この世界に入るきっかけを作ってくれたのは両親【レーシングドライバー・山田遼選手インタビュー #1】
レーシングドライバー・山田遼選手のインタビューを3回に渡ってお届けします。<第1回>
人生を好転させるため“開運スポット”を巡るように、夢を実現させる途中には“開運パーソン”が現れる。決して自分一人の力だけではなく、その夢に共感し、賛同し、必要なときに、必要な人へ繋いでくれる存在……。
『DRESS Magazine』 Vol.2号(19頁参照)で素敵なご自宅を紹介してくださった佐藤徳之さん(外資系リスクマネジメント&保険仲介業シニアバイスプレジデント・ディレクタ―)は、本業とは違うがさまざまな分野(ジェラート、イタリアン、バイオリニスト、力士etc~)で夢を追いかける若者を応援するのが、もうひとつのライフワークだと言う。ある日、佐藤さんは知人に「未来のF1レーサーを目指してがんばっている男がいるから会ってみないか」と山田遼(20歳)選手を紹介された。彼にとって、この佐藤さんとの出会いが正に“開運パーソン”なのではないだろうか。
始めて山田選手に会ったときの印象を佐藤さんはこう語る。
「まだ二十歳の若いレーサーの卵と聞いて、こちらの勝手なイメージでチャラいヤツが来ると思ったら(笑)、リクルートスーツをかっちり着た礼儀正しい体育会系な好青年で驚きました。メールのやりとりも丁寧で非常に好感が持てたんです。僕がもともと体育会系だったので、何か通じるものがあったんでしょうね。その後、我が家に遊びに来て食事したりするうち、彼の夢が本気だとわかったので何か手伝いができたら……と思ったんですよ」
そんな経緯で、山田選手の夢は次第に周囲に伝わり、更に大きく膨らんでいった。
9月4日、富士スピードウェイ。9時間耐久という過酷なレース。
(5クラスのクルマで合計65台が混在する中、どれだけ多く周回できるか競う)
この日、山田遼選手はピット内にあるモニターのデータとニラメッコしながらスタッフとして忙しそうに往復していた。
――今日は主に何をされてるんですか?
「今回はレースには参戦できなかったので、勉強も兼ねてチームスタッフとして働かせてもらっています。主にドライバーが交代する際の計測装置の交換や給水・冷却装備の装着介助をしています」
各チームのエントリーリストにあるドライバーや監督のラインナップの中には、脇坂・影山・竹内・織戸など、40~50代の昔から有名な選手の名前が連なっており、今もなおそれぞれに活躍し続けている状況だ。山田選手は、まだ彼らの年齢の半分にも満たないが厳しいレースの世界で奮闘している。
――間近でレースを見ていると走りたくなりませんか?
「はい、正直ゾクゾクしてきます。早く走りてぇ~と(笑)。でも、こういう時間も大切なんです。生のレースを肌で感じられ、また先輩ドライバーやメカニックからセッティングや走りの技術を直に学べる。先輩の皆さんは惜しみなく教えてくれるんですよ。レーサー志望者はたくさんいるけれど、こんなにたくさんチーム内で働けているのは、今回に関しては僕が一番じゃないでしょうか」
まだまだ残暑厳しいサーキット、残念ながらチームは折り返し地点でエンジントラブルのため途中リタイアとなった。山田選手は撤収作業をする合間にも、誠実に質問に答えてくれる。
――レーサーを目指すようになったのはいつ頃からですか?
「初めてサーキットを訪れたのは2歳の頃で、まだスピードウェイが改修される前でした。当時はスーパーGTになる前のJGTC時代で、関谷正徳選手(前・トムスドライバー、現・同チーム監督)の走りなどを幼いながら熱心に見ていたそうです。最初からクルマの構造より、走る方に興味を持ってましたね。僕自身は5歳から父親に連れられて、カートに乗るようになり、かれこれレース歴は15年にはなりますね」
――ご両親は心配されていないですか?
「もともと親がクルマ大好きだったので、心配よりも快く応援してくれてます。むしろレースの世界に入るきっかけを作ってくれたことに感謝しています」
Photo=久家均
取材・構成=鈴木ユミコ