「同窓会に行ける程度の仕事」あるいは有毒な男らしさ
連載『そんなこと言うんだ』は、日常の中でふと耳にした言葉を毎回1つ取り上げて、その言葉を聞き流せなかった理由を大切に考えていくエッセイです。#9では、しばらく同窓会に来なかった同級生の言葉から”男らしさ”について考えていきます。
■"同窓会に来なくなる奴ら"のこと
同窓会が割と好きだ。
同窓会と言っても学年やクラス単位で集まるものではなくて、当時つるんでいた層がかぶりあう10〜20人でやるもの。いつもだいたい同じようなメンツで、半年に1度くらいの頻度で集まっている。結婚式なんかで顔を合わせる機会も含めればもっと多くなるだろう。
中高一貫だったので中学からの同級生とは丸6年の付き合いになり、とりたてて仲がよかったわけではなくても共通の話題はたっぷり6年分ある。会うたび同じ思い出話をしているし、たぶん一生同じ話をして同じところで笑いあうんだろう。嫌う人も多いだろうが、個人的にはこういう会が定期的にあるのはそれはそれで豊かなことだと実感している。
ただ、中には年を追うごとに顔を出さなくなる奴もいる。今回取り上げる忘れられない一言は、そんなふうにしばらく同窓会に顔を出さなくなったあとにまた来るようになった同級生の口から出た言葉だ。
■あいつ今何してる?
彼はこういった集まりのとき真っ先に「調整さん」に返答をよこすタイプだった。数人で集まるときにはだいたい"初期メンバー"としてグループLINEにいたし、学生の頃からひときわ声がでかくて、イベントごとでは誰より弾けていた。前回の記事で取り上げた学級崩壊の渦中でもとびきり騒々しかった何人かのうちの1人だ。
そんな彼が2〜3年ほど同窓会に顔を出さなくなった。最初は他にもっと大事な友達ができたんだろうと思っていた。そうやって疎遠になっていく同級生はたくさんいる。彼の場合ももちろんそういった事情がなかったわけではないのかもしれない。
ただ、しばらくぶりに同窓会に出席した彼の口から直接語られた言葉を聞く限りでは、来なくなった理由の核は別のところにあるようだった。
「久しぶりじゃん」「えー何年ぶり?」「なんでずっと来なかったんだよ」と群がるように言葉をかける同級生たちの声にまぎれて彼はこう言った。
「いやあ、俺も今ようやく同窓会に来られる程度の仕事してるからさ」
恥を忍ぶような、覚悟を決めたような、罪を打ち明けるような、名誉を挽回したような、ものすごく複雑な声色だった。その言葉を聞いて気づいた。そうか、"仕事がうまくいってない”ことは、同窓会に来なくなる理由になりうるのだと。
■立ちション、肩パン、オートマ限定
「有毒な男らしさ(Toxic Masculinity)」という言葉がある。ジェンダー学や心理学において近年頻繁に言及されるようになってきた概念で、伝統的に「男らしさ」とされるようなステレオタイプに男性自身がとらわれて自身や他者を害する規範意識を指す。
「泣くな男だろ」
「カシスオレンジって(笑) 女子かよ」
「男子の部屋って感じだね、散らかってて」
「お前も男なら殴られたら殴り返せ」
「男の子だったら剣道、女の子だったらバレエを習わせたい」
「いつも甘いの食べてるよね! 女子力高いわ~」
「スポーツできない男はモテない」
「父は一家の大黒柱」
「なんで夫のほうがわざわざ育休取るの?」
こういった言葉の前提にある「男はこうあるべき」という規範意識は、気づかないうちに自分自身を縛って毒性を帯びる。”男らしさ"も"女らしさ"もフィジカルな部分に紐づくもの以外すべて根拠がないにも関わらずだ。実体のないものに忠誠を誓っている。
海やプールのトイレで立ち小便をすれば、水着のためにいつもより広く露出した足にどれだけ飛沫がはねているのかがわかる。シンプルに不潔だ。それでも個室で座って済ませようとすると"男らしく"ないと冷やかされることがある。
「肩パン」を知っているだろうか? 女性には知らない人も多いかもしれない。肩のあたりを交互に殴りあって、どちらが先に音を上げるかで"強さ"を、"男らしさ"を競うゲームだ。暴力的以前にまるで文明を感じない稚拙極まるこれは、日本男児に伝統的に受け継がれてきている。
オートマ限定の運転免許は"ダサい"、男ならマニュアル車も運転できるべき、という風潮がある。恐るべきことに、免許を持っていない人間がオートマ限定免許を馬鹿にしてくることすらある。彼らにとってオートマ限定免許という"女みたいな"ものを持っていることは、何も持っていないより遥かに悪いことらしい。
もちろん性別を問わず仕事がうまくいっていなくて同窓会に顔を出しづらくなることはあるだろうが、彼の場合「男は稼いでなんぼ」「男は仕事ができないとかっこつかない」といった規範意識に強烈にとらわれていたらしいことは、そのあと会話をしていて言葉の端々から強く伝わってきた。
■仕事がいかに男の自信を左右するか
彼は就活がうまくいかず、いわゆるブラック企業に入社して、社会に出てから数年間は自信を失ってかなり打ちのめされていたようだった。望んだ仕事内容ではなく、賃金も低く、休みも少ない。その状態で同窓会に赴いたら、自分より仕事がうまくいっている同級生たちと自分を比較して傷つき恥をかき落ち込むことになる。それでしばらく潜伏期間があった。
それから数年後、どうにかもう少し環境のいいところに転職して、晴れて"同窓会に来られる程度の仕事"にありついた。そして、自信が回復した頃合いを見計らってまた顔を出したのだった。それであの言い回しになった。
また大事なことだが、さっき"規範意識にとらわれていた"と書いたものの、彼はおそらく今もとらわれたままでいる。彼は"規範意識を払拭できた"からではなく"規範意識に則った存在になれた"からまた顔を出すようになったにすぎない。呪いはまだ一切終わっていない。「稼げる仕事をするのが男の価値」という意識を体現することで"成功"を収めたわけで、むしろ規範意識の呪いはより強固になっているかもしれないのだ。
自分が成功体験を得たことを顧みるのは本当に難しい。実体のない規範意識から来る言動でも、変に結果が出てしまうと大事な"おまじない"になってしまう。例えば「うさぎ跳び」がそうだ。
かつて全国の運動部で、大したトレーニング効果が期待できない割に体への負担が大きく、膝を壊すリスクが非常に高いうさぎ跳びが大真面目におこなわれていたという。苦労は報われたと信じたい。チームが好成績を収めたときに、成功の理由を”過酷なうさぎ跳びに耐えたからだ"と考えたくなるバイアスによって長いこと問題性が指摘されずに受け継がれてきたとしたら、あまりにも状況がオカルトじみている。"おまじない"は漢字で書くと"お呪い"だ。
こういったこともあり、"男らしさ"の毒性を指摘して当の男たちを納得させることは非常に難しい。
■状態異常回復呪文カルアミルク
同窓会に来なくなった彼の場合のように仕事や稼ぎに関するもの以外にも、"男らしさ"の毒はあらゆる場面で男のステータスを状態異常に陥れ、人生の選択肢を奪う。でも、そうなったらおしまいというわけじゃない。毒にはキアリーだ。知って準備をすることで状態異常から回復できる。本当にちょっとしたことが"男らしさ"の毒から身を守る呪文になる。
大学生の頃、サークルの飲み会で最初の注文をするとき、毎度真っ先に「カルアミルク1つ!」と叫んでいた。カルアミルクは嫌いではないが特別好きでもないし、筆者はだいぶ酒に強い。ならなんでわざわざこんな注文をしていたのかというと、黙っていると先輩が「男はみんなビールでいいよね?」と言い出して酒が得意でない男子たちが無理して飲みたくもないビールを飲むことになるからだった。
この先輩の台詞と似たような言葉を耳にしたことのある人も少なくないんじゃないだろうか。そこで真っ先にとびっきり"男らしくない"カルアミルクという呪文を詠唱することで、その後に続いて他の部員が弱いカクテルを注文しやすい流れを作れていた。存外この程度のことで状況は十分に好転していたので、同じような些細なことから試してみる価値はあるはず。
同窓会の件は、男らしさの毒性について改めて考えるきっかけになった。
こういうときクリティカルに役立つものがフェミニズムなのだけれど、これが"男のためになる"ものという認識はなかなか広まっていない。
献血ポスターの件のときにも見られたが、ジェンダー論が絡む社会的な問題においては、しばしば非難を受けている側が男性の生きづらさに関する検討をカバーできていないとしてフェミニズム自体の否定を図ることがある。
男性の生きづらさをカバーできていないことがフェミニズムの"盲点"だとする主張なわけだが、盲点も何もフェミニズムはずっと前からこういった男性側の生きづらさに言及してきている。
誤解している人は多いのかなと思うのだけれど、フェミニズムは女性を優遇するためのものではなく、男女の不均衡を調整し直して男女ともによりよく暮らせる社会の実現に向けた考えかた。つまりフェミニズムは男を責め立てるためのものではなく、女にも男にも利得のあるものだということを最後に念押ししておく。"男らしさ"に何かを左右された経験のあるすべての男性にとってフェミニズムは役に立つものだ。
ライター/編集者