1. DRESS [ドレス]トップ
  2. ライフスタイル
  3. 「洗いなさい」幼稚園児が母親を軽蔑した日のこと

「洗いなさい」幼稚園児が母親を軽蔑した日のこと

連載『そんなこと言うんだ』は、日常の中でふと耳にした言葉を毎回1つ取り上げて、その言葉を聞き流せなかった理由を大切に考えていくエッセイです。#10では、親と子の素朴で美しい“当たり前”の関係が、暴力になる可能性について考えていきます。

「洗いなさい」幼稚園児が母親を軽蔑した日のこと

■トンネルくぐれば

幼稚園児の頃、突発的に同じマンションに住む友達の家へ遊びにいくことになった日があった。何を話したのか覚えていないけれど随分盛り上がったし、その友達が別れ際にダブっていた「忍者戦隊カクレンジャーソーセージ」のおまけの高さ3cmほどの小さな塩ビ人形をくれたので終始ハッピーだった。家に帰って母親にその顛末を話すと、人形を誰からもらったのかを再確認してきた。

「あのアトピーの子?」
確かにそうだった。「うん」と返した。
「洗いなさい」と彼女は言った。

あまりのおぞましさにぞっとした。
友達に対してそんなありえないことを吐き捨てる母親が許せなかった。それに、幼稚園児の自分でもうつる類の症状ではないことはなんとなく理解していたし、仮にうつるとしてもそんな言い方がまかり通るはずはない。

当時こんなふうに言語化できていたわけではないけれど、「まずいことになったぞ」という気づきは確かにあった。うちの親はやばい。
覚えているうちではこれが一番古い記憶で、“こういうこと”は彼女と暮らした18年間で何度となくあった。

彼女はこういう未就学児でも失笑混じりにでたらめだと断じられる偏見や迷信や超科学をいつも何度でも口にした。短慮で差別的で無知蒙昧な言葉をやすやすと口にした。恥ずかしくて申し訳なくて惨めでたまらなかった。彼女だって別に思い込んでいるわけではないのかもしれないが、そう信じて唱えることに意味があるらしかった。あの世迷言の数々は、彼女が彼女の狭い世界で胸を張って生きていていいんだと自分を鼓舞するための、「ハレルヤ」みたいな言葉だったのかもしれない。

彼女のハレルヤを聞かされるたびに、あるはずのない記憶がフラッシュバックする。この人を通って生まれてきたときのことだ。あまりにも卑しいトンネルだったので惨めでたまらなくて、なんとか抜け出せたときには安心して泣いてしまった。それを思い出してまた泣けてくる。これからずっとこの人に育てられるのだ。あんまりだ。

こういう母親と、母親とは別方向に同じぶんだけまともじゃない父親の下に生まれた。父親は生まれてこのかた人っ子一人友達がいないことを「俺につりあう人間がいなかった」と嘯く惨めで孤独な人間だった。
両親ともに一個人として社会性に難があったので、ごく自然に家庭はぶっ壊れていた。殴る蹴るとか毎日の人格否定とか、機能不全家庭らしいベタなエピソードはいくらでもある。こういう境遇の人間の生活は、自分のちょっとした振る舞いや考え方の中に「両親から受け継いでしまったものがないか?」を常に疑い、呪いに抗い続ける時間になる。よくある話だ。だから個人の体験談はここまでにする。

今回の本題がまさに「よくある話だ」ということだ。つまり、こういう境遇で育った人間は決して珍しくないと強調することによって、似たような境遇にいる人を可視化し、あわよくば連帯のきっかけとして活かしてもらえたらうれしい。特に、今現在親元で暮らしている子供たちに届いて、何かポジティブに機能したらこちらとしてもありがたい。

またこの記事では、こういう境遇で育った人間たちの生活を脈々と害してきた「子供を愛していない親などいない」という素朴で美しい“当たり前”について書く。

■善意の暴力

似た境遇の人との間でよく話題に挙がるのが、まともな境遇で育っていないなりにまともな人間であろうと努める中で、その持続不可能性を突きつけられる場面の話だ。

例えば盆暮れが近づくと「実家にはいつ帰るの?」と訊かれる。日常会話だ。それ自体をどうこう言いたいわけじゃないが、「“帰る”って言えるのいいなあ」とは思う。実家は“行く”もので、行かなきゃならない用事ができるのはいつだって薄暗いところに淀んだ何かと対峙させられるときだ。

多くの人の世界観は、親子関係というのは特別仲がよかろうと悪かろうと、少なくとも最低限人間として尊重しあえるものであることを前提としている。物心つく前に親を軽蔑してしまったり、呪いをかけられて育った子供の存在は非常にレアなケースとして扱われる。そんなもんなんだろうと思うけれど、でもそんなに少ないか? とも思う。レアだから無視していいという話でもないし。
社会に出て気づけて本当によかったと思うことの1つだけれど、機能不全家庭出身者はまったく珍しい存在ではない。腹を割って話す習慣をつけていると、思いのほか頻繁に同類(と言っていいのかわからないが)と出会える。まったく珍しい存在ではないのにごく当たり前のように透明化させられる。

その根源にあるのが「子供を愛していない親などいない」という思い込みだ。

愛し愛されて生きてきた人からしたら当たり前の、揺るぎなくよきことなんだろう。だから100%の思いやりで迂闊に押しつけてこられる。
「あなたの親御さんもきっと本当は」
「ちょっとしたボタンの抱え違いで」
「感情表現が不器用なだけ」
そんな枕を受けて、実に素朴に、無邪気に、善意で喉元にこの言葉を突き立ててくる。
「でも子供を愛していない親なんていないんだから、きっといつかわかりあえるはずだよ」
その言葉に救われる人もいるだろう。でもその考え方を“当たり前”として振りかざすとき、どれだけの人間が呪われ、自分を罰し、生活を邪魔されてきたのか。裏を返せば親に愛情を返さなければいけない、親を愛せない自分は人でなしなのかもしれないという強迫観念になる。

あんたは同じ口で「あんまり関わりあいになりたくない人」の話をしていたじゃないか。なんか苦手なんだよね、どうにも反りが合わないんだよね、ちょっと本当に無理なんだよねと。“それ”が親だった人もいるというだけだ。親がちょっと、本当に、無理なのだ。

ただ困ったことに、健全な家族像を疑うことなく生活してきた人は、(少なくとも筆者にとっては)無自覚に暴力をふるってくる危険人物でありつつも、同時に希望でもある。自分がそうありたかった理想の姿だから。

ここまで言ってもまだなおハッピーエンドに持っていこうとする人は多い。
「でも齢をとって、親御さんも丸くなって……」
あなたもふてくされてばかりの10代をすぎ分別もついて齢をとり、そんな妄執からは解き放たれると。
実際歳月を重ねて関係修復に至る人もたくさん見てきた。
でもそうなる場合もそうならない場合も、誰かの信じたい「子供を愛していない親などいない」を補強する材料に使われるいわれはない。善意なんだろう、でも暴力だ。実家の外にも笑顔で暴力をふるう人間がいたなんてな。

仮に親からの愛は実在していて、それが歪んだ形で表れていただけだったとして、それがどうしたというのか。親から受けた現実のあれこれをどう覆せるというのか。自分がそれを享受したことがないのもあって「無償の愛」や「無条件の愛」というものを信頼していない。ワンオペ育児に苦しむ母親たちの手記を読んでいても、親が子を愛せないケースは特に珍しくもなく存在するのがわかるし、それは責められることではない。それは子から親への場合も同様だ。愛さないことを許す。話はそこからじゃないのか。

もちろん子供への愛情はありつつも、両親同士の関係性や、経済的な余裕のなさから家庭としての機能を損なっているケースもある。筆者の場合のようにそもそも両親が個々の人間として大きく逸脱しているケースばかりではないだろう。いろんな機能不全の形がある。
だからこそ、自分と違うタイプの家庭の出身者に対する本当に真摯な態度は、自分の思う当たり前の家族像と違う家庭があることを、納得いかなくてもとりあえず認めて、その上でできる範囲のポジティブな関わりを持っていく、そんな感じなんじゃないだろうか。

■呪いは続くけれど

筆者の場合、社会に出てからは育った境遇について苛まれることは次第に減っていき、今ではおおよそどうでもいいことになっている。ここまでどうでもよくなる予定はなかったので少し面食らっているくらいだ。そしてまた、似たような近況の同類は少なくない。

呪いを遠ざけられたのは、友達たちがそれぞれの関係性で自分を社会に繋ぎ止めてくれているから。
また、両親からの経済的・社会的な自立を叶え、自己効力感を確認する手段として機能している仕事によるもの。
そして生活に楽しみや目的や推進力をもたらしてくれる趣味のおかげ。
みんなだいたいそんなシンプルな要因を挙げる。

今しんどい思いをしている10代(や、もっと幼い子供たち)には特に声を大にして伝えたいのだけれど、境遇のハンデは自分で勝ち取った友達や仕事や趣味といったセーフティネットで存外カバーして生き延びられる。友達は本当に大事だし、仕事やバイトを始めた途端に解放されたという同類は本当に多い。来月発売の新曲が聴きたいというだけで1カ月延命できるんだから趣味だってまごうことなく生命線だ。

ただもちろん呪いは続いていく。鏡に映る自分の顔に面影がちらついてうんざりすることもある。ふとした自分の言葉遣いに共通点を見出してぞっとすることもある。どうしても連絡をとる必要が出てくることもままある。“これ”の専用薬はたぶんない。人それぞれのやり方でどうにか誤魔化し誤魔化し生活を続けてきている。根治はできないかもしれない。でも「うまくやれば誤魔化せる程度のものなんだ」という点は希望を持てるものなんじゃないだろうか。

最後にまた1つだけ、筆者個人の話をする。
つい先日、母親からメールが来た。数年来一切返信していないのに懲りずに定期的に届く。最新のメールによると、トンネルに癌ができたそうだ。じきに彼女の命は終わる。
これを書くのは人格を疑われるリスクに身を晒すことになると思うのだけれど、自分と自分に似た境遇の人たちの尊厳のために必要だと思ったので書く。
メールを読んで少し泣いた。

Photo/Nanami Miyamoto(@miyamo1073

『そんなこと言うんだ』バックナンバー


#1「ママ、いろんなことがわかんなくなっちゃうから」

#2「あたしが一番悪い!」

#3「顔むくんでるね」

#4「女呼ぼうぜ」

#5「ちゃんと話を聞いてくれる人」

#6「シンプルな子たち」

#7「腰からジャラジャラ鍵ぶら下げてる女は全員レズ」

#8「成長したな」

#9「同窓会に行ける程度の仕事」

#10「洗いなさい」

#11「夫さん」

#12「社長が最近、男なんだよ。……こんなのおかしいよォ」

#13「私が『OL』という言葉を使うときの感覚は、たぶん黒人が『ニガー』って言うときと近い」

ヒラギノ游ゴ

ライター/編集者

関連するキーワード

関連記事

Latest Article