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そんなこと言うんだ#1 「ママ、いろんなことがわかんなくなっちゃうから」

ライター・編集者のヒラギノ游ゴによる連載『そんなこと言うんだ』が始まります。日常の中でふと耳にした言葉を毎回1つ取り上げて、その言葉を聞き流せなかった理由を大切に考えていくエッセイです。#1では、とある1人の女性の「ママ、いろんなことがわかんなくなっちゃうから」という言葉について。

そんなこと言うんだ#1 「ママ、いろんなことがわかんなくなっちゃうから」

「私のことか、一瞬わかんなかった。名前で呼ばれたの久しぶりだから」

筆者から友達のりっちゃんへの「りっちゃんはさ、子供産んで何が一番大きく変わった?」という質問に対する答えがこれだ。
答えになってない答えだけれど、これこそがまさに答えなのかもしれない。"名前が変わった”。

3年前に結婚してまず苗字が変わった。2年前に出産してからは下の名前も変わったようなもので、彼女が今一番よく呼ばれる名前は「ゆうくんママ」だ。夫でさえも最近はりっちゃんのことを「ママ」と呼ぶらしい。

「そのアイラインの描き方かわいいね」と声をかけた初対面の日、りっちゃんが「こういうの猫目メイクっていうんだよ」と教えてくれたのをずっと忘れないと思う。雪の日に真っ赤なコートを着てきたあの色彩も鮮明に覚えてる。好き勝手動いて自分がイったらさっさと眠る豪傑みたいなセックスも彼女らしくてなんだか愛おしかった。
彼女がりっちゃんと呼ばれていた頃の記憶はどれも、思い出にしてしまうにはあまりにも本質的な彼女らしさを象徴してるように思える。

でも、家庭とか、役割とか、年齢とか、そういう1つずつのドミノが倒れていって、彼女をりっちゃんじゃない何者かにさせようとする。なんだかいやだ。筆者は彼女が望むと望まざるとにかかわらず、倒れないドミノの最後の1枚でいたい。

前置きがどうにも長くなったけれど、ここからが本題。ゆうくんママの話はここまでで、ここからはある「たっくんママ」の話をする。

■あるたっくんママの話

2017年のフジロックは、3日間通して晴天の時間帯が一度もなく、曇りか小雨か大雨かという調子だった。
語るべきアクトはいくつもあったけれど、例えばそのうちの1つ、小沢健二のステージは開場前からすでに人がごった返して、格別の熱気を孕んでいた。

Death Grips(調べなくていい。字面の通りの音楽性のグループだ)のライブを観終え、小沢健二の出番までホワイトステージ後方で休憩していた筆者は、客席にボーダーのカットソーやベレー帽を身に着けた30代くらいの女性の姿が目に見えて増えていくのを感じていた。
90年代、小沢健二が頻繁に誌面を飾った雑誌『Olive(オリーブ)』でよく見られたリセエンヌ(フランスのスクールガール)スタイル。かつて俗に「オリーブ少女」と呼ばれていたあの子たちの今の姿かもしれない。

そんな中、右斜め前に陣取っていた女性の声がふと耳に入った。彼女は抱っこした6歳前後の子供に語りかける。

「たっくん、あのね、これからオザケンさんっていう人がここに来るの」
でね、とたっくんママが興奮気味に続けた。
「オザケンさんが出てきたらもう、ママ、だめだから。ママ、いろんなことがわかんなくなっちゃうから。だから、自分のことは、自分でがんばろう? ね!」

詩だ、と思った。
「ママ、いろんなことがわかんなくなっちゃうから」。
青春を彩った存在であろう小沢健二のステージを20年越しに観る。その興奮が端的に表現されていた。

そして、嘘だ、と思った。
「わかんなくなっちゃう」というのは嘘だ。判断能力自体が霧散するわけじゃない。これは「責任を放りだすからな」という宣言だ。だとしたら誰に向けての宣言なのか。たっくんなのか、もっと広く世の中に向けてなのか?

このときばかりは母親でいたくないのかもしれない。オザケンさん以外の何もかもが、彼女にとって二の次になる。たっくんでさえも例外じゃない。
観やすさを犠牲にして人が殺到しないエリア後方に陣取り、子供をそばに置いて最低限の安全を確保したうえでこれを言ってる彼女を、無責任だなんて誰にも言わせたくないと強く思った。

■オザケンさん登場

それからたっくんママ、たっくん、筆者を含む大勢の観客は、オザケンさん登場までの1時間近い待ち時間を小雨の降る中過ごしていた。

たっくんはぐずる。
「ママ、オザケンさんまだ?」

たっくんはぐずる。
「ママ、オザケンさんもう来ないよ」

たっくんはぐずる。
「ママ、オザケンさん、おうち(に帰ったん)だよ」

たっくんママは無視してたっくんの頭を撫で続けた。

そして辺りがほの暗くなった頃、ステージ開始の合図とともにとてつもない歓声が上がる。ほどなくして、舞台照明がオザケンさんの姿を照らしだした。
瞬間、たっくんママが叫ぶ。

「健二く〜ん!!!!!」

勝手に目頭が熱くなってしまった。
子供向けの「オザケンさん」という呼び名の距離感を捨て、あの頃と同じように「健二くん」と叫んだ彼女は、由美なのか里香なのか知恵なのかわからないけれど、この瞬間に自分の名前を取り戻したのだと思った。ママじゃないひとりの存在として。

無責任に自分のアイドルの名前を叫んでる彼女は、その瞬間確かにただの名もなきオリーブ少女だった。妙な話だけど、名もなき存在に還ることで、逆に彼女は名前を取り戻した。
でも、母親ってここまで状況が整わないと名前を再獲得できないのか? と翻って考えると怒りも湧く。勝手な勘繰りは大概にしたいけど、たっくんパパがこのときどこで何してたんだろうなっていうのはやっぱり気になる。頼む! 下の子と一緒に別のステージにいてくれ!
ともあれ、とんでもない言葉を聞いてしまった。

筆者の感情はイントロでピークを迎えてしまったけれど、ライブ本編もまた強く感情を揺さぶるものだった。
『ぼくらが旅に出る理由』『ラブリー』ほか、往年の名曲を連打したこと。
スチャダラパーを客演に迎えアンセム『今夜はブギー・バック』を披露したこと。
そこから地続きに演奏した新曲の中に、父親としての小沢健二が垣間見える曲があったこと。
また、フリッパーズ・ギターのかつての相棒・小山田圭吾が同時間帯に別のステージでライブをやってること。

どれもこれもたっくんには何の感慨もないだろう。筆者もリアルタイムで彼の音楽に触れた世代じゃない。けれど、このライブでおこなわれてることの重要さというか、意味の強度みたいなものは十二分に理解できた。いわんやたっくんママの心境は想像に難くない。たっくんママの表情は見られなかった。心がめちゃめちゃになってしまいそうだったから。

筆者は彼女の切実な言葉を聴いてしまった人間の仁義として、目の届く範囲のすべての人の「わかんなくなっちゃう」瞬間を邪魔しないでいたいと思った。これを読んだあなたもできれば協力してほしい。必要なときに、みんながちゃんとわかんなくなっちゃえるようにしたい。

まずは身近なところから、ゆうくんママがりっちゃんに戻る瞬間、「わかんなくなっちゃう」ときはどんなときなのか、今度会うときに訊いてみようと思ってる。

Photo/Nanami Miyamoto(@miyamo1073

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#1「ママ、いろんなことがわかんなくなっちゃうから」

#2「あたしが一番悪い!」

#3「顔むくんでるね」

#4「女呼ぼうぜ」

#5「ちゃんと話を聞いてくれる人」

#6「シンプルな子たち」

#7「腰からジャラジャラ鍵ぶら下げてる女は全員レズ」

#8「成長したな」

#9「同窓会に行ける程度の仕事」

#10「洗いなさい」

#11「夫さん」

#12「社長が最近、男なんだよ。……こんなのおかしいよォ」

#13「私が『OL』という言葉を使うときの感覚は、たぶん黒人が『ニガー』って言うときと近い」

#14「うん、野球強いからさ」

#15「私、名誉男性かもしれない」

#16「常に刺激を与え続けてくれた後輩たち」

#17「帝京ファイト!」

ヒラギノ游ゴ

ライター/編集者

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