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冷たい麦茶と、静かな物語【TheBookNook #51】

夏の余韻を抱えながら、冷たい麦茶を片手に静かな物語を楽しみませんか。本連載「TheBookNook #51」で八木奈々さんが選ぶのは、小川洋子『博士の愛した数式』、重松清『流星ワゴン』、吉本ばなな『キッチン』。心に波紋のように沁みる三冊をご紹介します。

冷たい麦茶と、静かな物語【TheBookNook #51】

文 :八木 奈々
写真:後藤 祐樹

突然ですが、グラスの内側をゆっくりと雫が滑り落ちていくのを想像してみてください。冷たい麦茶を一口含むと、喧騒が遠のき、夏の午後だけに訪れる柔らかな静けさが広がります。

そんなときに私が手を伸ばすのは、ページを急がせない物語

声を潜めるように語られ、淡くも深く心に沁みてくるその物語たちは、大きな衝撃がなくてもそこに確かに息づく人の思いや記憶を静かな波紋のように体の内側に広げていきます。

そう、まるで暑い夏に冷たい麦茶を流し込んだ時みたいに。

夏の海辺に積まれた本のイメージ

今回は、人込みをかき分けて静かに浸りたい物語を三作品をご紹介させていただきます。

きっと読み終えた後の静けさが、夏の終わりの記憶となってそっと溶け込んでいくはずです。

1. 小川洋子『博士の愛した数式』

小川洋子著の博士の愛した数式

「君の靴のサイズはいくつかね」……ただの数字がこんなにも美しく、そして温かいものに思えるなんて。

この作品では、記憶が80分しかもたない博士の日常が、数字のきらめきと共に儚くも美しく描かれています。

家政婦である“私”と、その息子のルート。そして博士の3人の交流に胸が温まるのはもちろん、個人的には「地の文」にうっとり……

物語の中で、新たな数式や法則に出会うたび、博士の心が伝わってきます。

映像化もされた言わずと知れた名作ですが、まだ原作を読んでいない方はぜひ、文字で読むことを全力でおすすめします。

博士を取り巻く日常と、その危うさ。いろいろな形の愛。たとえ記憶は消えても、人の心の奥底にはぬくもりが確かに息残ることを証明してくれました。

正直、どんな言葉を並べてもこの作品の素晴らしさを表せそうにはありません……

私たち読者にできることは、ただ黙って小川洋子さんの包容力に抱かれるのみ。読み進めるうちに終わりが見えてきますが、それでも、博士との美しい関係性は変わらないと、どこか納得できてしまいます。

記憶には時間の制限があるけれど、博士の愛する者もまた時間を刻む数字だということに気づかされた瞬間、涙が頬を伝いました。

1秒でも長く浸っていたい世界。きっとあなたも一度読めば博士との空間が好きになり、二度読めば博士に数学を一から教えてもらいたくなるでしょう。

あなたの靴のサイズはなんですか……?

2. 重松清『流星ワゴン』

重松清著の流星ワゴン

「もう死んじゃってもいいかなぁ」……どこまでも真っ直ぐな重松さんの世界観が“冷静”を叩いてくる、本作品。

家庭も仕事も最悪の状態……そんな38歳の僕の前に現れたのは、五年前に事故死した父子の乗るワゴン車。

よくあるタイムスリップものと侮ることなかれ。長編でありながら、だれることなく最後まで読ませるのが上手く、物語の中に強烈に引き込まれていきます。

初めて読んだのはずいぶんと昔ですが、今でもとあるシーンが鮮明に目に焼きついています。そう、私の中では、文字から映像が鮮明に見えた何度目かの作品なのです。

リストラ、浮気、家庭内暴力……崩壊した家族の再生。その壮絶なテーマとは裏腹に、大人になっても知らないことがたくさんあること、大人になったせいで分からなくなってしまうことがあること、そんな当たり前の事実に気づかせてくれる、静かで優しい物語。

もう一度言います。時空を越えた旅でも、ただの楽しいファンタジー作品でもありません。あのとき、あの選択をしなければと人生の選択に後悔したとき、その岐路に立ち戻って違う選択ができるとしたら。

ただ、行動を変えられるだけでは、「事」の顛末は変わらないかもしれません。それでも、それでもなお、戻ってやり直したいこと、伝えたいこと、あなたにはありませんか?

私はこの本を読んで初めて、戻りたい瞬間を見つけました。そして、その瞬間が私にとって大切な記憶だと気づかされました

きっとあなたも読後、今近くにいる人にあの言葉を贈りたくなるでしょう。

3. 吉本ばなな『キッチン』

吉本ばななさんが書いたキッチン

「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う」……大切な人を亡くした人たちが、その苦しみを乗り越えていく姿を描く本作品。

ひとり残される孤独さがリアルに描かれていて、読んでいると苦しくなりますが、それだけでは終わらない、ちゃんと、その先につながる物語が収録されています。

私たちの生きる日常というものを真っ直ぐな感覚で受け止め、人が死ぬこと、そして生きることを私たち読者に静かに語りかけるこの作品は、ページ数も多すぎず、短い合間の時間でも読み終えることができます。

大切な人を失った物語なのにもかかわらず、“悲しみ”よりもその悲しみが少しずつ癒えていく様子を見ながら、自分自身が一緒に癒されていることに驚きました……。人生の一冊と言ってもいいかもしれません。

作中の言葉はどれも、生と死がぶつかりあっているようでとても心に響きます。

嫌なことがもし、すべての人に平等に回ってくるとしたら。もし本当にそうなのだとしたら、楽しいことはちゃんと、楽しくしたいもの。

生きることも、再び前を向くことも当たり前だとされている世の中、でもそんな簡単なものではなくて。

刺さる言葉というよりも包み込むような言葉がたくさん散りばめられたこの一冊は、私たち読者にさまざまなことを考える余地を与えてくれている印象を受けました。

静かに他人の文字を追いたいときに、ぜひ。

■喧騒から離れて物語の世界へ

静かな物語は、読み終えたあとに心に静かな波紋を残してくれます……。

夏の喧騒から離れ、ひとり、物語に浸る時間を楽しんでみてください。

この夏も素敵な一冊と出会えますように……。

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\八木奈々さんの過去記事はこちらから/

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