうが多い、というか男子の友達のほうが少ないのはその頃から今に至るまで変わっていない。こう書くと大仰だが、そんなに珍しいケースでもないだろうと思う。
小学生男子のホモソーシャルにおいて、おジャ魔女どれみを視聴している男子は男未満の何かと見做される。「女のカルチャー」はダサいもので、それを見下しているのはかっこいい振る舞いらしかった。また、女児向けのコンテンツに性的な価値を見出して消費する大人の男がいるのもわかっていたから、後ろめたい気持ちになって次第に封じ込めるようになった。だんだんと筆者は「女のカルチャー」を貶める男子の輪に適応していき、かくして「男」になった。
筆者の幼少期はナルミヤブランド全盛期で、女子にはエンジェルブルー、ベティーズブルー、ポンポネット、デイジーラヴァーズ、ココルルと、子供服ブランドの選択肢が豊富だった。その点、男子にはそういったブランドの選択肢がバッドボーイくらいしかなかったから、心底羨ましかった。
お気に入りのベティーズのトレーナーを着て登校する友達の上気した顔はなんだかとても神聖なものに映ったし、親の方針でブランド物を買ってもらえない友達は本気で自分の身の上に絶望していた。「どうせうちらすぐ大きくなるのに今からブランド物着てるなんてバカみたい」という隣のクラスのクイーンビーの陰口が知れ渡ったことを機に、学年の女子全体を巻き込む大規模な対立構造が生まれたこともあった。その頃、今まさに紛争が起こっていることを認識している男子はほんの数人しかいなかった。女の世界の話はいつも他人事にされる。
そういうふうに、あるカルチャーを巡って際限なくいいことも悪いことも起こる、それくらい多くの人を熱狂させていることにとてつもない豊かさを感じリスペクトを抱いた。このカルチャーはおもしろい。でもやっぱり、そのカルチャーの担い手が女性だというのを理由にして軽んじられることは間々あった。筆者が折に触れてあの時代の子供服についての書籍を作りたいと喧伝しているのはそういう背景から来るものだ。
もちろん人並みに「男らしさ」に染まってみることもして、染まりきれず揺り戻されを繰り返し、思春期を経て成人もして、大学生活の中で諸々人並みの経験を積み、「男らしさ」に部分的に準拠しつつも精神衛生を保てる妥協点を見つけていった。
■キャバクラを幻視する男
大学時代の筆者は今よりさらに未熟で、諸々のソーシャルイシューに関して目覚めていなかった。今の時代感覚からすれば至らないところばかりの価値観ではあったものの、おおかた似たような感覚の友達と一緒に、日々快適な生活を送っていた。
その輪を出てフリーランスとして働きはじめたことで自分を客観視できるようになり、それまで積み重なったもやもやが少しずつ言語化できるようになった。「女子力」ってなんだよ? とか。
そんなある日に参加した男だけの飲み会で、2時間ほど過ぎた頃に一番年長の人が「女呼ぼうぜ!」と言い出した。
意味がわからなかった。誰か追加で誘って二次会へ行こうという話題の最中だったのだけれど、なぜそこで性別が問われるのかもわからなかった。「男ばっかりでむさくるしいよな」みたいなことを言いたいのだろうか? そういう物言いにも筆者は抵抗があるし、まずその言葉遣いに強烈な嫌悪感を抱いた。「女」。この人は、その「女」がいる場所では「女」を「女子」と呼ぶから。
そこで振り返って改めて気づいたのだが、女性のいるところでは「女子」とか「女の子」とか「女性」と言っていたものが、男性だけの空間になると「女」に変わる男性というのが一定数いる。気づいたとき心底ぞっとした。おジャ魔女のときと一緒だ。「女」を見下すのは「かっこいい」のだ。というか、思い返せばおジャ魔女を観ていた頃もうすでに、いた。女子がいる場といない場で「女子」の呼び方が変わる男子は、8歳そこらの頃にはもうすでにいたのだ。
「女呼ぼうぜ」と号令をかけて後輩たちに「女」を呼び寄せさせたこの人は、「女」に対してまるでキャバクラにでも来たかのように振る舞った。この人にとって女=嬢なのだ。おぞましい。詳しい言動は思い出したくもない。だいたいあなたが想像しているようなことをぜんぶ言ってぜんぶやったと思う。
そんなことが何度かあって、一時期「男友達」がめっきり少なくなってしまった。
■男が「女」を語るとき
『ボクらの時代』という番組がある。普段バラエティ番組に出ないような俳優や文化人が毎回3人集まり、仕事論や自身の生活のことを静かに自然体で語るさまを定点カメラで撮ったシンプルな番組だ。
意外な人から思いもよらないような話が聞けて好きな番組なんだけれど、男だけ3人の回は本当に、知る限りほぼ必ず会話に嫌な瞬間が訪れる。
例えば、いちばん若手の俳優がベテラン俳優2人にこう問う。「お2人はよく飲みにいかれるんですよね。どんなことをお話しになるんですか?」
するとベテラン俳優の片方が笑みを浮かべながらこう答える。「女性の話ばっかりしてるよね」
この人は、カメラが回っていない、本当の意味で「女性」のいない場所で、それこそもう1人のベテラン俳優と飲んでいるときには、「女性」を何と呼ぶのだろう。
「嫌な瞬間」というのはこういった言葉や話題のことだ。
芸能人でなくても、キャバクラなどを指して「女性のいるお店」と呼ぶ人がいたりして、同種の怖気が走る。そういう言動に触れるたび、また23〜25歳の頃のように、男の輪から隠居してしまいたくなる。
でも、だからこそ思うのは、そういう人個人を潰すために動くのは本質ではないということだ。
個人個人をどうにかしようとすると、行き着く先は誹謗中傷や大喜利混じりのバッシングからの「炎上」、形式だけの謝罪、という流れになりがちだ。やらかした個人がぶっ潰されると溜飲は下がるが、何も解決はしない。何度も見てきた。
そうではなくて、そういった個人個人を生み出す構造に目を向けて、社会的な課題と捉えて解決するほうに思考を持っていくのが適切なんだろう。なんだろうけど今なお筆者の私怨はギャンギャンに燃えていて、消える気配も消す気力もない。というか私怨は私怨で大事にしたい。それでもなるべく事態を次の段階に進められるような頭でいたい。できんのかこれ? できたい。できたらできたいけど、やっぱり間違えながら改め続けるしかないんだろう。
Photo/Nanami Miyamoto(@miyamo1073)
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