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ボンテージとフレンチトースト

『そんなこと言うんだ』は、日常の中でふと耳にした言葉を1つ取り上げて、その言葉を聞き流せなかった理由を大切に考えていくエッセイです。#12では、なすすべもなく無力感を抱かざるをえなかった強烈な体験について描きます。なお、本稿に登場する人物の名前は仮名です。個人情報保護のため実際の人物設定に関しても変更を施しております。

ボンテージとフレンチトースト

■深夜のフレンチトースト

「これ、できたんじゃないか」
「見た目はそのものっすよね」

フライパンを覗き込む大学生2人は、数年後社会に放り出されてそれぞれそれなりに苦しむことになるのだけれど、今はまだ将来への不安に正面から向き合うこともできないほど幼くて、目の前の暇潰しに没頭していた。

大学近くのうらぶれたビジネスホテルの深夜帯のフロント業務。仕事内容はたまに来る客に部屋の鍵を渡し、外出する客からは預かる。それだけ。このアルバイトは数年来うちの大学の学生に受け継がれてきた、楽に稼げる働き口だ。

とにかく暇なので、学生たちは各々の個性を活かして退屈と向き合っていた。
この夜僕と先輩がチャレンジしたのは題して「限界料理」。最低限の調理器具と材料しかないこのホテルの狭いキッチンで協力しあい、いかに手の込んだ料理を作るかが我々の自己満足の指標になる。
我々は出勤早々に「ご用の方はこちらを鳴らしてください」の立て札とベルをフロントに置いて、裏のキッチンに引っ込んで創造的活動に取り組みはじめた。

このホテルにも一応朝食バイキングがある。米と食パンと業務用のキャベツの千切り、レトルトの煮物を大皿に盛って出すだけの粗末なもの。その調理のためのコンロ1口のキッチンで、卵かけご飯用の生卵、砂糖の代わりのガムシロップ、牛乳の代わりのコーヒーフレッシュをかき混ぜたものに食パンを浸して焼いた。先輩は焼き上がったフレンチトーストもどきを斜めにカットして、片方をもう片方に立てかけるように丁寧に盛り付けた。まともな料理みたいで僕は笑う。

味はフレンチトーストとは似ても似つかないひどい代物で、なのに不思議ともう1切れ欲しくなる中毒性で、2人して馬鹿みたいに笑った。
こんな馬鹿げた夜を何度も過ごして、モラトリアムにしがみつくことをお互いに許し合っていた。
そんなある日、あの人はベルを鳴らした。キッチンから駆け足でフロントに向かうと、そこには退屈をぶっ壊す劇的な存在が立っていた。

■ボンテージとスキンヘッド

フロント前に立っていたのは、ダルメシアン柄でハイレグのボンテージの上にピンクの毛皮のコートを羽織っためちゃくちゃな存在。
たっぷり長いまつ毛とくっきり濃いキャットラインが大きく反って空を向き、金に近い茶髪のロングヘアは腰まで届く。身長が高いうえに急角度のピンヒールを履いていて、全高はおそらく2メートルを超えていた。酒をかなり飲んでいるようで、上機嫌な表情だ。

そしてその横にはスキンヘッドの強面な中年が付き添っている。小柄ながら体が分厚く眼光鋭い。
なんだこの2人組は。東京の外れの、急行の停まらない街の、疲れたサラリーマンばかりが泊まるこのホテルにはかなり異質な存在だ。
あっけにとられていると、ピンクの毛皮を揺らしすごい高さのヒールをものともせずにまっすぐ歩み寄ってきて、大振りな車のキーをごとんとフロントに置いた。ダッジだ。日本には代理店がなく個人輸入するしかない、好事家が選ぶ外車。「ツインを1部屋」と言う声はよく通って、それを聞きようやく業務を思い出し、宿泊名簿への記入を促した。
長い髪を耳にかけて、さらさらと筆を走らせる。書き終えると宿泊名簿を黒いクレジットカードと一緒に差し出してきた。すべての所作が颯爽としている。

ところがここでイレギュラーな事態が発生した。宿泊名簿とクレジットカードの名前が違う。宿泊名簿には「赤坂友美」と書いてあるが、クレジットカードの裏には「赤坂友介」と署名があった。
そこで初めてしっかりと認識した。体格を見てなんとなくは感じていたが、彼女――本人から自認を知らされる機会は最後までなかったのであくまで暫定的に、”彼女”と称することにする――はおそらく男性の体で生まれた人。僕がきっと生まれて初めて出会ったトランスパーソン(※)だった。

気づきを得てしばし脳がどうしたものかとフル回転する。それを見て彼女は「ごめんなさい」とだけ言って名前を書き直そうと宿泊名簿に手を伸ばした。
ここで決断しなきゃ自分は嘘っぱちだと思った。

「いえ、大丈夫です」

思いの外大きな声が出てしまって、彼女は目を丸くした。

「大丈夫です。こちらで、大丈夫です」

繰り返した。半分以上自分に言い聞かせる言葉だった。今ここで彼女が彼女でいる邪魔をしたら一生後悔する。だってきっと、彼女は何度もそういう目に遭ってきている。「またか」って顔をさせちゃいけない。後で大人からこの判断を咎められるかもしれないが、ここで日和ったらおしまいだ。フレンチトーストもどきが4切れ詰まった腹を括った。
「友美」と書かれた宿泊名簿を断固離さないフロント係を見て、彼女はにこりと微笑んで「ありがとう」と言った。

■キャンピーな常連さん

それから赤坂さんは何度か泊まりに来るようになって、顔を合わせると二言三言会話した。スキンヘッド氏はたびたび本人のいないところで「うちの社長はさ」と赤坂さんの武勇伝を語って聞かせてくれた。まるで自分自身の自慢話のように語るその口ぶりから、敬愛の気持ちの強さが伺い知れた。
会話の中で知ったことだけど、赤坂さんはいくつもの事業を立ち上げている敏腕経営者で、スキンヘッド氏はその秘書らしかった。とびっきりの衣装でこの近くのバーにくり出して、週末の夜を楽しんでいるうちに電車がなくなるとうちのホテルに来る、という流れが常だった。

彼女のボンテージはダルメシアン柄のほか、虹色、ピンクのヒョウ柄、ミラーボールみたいなスパンコールづくめのものまでさまざまで、今にして思えばキャンプ(※)そのものだった。そしてこれも今にして思えばだけれど、彼女はあの華やかな衣装に身を包んで夜ごとドラァグ(※)なステージに立って自分を表現していたのだと想像できる。当時はそういったカルチャーを知らなかったから、ただただ衝撃的な人だった。

これは彼女自身にとって不本意な感想かもしれないので表現が難しいのだけれど、背が高く肩幅がありつつも、おそらく手術やホルモン剤による女性的なシルエットが混在する彼女の身体は、彼女が自力で切り拓いてきた半生そのもののようで切実な美しさがあった。
その身体を誇るように背筋をぴんと張った姿勢は、見ているだけのこちらにも誘爆して活力を奮い立たせるような強烈なエネルギーを帯びていた。

震災後の暗澹たる世の中で就活を経験した僕は社会に対してしっかり心を折られていて、働きながらあんなにも堂々と自己表現を楽しんでいる大人がいるんだ、ということに心底驚いた。

キャンピーの極みのような奇抜な衣装を、彼女自身の生き様や自信、覚悟のようなものがねじ伏せ、服従させるような着こなしに胸が熱くなる。
大学卒業後しばらくは望まない仕事を続けて自立して、じっくりと文章を書く仕事に就くチャンスを狙おうと思っていた僕にとって、威風堂々と自分の選択を誇って生きる彼女は1つの憧れであり、指標になっていた。

■本当の名前

それから大学を卒業して、さらに3年が経った頃だ。その頃の僕は新卒で入った会社を辞め、ライターとしての仕事にはありつきつつもそれ1本では食えないといった状況。社会的にいえば「フラフラしていた」と言うほかない時期にあった。
そんな折、あのおんぼろビジネスホテルの副社長から電話があった。
今晩出勤予定の子が急に来られなくなって他に頼れる人がいないんだけど、代わりに出勤してくれないかということだった。フラフラと相談に乗った。

久しぶりの我らがおんぼろビジネスホテルは何も変わっていなかった。バイトの人材も相変わらずモラトリアム全開の馬鹿大学生、うちの大学の後輩たちだ。
とはいえもう在学時期のかぶっていない20歳にどう接しようかと気後れしていると、初対面の後輩は半ば羨望の眼差しで

「先輩、バイト中にフレンチトースト作ってたんですよね。伝説ですよ」

と話しかけてきた。
バイト先で好き勝手やっていた馬鹿丸出しのエピソードが語り継がれていること自体は心から恥じたけれど、妙な安心感もあった。このホテルがモラトリアムを延長してフラフラしている自分を許してくれる場のような心地がした。

「めちゃくちゃうまいって評判聞いてるんです。あとで作ってくださいよ」

満更でもない気分でレシピを思い出している中、来客があった。赤坂さんだった。

ただ様子がおかしくて、以前のように声はかけられなかった。彼女はスーツを着ていたのだ。何の遊び心も変哲もないビジネススーツ、それもメンズスーツだ。

少し遅れて、裏の駐車場に車を停めたスキンヘッド氏が入ってきた。こっちは何一つ変わらない風体でなんだかホッとした。スキンヘッド氏は見覚えのあるフロント係に気づいて「あっ」という顔をしたけれど、何か言いたげな顔で俯くばかりだった。どうした? 何があった?

赤坂さんはふらふらとフロントに歩み寄って、無言で宿泊名簿に記入しはじめた。以前であればヒールをかつかつと鳴らして威風堂々と歩いていたのが、明らかに不健康そうで、手が震えていた。動きにまるで生気がない。単に酔っているだけなのか?

一体何が起こっているのかわからなかった。覚えてますか、3年前ここでバイトしてた者です、とはとてもじゃないが言える雰囲気ではなかった。何かが、何かがおかしい!
鼓動が速くなるのを感じる。なんだか吐きそうだ。
赤坂さんがほとんど読み取れない、指に力の入っていない筆致で宿泊名簿に記入を進めるのを呆然と見ていた。しばらく待って、書き終えたものを受け取る。
氏名の欄には「友介」と書かれていた。

ヒラギノ游ゴ

ライター/編集者

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