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変化はオワコンではなく進化。きゃりーぱみゅぱみゅが歩んできた後悔のない道のり

DRESSの『運命をつくる私の選択』は、これまでの人生を振り返り、自分自身がなにを選び、なにを選ばなかったのか、そうして積み重ねてきた選択の先に生まれた“自分だけの生き方”を取り上げていくインタビュー連載です。今回のゲストは、アーティストのきゃりーぱみゅぱみゅさん。

変化はオワコンではなく進化。きゃりーぱみゅぱみゅが歩んできた後悔のない道のり

2021年にデビュー10周年を迎えたきゃりーぱみゅぱみゅさんは、世界的なアーティストが集まる音楽フェスに出演するなど、現在も第一線で活躍を続けています。「きゃりーぱみゅぱみゅとしての活動を続けてきたこの10年の間に、後悔したことはひとつもありません」……そう力強く語るきゃりーさんの人生にはどのような選択があったのでしょうか。彼女の幼少期から現在に至るまでの軌跡を追いかけました。

ヘアメイク       :ナリタミサト
スタイリスト      :CHISAKI GOYA
取材・文        :仲奈々
写真          :池田博美
編集          :小林航平

■「中華料理屋で謎のメンタルを発揮」好きを表現して生きたいと思った理由

ーーきゃりーぱみゅぱみゅさん(以下、きゃりーさん)は、ジャパニーズポップカルチャーのアイコンとして、日本のみならず、世界を舞台に活躍されていますよね。小さいころからご自身の中にある思いや感情を表現することが得意だったのですか?

子どものころは、人前に出ることがとにかく苦手でした。泣き虫で甘えん坊で……外に出るときは常にお母さんにしがみついて歩くようなタイプでした。幼稚園の友達におもちゃを奪われても言い返せずに、隅っこで泣いているとか、自己主張が苦手な子どもだったと思います。

小学校に入ってからは男の子の友達が多かったこともあり、虫取りとかベイブレードとか当時の男子たちが楽しんでいた遊びをよくしていました。そのせいか、周りからは元気で明るい子に見られていたと思います。でも、人前に出ることはあいかわらず苦手で。作文発表会みたいな行事があるときには、学校を休みたいなぁって思っていました。

ーー今では何十万人もの前でパフォーマンスすることもあるのに……! 人前に出るようになったのは、なにかきっかけがあったのですか?

高校生になって、ファッションに興味を持ったことがきっかけですね。中学までは田舎の学校に通っていて、服やメイクに触れる機会があまりなかったんです。高校で都会の学校に入学したのですが、これまで出会ったことがなかったおしゃれな子たちがたくさんいて。そこからファッションに興味を持ち始めました。

最初は友達からメイクや服を教えてもらっていたのですが、なんだか誰かのマネっ子をしているような気がしていまいちピンとこず……。たとえば、ギャルの格好をしても友達は似合っているのに私はなんだか着せられている感じがあって。おしゃれをするのは楽しいけど、自分に合うものがわからない。モヤモヤしているときに原宿に行って、雷が落ちたような衝撃を受けたんです。

ーーどんな衝撃だったのでしょうか?

当時の原宿には、私が出会ったことのないスタイルを持った方々がたくさんいたんですね。ロリータの格好をしている人もいれば、モード系の人もいる。同時にどんな人からもファッションを通じて「自分らしさ」がにじみ出ていて、めちゃくちゃ感動したんですよね。この街にいる人たちは、好きなことで自分を表現している人たちなんだ! って。

原宿の文化に触発されて、私も自分の「好き」を全身で表現してみたいと思うようになったんです。パステルカラーのカラフルな洋服や金髪のウィッグを身につけるようになったのはそこからです。世間が思い描く“きゃりーぱみゅぱみゅ”のイメージの原点は、当時感じた衝撃の中にあったのかもしれません。

ーー「シャイな性格」とおっしゃっていましたが、目立つファッションをして見られることに対する抵抗はなかったのでしょうか?

たしかに。ファッションに関しては、逆に「私を見てほしい」と思っていたような気がします。自分の“好き”を詰め合わせたものだったから、「私の好きなもの見て! かわいいでしょ!」という気持ちだったのかも。

ーー“好き”に向き合う気持ちがきゃりーさんを変えたのですね。

そうかもしれないですね。高校時代、地元の中華料理屋さんでアルバイトをしていたのですが……。中華料理だから、中国っぽい髪型でお店に出たら絶対かわいいと思って、シフトのたびに頭の高い位置でふたつお団子を作って出勤していたんです。でも、身だしなみのルールが厳しいところだったので、毎回店長さんには注意されて。それでもめげずにお団子ヘアーを貫いていたら、常連のお客さんたちが「お団子ちゃん」というニックネームでかわいがってくれるようになったんです。

中学生までの私だったら、一度注意されたらルールに従っていたと思います。でも、自分の好きなことをやってお客さんも喜んでくれるならいいんじゃない? と、そのままお団子ヘアを続けるという謎のメンタルを発揮していて。お店からすると、ルールを守らない問題児ですよね。当時を振り返ると、私のわがままで困らせてしまったことも多かっただろうなと思います。

ただ、言葉で表現するのが苦手な分、ファッションで自分を表現することが楽しかったんですよね。

■母と父が作ってくれた、きゃりーぱみゅぱみゅの軸

ーーファッションで自己表現することに魅了されてから、大きく変化があったかと思います。きゃりーさんをよく知る周囲のひとたちの反応はどうだったのでしょうか?

周りからすると、「地味だった子が都会の高校に行って急に派手になった」パターンとしてよく心配されていました。特にお母さんには心配をかけて、よくぶつかっていましたね。けんかしてメイク道具を一式捨てられそうになったこともありました。

ーーお母さんは変化したきゃりーさんのどんなところを心配されていたのでしょうか?

お母さんは私を“普通”の子に育てたかったんですよね。私が高校生だったのは10年前で、当時は“個性”や“多様性”を尊重しようという社会の意識も希薄だったので。地元の高校に通い、大学に進学し、就職して結婚……少し前まで、そういう人生が“普通”とされてきたじゃないですか。けれど、田舎の街で金髪のウィッグを被って目立つメイクをしている私はその“普通”から外れてしまっていて、軌道修正しなきゃ幸せになれない……。そうお母さんは心配してくれていたんですよね。周囲から「あなたのお子さん、変ですよ」「大丈夫なんですか?」と言われたこともある母の状況を考えると、その気持ちもわからなくはないんですけど、当時は私の好きなものを認めてくれない母がうっとうしくて、衝突することも多かったです。

ーーそれでも、高校の途中からは読者モデルを始めたりと、ファッション活動の幅を広げています。お母さんとの関係にはどのように折り合いをつけていったのでしょうか?

外出するときは、家から最寄りの駅までは“普通”の格好をして、駅のトイレで着替えてたり、メイクをしたりしてから出かけることで納得してもらっていました。もちろん、自宅に戻るときはまた最寄り駅のトイレで着替えてメイクを落として。それを高校3年間続けていたんです。実は、お父さんがお母さんを説得してくれて「周りの目に触れないように、駅で着替えてから外出してくれるなら……」と納得してくれたみたいで。

ーーお父さんはきゃりーさんの変化に理解を示してくれていたのですか?

そうですね、いろいろ応援してくれました。お母さんに内緒で金髪のウィッグを買ってくれたのは実はお父さんなんです(笑)。

お父さんは興味の幅がとても広い人なんですね。私に「かっこいい音楽をやっている人たちがいるから聞いてみて」とCAPSULEやPerfumeを教えてくれたのはお父さんなんです。私の想像ですけど、お父さんは自分の“好き“を大事にする人だから、私が周りとぶつかりながらも“好き”を貫こうとしている姿を応援してくれたのかもしれません。

ーーきゃりーさんの軸の形成には、お父さんの影響があるのですね。

私の音楽の趣味へ与えた影響は特に大きいですね。ただ、ほぼ社会人経験のないままデビューしてなんとかやっていけたのは、お母さんが私に根気強く礼儀やマナーを教えてくれたからだと思っています。ふたりの存在があったからこそ、今の私がいるんです。

■デビューから10年、後悔したことはひとつもない

ーーきゃりーぱみゅぱみゅとしてデビューしたきっかけはなんだったのでしょうか?

読者モデル仲間のフィッティング(※1)に付き添いで行ったとき、アソビシステムの社長と出会ったんです。そこで「普段どんな音楽を聞くの?」って聞かれて「CAPSULE(※2)」って答えたら、それがきっかけで社長から中田ヤスタカさんを紹介していただいて、きゃりーぱみゅぱみゅとしてデビューが決まりました。実はそのとき、YUKIさんとCAPSULEが同じくらい好きで、どちらを答えるか迷っていたんですよ。もしあのとき「YUKIさん」って答えていたら全然違う人生を歩んでいたのかな……と思います。これが私にとっての“運命の選択”でしたね。

※1フィッティングモデル:サイズや着心地、シルエットやパターンなどを確認するために制作段階の洋服を実際に試着をするモデルのこと

※2CAPSULE:音楽プロデューサーである中田ヤスタカさんと、ボーカルのこしじまとしこさんによる音楽ユニット


ーーなぜ「CAPSULE」と答えたのでしょう? 今後アーティストとして活動するうえでの戦略があったのでしょうか。

いえ、戦略とかはまったく考えていなくて、なんとなく答えました(笑)。私、プライベートも仕事も関係なく直感的に選択をすることが多くて……。たとえば、2021年はきゃりーぱみゅぱみゅ10周年の年だから、戦略を立てたりマーケティングをしたりしなきゃいけないのかもしれない。でも、私は面白いことができればそれでいいかなぁって思っているんです。戦略とかは考えずに、ワクワクレーダーに従って素直に突き進んできた結果が“きゃりーぱみゅぱみゅ”だから。

ーーきゃりーさんが常に心からワクワクすることに取り組んでいるからこそ、ファンの人にもそれが伝わっている気がします。

そうだとうれしいですね。でも、新しいことを始めるときには不安もあります。ワールドツアーを初めて開催したときは、「海外で私のファンなんているわけないだろう」とネガティブな気持ちでいっぱいでした。いざ開場してみると、海外でも多くのファンの方たちがいることを知って。普段そんなに自信があるタイプではないのですが、ファンの方たちのおかげで「私のやっていることは間違っていない」と少しずつ自信が持てるようになりました。

ーー当時のきゃりーさんは、少し前まで普通の高校生だったところから、ものすごいスピードで世界的なアーティストになりました。“自分の好き”が世界中で表現されていくのと同時に、これまでの自分ときゃりーぱみゅぱみゅとしての自分にギャップを抱えることもあったのではないでしょうか?

ギャップはものすごくありました。広い会場でライブができるようになったり、ワールドツアーを成功させてテレビのニュースで取り上げられたりしても、うれしい反面なんだか寂しい気持ちがあって。「きゃりーぱみゅぱみゅはこんなに成功しているんだから、つらいことなんてなにひとつないはずなのに!」と思いつつ、きゃりーぱみゅぱみゅが有名になればなるほど虚無感が膨らんでいったんですよね。

当時は気が付かなかったのですが、あのときは私のほとんどがアーティスト“きゃりーぱみゅぱみゅ”で作られていて、本名の“どこにでもいる平凡な女の子”の私の居場所がなかったんです。有名になればなるほど、周りの人が私のことを「きゃりーちゃん」と呼ぶようになって。私を本名で呼んでくれる人は、お父さんとお母さんのふたりしかいない、なんて時期もありました。

ただ、ここ数年は本名で呼んでくれる友達も増えてきて、“きゃりーぱみゅぱみゅ”と本名の自分のバランスが取れるようになってきたなと感じています。プライベートではPerfumeのあ〜ちゃんと仲が良くて、ふたりで外で合うときはお互いを本名で呼ぶんです。人目の多い場所で「きゃりーちゃん」「あ~ちゃん」と呼び合っているとさすがに目立つかな……という気がして。

きゃりーぱみゅぱみゅとして有名になっていく過程で、自分の本名が失われていくことに不安を抱いた時期もありました。でも、今は芸名と本名が違うからこそ、仕事とプライベートを切り離しやすくて便利じゃん! と思うことも増えましたね。

あとは、昔からの友達と遊ぶ時間を大事にすると、本名の私が満たされるなぁって。芸能界で成功すると、個室でしかごはん食べませんとか、ハイブランドしか身に付けませんとか、そうなってもおかしくないじゃないですか。もちろんそれは決して悪いことではないけれど、高校時代から仲の良い子と、フリータイムでカラオケをしたり、カウンターで牛丼食べたりする時間があるからこそ、私は本来の自分を少しずつ取り戻せたのかなって思うんです。

――そういった関係性がきゃりーさんの原点を守ってくれているんですね。

昔、歌番組の収録が終わった後とかに、とある出演者さんが周りのスタッフさんに「めっちゃかわいかった!」「最高!」みたいなことを言われているのを見かけたんですけど、私の場合はなんか「おつかれっしたー」しか言われない(笑)。現場の中で毎日「かわいい」とか「天才だ」とか言われていたら勘違いしていたかもしれないですけど、親や友達、スタッフの方々も含めて、きゃりーぱみゅぱみゅをもてはやさなかったことも影響していると思います。自分の原点を見つめて大切にすることができたのは、そういう周りの人たちとの関係があったからですね。

だからこそ、きゃりーぱみゅぱみゅとしてやってきたことで後悔していることはなにひとつとしてないんです。きゃりーぱみゅぱみゅは私が「面白そう」「楽しそう」と思ったことをとことんやらせてもらっているプロジェクト。他のアーティストさんからは、「事務所の意向で仕事が決まるので、自分のやりたいことばかりできるわけじゃない」というお話も結構聞くんです。私の事務所は私が好きなことを実現できるようにサポートしてくれるので、本当にありがたいなと思います。

ーー現在のきゃりーさんは好きを追求した結果第一線で活躍し続けていますが、もし、きゃりーぱみゅぱみゅが売れていなかったとしたら考えは変わっていたと思いますか?

好きを追求した結果、もし売れていなかったとしても後悔はしていないと思います。仮にデビュー曲だけリリースして引退することになっても、「大好きな中田ヤスタカさんに楽曲を提供してもらえたなんていい経験できたな〜」って思うはず(笑)。好きなことばかりやっているからこそ、どんな結果になっても「楽しかったな」と思えるんじゃないですかね。

■“きゃりーぱみゅぱみゅ”はさまざまな価値観が集まるひとつのチーム

ーーこれまでのお話から、“きゃりーぱみゅぱみゅ”はきゃりーさんひとりではなく「チーム」で活動しているという意識が強いのかなと感じたのですが、いかがですか?

そのとおりです。“きゃりーぱみゅぱみゅ”はチームで、私はチームのリーダーだと思って活動しています。私の好きなことを表現するチームだからこそ、メンバーのサポートなしでは実現できない。だから、ファンの方から「今回のライブとても良かったです」と言われると、「うちのチームすごいでしょう!」と答えてしまうんですよね。

ーー“きゃりーぱみゅぱみゅ”は自分とは別の存在として、客観視しているのでしょうか?

そうかもしれない……。だから、きゃりーぱみゅぱみゅが成功すればするほど息苦しさを感じてしまった時期があったのかも。私自身はすごいわけじゃないのにって。

でも、メイクをして衣装を着てステージに立つと、チーム“きゃりーぱみゅぱみゅ”のリーダーとしてのスイッチが入ります。私はこれを「戦わないセーラームーンモード」って呼んでいて(笑)。ファッションを変えることで、普通の女の子モードからアーティストモードに切り替わるんです。

ーーチームをまとめるリーダーとしては、何か意識されていることはありますか?

前に進めるチームであるように、人間関係のトラブルはできるだけ回避するように気は配っています。チームの人数が増えれば増えるほど「この人苦手かも」と思う人がいると思うのですが……。苦手だと感じた部分をポジティブワードに言い換えるようにしているんです。「馴れ馴れしい人だな」と思ったら「積極性がある人だな」に変換する、とか。

以前の私だと、最初の印象で苦手だなと感じてしまえば、それ以降その人とはできるだけ関わりを持たないよう過ごしていました。でも、自分の思考を柔軟に変化させた方が、自分も相手もハッピーだよなと気付いて。じっくり話をしてみると意外と話が弾んでそこから仲良しになる、なんてことも実際にあったんですよね。

ーー柔軟に思考を変化させようと思ったのは、なにかきっかけがあったのでしょうか?

一時期、レコード会社に所属していない時期があって、これまで埋まっていたスケジュールに立て続けに空きが出たんです。それがきっかけで、私がこれまでテレビに出れていたのも、ライブができていたのも、実はすごいことだったんだって気付いて。私が当たり前のように立っていたステージは、裏で誰かがチームのためにがんばってくれた結果だったんですよね。

チームにはいろんな価値観の人がいます。でも、みんな“きゃりーぱみゅぱみゅ”をファンに届けたい、という気持ちは共通しているんです。チームメンバーが気持ちよく仕事をすることで、ファンにもより良いものを届けられるようになるはず。そう思って、チームメンバー一人ひとりと接するようにしています。

■「変化」はオワコンではなく「進化」

ーー2021年の1月には、新レーベル「KRK LAB」を設立されましたよね。音楽の枠を超えていろいろな実験をしていく場になるんだとか。

これまでは音楽一本でやってきたのですが、これからはもっと活動の幅を広げたいなと思っています。音楽以外にも、面白そうなことにはどんどんチャレンジしていきたいですね。

ーー変化の多い1年になりそうですね。

私、「変化」は「進化」だと思っていて。たくさん変化して、チーム“きゃりーぱみゅぱみゅ”を進化させられたらいいなと思っています。

実は、ちょっと前まで変化が怖くなってしまったときがあって。きゃりーぱみゅぱみゅのイメージって、今でもデビュー当時の「パステルカラーのワンピースにハイトーンの髪、そして頭にはリボン」を持たれていることが少なくないんです。実はその格好は、デビュー後の2年間くらいしかしていないんですけど……。

そのイメージが強すぎるせいか、髪を黒くしたり、落ち着いたファッションをしたりすると、「原宿系を辞めたきゃりーはオワコン」と言われることもありました。私としては変化を楽しんでいるつもりなのに、世間はなかなかそう受け取ってくれなくて。「変化しないほうがファンのためなのかな」と、悶々としていた時期もありました。

でも、好きなものだってその時々で変わっていくんだから、好きなことを続けていくなら変化しなくちゃいけない。そして、変化がないと進化もできない。そう思ってKRK LABを立ち上げました。

ーーKRK LABの設立のほか、新型コロナウイルスの流行もあり、かなり変化の多い年だったのではと思います。具体的にどんな変化があったのでしょうか?

そうですね……。計画していたツアーやフェスが中止になって、時間に余裕ができました。中止になった当初はショックを受けたんですけど、よくよく考えてみるとデビューから10年、こんなに時間がとれたことはなかったなって。これまではステージ上でひたすらアウトプットをし続けていたので、今は空いた時間でインプットをしています。映画やドキュメンタリーを観たり、本を読んだり……。あと、家にいる時間が増えたので「丁寧な暮らし」にもチャレンジしているんです。そしたら観葉植物にはまって、今17個の植物を育てています(笑)。

インプットの時間が取れるようになって、自分の引き出しも増えた実感もあります。新しい引き出しを使って、これまでになかったような取り組みにもチャレンジしたいですね。最近は、もともと興味のあった香りやヘアケア用品のプロデュースを始めました。

2022年はツアーも計画していて、そこでも新しい試みができればと思って画策中です! 私の変化をファンの方たちに楽しんでいただけるように、進化していきたいです。

きゃりーぱみゅぱみゅプロフィール

高校を卒業した2011年夏に、ワーナーミュージック・ジャパンから、中田ヤスタカ(CAPSULE)プロデュースによるミニアルバム「もしもし原宿」(8月17日発売)でメジャーデビュー。2012年5月にリリースした初のフルアルバム「ぱみゅぱみゅレボリューション」は、オリコンデイリーチャート初登場1位、さらにiTunesでも日本総合チャートや世界各国のエレクトロチャートで1位を獲得。その後、自身初となる全国ツアー、日本武道館単独公演、NHK紅白歌合戦初出場と快進撃を続ける。そのかわいい容姿からは想像がつかないほど自由奔放で、オリジナリティ溢れる表現でファンを魅了し続けている。アーティスト活動とファッション面での活動を掛け合わせた、『HARAJUKU』のアイコンとしての存在が、全世界から注目を集める。

【衣装クレジット】

全て/ジーヴィ ジーヴィ(ケイスリー オフィス)

【お問い合わせ先】

ケイスリー オフィス
03-3464-5357

DRESS編集部

いろいろな顔を持つ女性たちへ。人の多面性を大切にするウェブメディア「DRESS」公式アカウントです。インタビューや対談を配信。

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