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ボンテージとフレンチトースト 2/2


■バイバイフレンチトースト

突然黒く重たい緞帳が降りて視界を遮るような映像を幻視した。
ハッとして顔を上げる。けれど目は合わない。頑なに俯いたままこちらを見ようとしない。その様子を見て、彼女……彼……? は、このフロント係が顔見知りだということに気づいたうえで知らないふりを決め込んでいることを察した。
今の自分の状況について何も説明したくないのだ、今の自分を見られたくないのだ、というのは理解できたけれど、受け入れられない。あのかっこよかった彼女が、なんでこんな目に?

それでもやっぱり声をかけることはできなくて、部屋番号だけを告げてキーを渡した。
崩れそうな気分で、フロントを通り過ぎていく背中を追うことすらできなかった。
そんな事情を一切知らない後輩がにこにこして言う。

「で先輩、フレンチトーストどうしますか」

作ってくれ、という催促だ。でも僕にはもうあれは作れない。もう若く無防備なままではいられない。帰る場所だと思っていたところに戻れなくなったのを今知ってしまった。
能天気に自分だけ楽しくモラトリアムを引きずろうとしていたのが途端に申し訳なくなって、勝手に少しでも一緒に傷ついていたくなった。

言葉をどうにか絞り出そうとして、でも絞り出せなくて、
ギリギリ口をついて出た「もうだめだおれ」という曖昧な答えで誘いを断った。

そのあと後輩は仮眠時間に入り、しばし消灯したフロントで1人呆然としていると、スキンヘッド氏が煙草をつまんで階段を降りてきた。フロント前の喫煙所に腰掛けてこちらに会釈する。

とりいそぎ「お久しぶりです」とだけ声をかけると、にこりと強面が緩む。
彼の第一声が気になった。彼には言いたいことがあるはずだ。
時間が止まったような長い沈黙を経て彼が言ったのはこうだった。

「なんかさ、そうなんだよ」

何も言っていないのと同じような情報量のおかしな言葉選びだけれど、ずっしりと、こんなふうにしか言えない状況なんだろうということだけは伝わった。彼もきっと詳しい事情は知らされていないのだ。彼を問い詰めるのは違う。
それでも言わずにいられなくて、馬鹿大学生に戻ったみたいな素直な言葉選びで尋ねた。

「あの、どうしちゃったんですか、赤坂さん」

スキンヘッド氏は強面を歪めた。凄んだのではなくて、まるで泣き出す直前の子供のように無防備な顔になった。彼が次に言ったのが、今回の忘れられない一言だ。

「社長が最近、男なんだよ。……こんなのおかしいよォ」

■火をつけなかった煙草

スキンヘッド氏は目に涙を溜めて、流れ落ちるのを堪えて小刻みに震えながら、ありのままの言葉を吐き出した。
それ以上のことは聞けなくて、すすり泣く音が小さくロビーに反響するのをただ聞いていた。しばらくして彼は煙草に火をつけないまま部屋に戻った。

彼女を彼女でいさせないものの正体はわからない。
例えば、体調や年齢の関係で限界に行き当たって、治療を中断せざるを得ない状況に陥ったのか。
例えば、十分な治療の受けられる経済状況でいられなくなってしまったのか。
例えば、何か今までと比にならない蔑視を受けて心が挫けてしまったのか。
それとも、自ら選んで今の状態にあるのか。
わからないし詮索もしたくはない。

この物語はこのまま終わる。どこにも着地しない話だ。
もちろん本人があのスタイルに納得いっていて、まだ調整がうまくいっていなかったり、心の落とし所を探している過程だったりという可能性も十分にある。性表現や性自認の揺らぎ・移行は誰しもに起こりうるし、何ら責められるようなことではない。だから独善的に決めつけてかかるのは控えたいけれど、筆者もスキンヘッド氏同様、最後に会ったあの姿が彼女の望んだ姿とは思えなかった。何か抗えない力によってああいう選択をせざるを得ないのだとしたら、そうさせた何かに対して怒りが湧く。杞憂であってほしい。
スキンヘッド氏ほど親密な関係性のない筆者には泣くことすらできなかった。ただただなすすべもなく突っ立っていた。

筆者の脳にはあの無力感が焼きついている。
トランスフォビア(※)にまつわる話題を見聞きするたびに繰り返し繰り返し思い出しているうちに焼きついた。それほど短い周期で繰り返し繰り返し何らかの事件が起こっていることを、長く界隈を観測している人なら認識しているだろう。
直近でいえば、J・K・ローリングをはじめとした一部のシス女性によるトランス女性への排他的な言動が大きな波紋を呼んでいる。

また、フェミニズムやジェンダーについて見識を深めているはずのアカデミシャン(※)の中の一部のシスジェンダー(※)の人にもこうしたトランスフォビアに偏った認識を持つ人が少なくないことがたびたび指摘されていて、問題の根は非常に深いところに張っている。

今回取り上げた赤坂さんの場合がどういった属性の層から受けた苦難なのか、そもそもトランスフォビアによる苦難なのか、さらにそもそも本人にとって実際に苦難であるのかすらも、筆者や秘書の彼にはわからない。だから思考の向き先がわからず、今も新しい知識を得るたびに思い出して自問自答を繰り返している。

当事者じゃないからわからない、当事者と触れ合ったことがないからわからない、という状況に対する何よりの対抗策こそがまさにアカデミックな知識であるはずだ。自分の実体験の範囲では共感できないことに対する想像力を養う機能は学問の主たる意義のはずだ。
ただ前述のとおり、アカデミシャンであっても蔑視を蔑視と認識せずに表明しているケースは大いにある。だから、感情移入して想像力を働かせる導入に役立つかもしれないと思ってこの文章を書いた。アカデミックな論考でなくエモーションに訴えるエッセイの形をとったこと自体、知性の敗北を感じる部分もある。ただもう手段を選んでいる場合ではないという危機感のほうが強かった。100%はありえないと自戒しつつ、この文章が当事者をはじめ誰にとっても人生を邪魔しないものであることを切に願っている。

また今回のケースは、あくまで”おそらく”女性的とされる性表現をとる、それもドラァグな文脈に基づくと思われる人についての話だ。何も断定できないし、この1つの物語をもってトランスパーソン全体に話を広げることはできない。さらに言えば、強烈な個性を持ったある人との出会いと別れの物語であり、その個性が仮に性にまつわる諸々を由来としていたとしても、個性的であることと性のあり方はまた別の話である。噛み砕くと、トランスパーソンであること自体は”個性的”ではないということを最後に強調したい。

こういった前提の部分で言葉の至らなかった初稿のブラッシュアップに協力してくれた友人知人たちへの感謝を最後に筆を置く。本当にありがとう、助かりました。

【註釈の註釈】
以下の註釈はあくまで”現在多くの場合そう認識されている”と思われる解釈を編集部判断で簡潔に記したものです。
ジェンダーにまつわる語彙には辞書でさえも正確な記述に至っていないものが多くあり、この註釈も手探りにならざるをえません。この註釈だけで理解を補完することはできないと思います。興味を持った方はぜひ、それぞれの言葉の指し示すものごとについて踏み込んで触れてみてほしいです。

※トランスパーソン:トランスジェンダーの属性を持つ人。トランスジェンダーとは身体に割り当てられた性と自認する性が異なる状態。

※キャンプ:過剰に特徴づけ模倣することで皮肉・批評として機能し、ときにそこから生まれる笑いによって既存の価値観を更新する表現様式。ドラァグカルチャーと結びつきが強い。

※ドラァグ:伝統的に特定の性役割と関連づけられる服装を、それとは異なるジェンダーを持つ者が着用すること。また、それに紐づいて発展した文化体系。

※シスジェンダー:身体に割り当てられた性と自認する性が一致する状態。

※アカデミシャン:学者、及び学究肌の人。アカデミックな知識を備えた人。

『そんなこと言うんだ』バックナンバー


#1「ママ、いろんなことがわかんなくなっちゃうから」

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#6「シンプルな子たち」

#7「腰からジャラジャラ鍵ぶら下げてる女は全員レズ」

#8「成長したな」

#9「同窓会に行ける程度の仕事」

#10「洗いなさい」

#11「夫さん」

#12「社長が最近、男なんだよ。……こんなのおかしいよォ」

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ヒラギノ游ゴ

ライター/編集者

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