「男女の友情は成立しない」なんて時代遅れな議論だ
「男女の友情は成り立つか、成り立たないか」人それぞれ考え方はあるかもしれないけれど、そもそも「友達」や「友情」とはなんなのだろうか? 肩書きや言葉に惑わされて見えなくなっている「男女の関係性」について、掘り下げていく。
「男女の友情は成り立つか」
これは昔から議論されているテーマだ。
そもそもなぜ、そんなテーマが普遍的に議論されているかというと、男女というのは恋愛関係に陥る可能性があり、もし恋愛関係が破綻してしまった場合に、友情を保つのが面倒だから。
そのため「男女の友情は成り立たない」と片づけて、友情については面倒になる可能性が低い同性で満たした方が良い、と考える人が多かったからだろう。
■肉体関係を結ぶと友情は壊れるのか?
そもそも男女が面倒な関係になると言われているのは、体の関係を結んでしまったら「付き合わなくてはいけない」「友達ではなくセフレになってしまう」などという貞操観念と強迫観念を持っている人が多いからではないだろうか?
相手から「恋人」というポジションを要求される可能性があること、友達ではなくなることなど、ふたりの関係性が変わってしまうことに不安を抱いているのかもしれない。
でも、体の関係を結んだだけで、相手のことを「友達ではなくセックスをした相手」という風に、今までと違うフィルターで見る必要は本当にあるのだろうか?
たしかに「体を許すと情が湧く」というのはわかる。そこから始まる恋もあるだろう。でも相手との関係性を変えたいわけではなく、少しのアクシデントやちょっとした弾み、単純に欲情して男友達と性行為をしてしまう場合もある。それはエンターテインメントやコミュニケーションのひとつとして割り切って、これまで通りの関係を続けることもできるはずだし、そう望む人も多いだろう。
セックスをしたからって友達関係を終わらせる必要はないし、その程度で友情が崩壊するならふたりの間に友情という情愛があったのか疑わしく思う。
■大切なのは行為ではなく、そこに「情愛」があるかどうか
たしかに性行為をきっかけに、相手とぎくしゃくしたりするのは面倒だ。
しかし、人間的に面白みを感じ、異性としても魅力を感じるという人は、決して恋人やパートナーだけではないはず。そんな魅力的な人と「肉体関係を結びたい」と思うのは人間として自然な欲求ではないだろうか。
そして本当に友達として付き合いたい相手ならば、「ぎくしゃくするかも……」なんていう面倒くささくらい引き受けて、友達関係を続けるべきだ。それでも相手が友達としての価値を不意にして、異性としてしか見ない対応をしてくるならば、その相手はそれだけの人間だ。
そもそも「友情」とは「友達の間の情愛。友人としてのよしみ」という意味。
つまり、相手と性的な肉体関係があるかどうかは友情に影響せず、それよりもその関係性に「情愛」が存在していることの方が重要なのだ。だから肉体関係を結んだかどうかよりも、ふたりの間にそれでも情愛があるかどうかを注目して見るべきだと思う。
■今ある言葉に規定されない関係性にこそ価値がある
最初の議題に戻ると、個人的には男女の友情は成り立ってほしいと思っている。しかしそれよりも、男女の関係性を言い表す言葉が「友達」「セフレ」「恋人」「夫婦」くらいしかないことの方が問題であるような気もする。
人類が約25万年生きてきて、世界に60億人も人間がいて、世の中に存在する男女の関係がそんな少ない言葉に既定されるわけがない。もっと多くの関係性が存在するはずだし、情愛の形だってさまざまなはずだ。
■「友達」「夫婦」を超えていく
2016年に放映されたドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』でも、「夫婦」という枠を超えた関係性が描かれていた。この作品が人気を呼んだのも、今ある男女の関係性に疑問を持っている人が少なからずいたからではないだろうか?
太古の昔には「恋人」「友達」なんて言葉はなかったし、概念すらあったか謎だ。
言葉で定義されることで、自分自身が安心できることもある。しかし、肩書きや言葉に縛られ過ぎるのは窮屈だし、人間同士の関係を狭める可能性もある。
「夫婦だから子供を作らなくてはいけない」「友達だから性行為をしてはいけない」、そんな肩書きに縛られたルールなんて不自然だ。今ある言葉や肩書きに規定された関係を、軽々と越えてくれる関係にこそ、価値があるのではないだろうか。