思わず笑ってしまったあとに
連載『そんなこと言うんだ』は、日常の中でふと耳にした言葉を毎回1つ取り上げて、その言葉を聞き流せなかった理由を大切に考えていくエッセイです。#7では、Twitterで目にした言葉から、楽しい他者理解、そして偏見と理解の境界線について考えていきます。
◼小粋なジョークか偏見か
今回取り上げる忘れられない一言は、Twitterを始めたばかりの頃に目にしたツイートだ。
その言葉の主は相互フォローの美大生。会ったこともない人で、彼女について知っていることといえば美大生であること、絵のタッチ、そしてオープンなレズビアンであることくらいだった。そんな彼女がある日何気なくツイートしていた軽口があって、今振り返るとその言葉をきっかけに1つ思考が拓けたところが大いにあるんじゃないかと思うのだ。
といってもその軽口というのはなんというか、なんとも取り扱い注意な言葉なのだけれど。こう言っていた。「腰からジャラジャラ鍵ぶら下げてる女は全員レズ」。
◼「腰からジャラジャラ鍵ぶら下げてる女は全員レズ」
確か彼女が新宿二丁目のビアンバーで夜遊びした翌日、内輪ノリの流れで投稿した言葉だった。筆者は思わず笑ってしまった。知らない世界の話だけれど、たぶんこれは一種のあるあるネタなんだろうということも、あえて乱暴に主語をでかくしているんだろうということもわかって可笑しかった。ただ、直後に嫌な感覚が襲ってきた。これって”アリ”なんだろうか? あるあるネタとしてウケていていいのか? 当事者が言っているぶんにはいいのか? でもこのステレオタイプってたぶん男役? の人っぽいからビアン全体ってわけではなさそうだし乱暴な気も……いやこれ自体ステレオタイプなのか……?
当時筆者は大学でジェンダーやセクシャルマイノリティについて勉強しはじめた頃だったけれど、レズビアンにしろゲイにしろ、当事者としてカミングアウトしている知り合いはいなくて、自分の生活の中に自然と存在するという認識にまだ至っていなかった。
いろんな思考が頭を駆け巡った末に気づいたのは、あまりにも知らなさすぎる物事についていくら考えを巡らせても、何も確かなことが言えずに黙るしかなくなってしまうということだった。「ウケる」も「それはないでしょ」も、一切何も言えなかった。思考停止ではなく、思考の着地点が見つからずにフリーズするような感覚。
そして同時に感じたのが、「これはとんでもなくおもしろいことなんじゃないか?」ということだった。彼女の軽口の内容がではなくて、こんなにもまったく感覚の掴めない物事があるということ自体がだ。この感覚を学んで自分の中に持てたら自分はどうなってしまうんだろう? 尊重できる人間の種類が増える。もうちょっと人間として豊かになれるんじゃないかと思ったのだ。
「鍵の話笑っちゃったんですけど、そういうもんなんですか…? あとなんか、部外者の自分が笑っていいもんなのかなとかいろいろ考えちゃいました」そんなようなことをリプライしたと思う。本人からすれば多少のことは許し合える身内ノリの中で出た言葉だろうから、彼女にとっても未知との遭遇だったかもしれない。
彼女は「もちろん与太話だけど」といった前置きをしたあとで、彼女の独断と偏見によるあるあるネタをいくつか、注意深く言葉を選びながら聞かせてくれた。このとき聞いたことはどれも新鮮だったし、怖くもあった。どんな分野でもそうだけれど、1人の人から聞いた情報だけで止まっていると認識が偏る。このままだといけないと思ったのもあって、筆者はこのあと積極的に当事者と交流して、知識を得て、語彙を増やしていった。
繰り返しの念押しになるが、今回取り上げた言葉は、その言葉自体に感動した、全面的に賛同するというものではない。こういった極端で差別を助長しかねない表現でも、入口として活かして理解を深めることができる。そう学ぶきっかけになったという点で忘れがたくて取り上げたものだ。
実際、当事者と交流を重ねていくうちにコミュニティの全体像や、最初に話を聞いた彼女の相対的な立ち位置がだんだんと掴めてくる。例えば彼女はいわば「二丁目に行くタイプ」であって、行かない・二丁目ノリが苦手な人も大勢いる、とか。コミュニティのムードや界隈の符丁などのカルチャー自体を嫌う人もいるというのは当時それなりに衝撃だったし、あらゆる分野に同じことが言える大きな学びになった。
こういった調子で、自分とは違った属性の人同士のちょっとした内輪ネタをきっかけにその属性についてのリテラシーを培っていくのは楽しくて、さまざまな分野で同じことをやり続けて今に至る。
最初から正しい・フラットな・品のいい情報に行き当たるとは限らないので、それなりに警戒はしつつ、楽しんで向き合えそうなところにリスペクトを持って飛び込んでいく。◯◯の気持ちを考えようとか、◯◯の立場になって考えようとか、そういう仰々しい促しかたではこういうふうにはならなかった。
◼楽しい他者理解
語彙が増えると世界の解像度が上がる。
上司に教わった「PDCA」、ゲイの友達が教えてくれた「ホゲる」、帰国子女の元カノが教えてくれた「アジ専」、ヅカオタの同僚が教えてくれた「すみれコード」、そういう各分野の聞き慣れない頻出単語が興味を引っ張って、知ることを前のめりにさせてくれる。そして知識の真贋が判別できるほどに量を蓄積して取捨選択、質を高めていく。そのうえで得た知識を得意げに使おうとせず、敬意を払って向き合っていくうちに体に馴染んで自分の言葉になっていく。喋るのはそれからだ。そして対話を重ねて交流し、実体を伴った自分の体験として血肉にしていく。踏むべき段階はとても多い。筆者自身できているかは自信がないが、知識が豊富な人ほど誠実に自分を疑っているので、このまま自分を疑い続けていこうと思う。
蓄積するほどの知識量もなく、見当違いの知識に基づいた借り物の言葉のまま表層をすくい上げて、全容を把握したと錯覚しているとよくないことになる。例のAマッソや金属バットの件を思い出す。彼女ら彼らも、自分たちの言った言葉へのリアクションを足掛かりに、今知識を深めているところだったら希望が持てる。救いのある話に落ち着いてほしい。
発酵と腐敗の違いは「人間にとって都合がいいかどうか」だという話がある。筆者は理解と偏見もそういうものだという感覚を持っている。
知識は「あるあるネタ」の蓄積によって形作られもするけれど、その使いかたを誤ると「これってこういうものだよね」という偏見の押しつけになる。ある場面では楽しいあるあるネタとして機能した言葉も、出しどころが違うと単なる蔑視になりうる。
この記事の初稿に筆者は「理解と偏見は紙一重」と書いたのだけれど、自分の持っている感覚と違う気がして消した。おそらく理解と偏見に境界線はない。グラデーションですらなく、同じものが理解に見えたり偏見に見えたりする。真摯に検討するのをサボるとすぐにバレる。あまりにも過酷だ。過酷だからこそ、新しい分野に楽しんで入っていけるきっかけを見つけられたら大きな希望になるはず。
Photo/Nanami Miyamoto(@miyamo1073)
ライター/編集者