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「現状維持は後退」 勝負師・篠田麻里子が生まれた理由

DRESSの『運命をつくる私の選択』は、これまでの人生を振り返り、自分自身がなにを選び、なにを選ばなかったのか、そうして積み重ねてきた選択の先に生まれた“自分だけの生き方”を取り上げていくインタビュー連載です。今回のゲストは、女優・タレントの篠田麻里子さん。

「現状維持は後退」 勝負師・篠田麻里子が生まれた理由

2006年にアイドルグループ「AKB48」のメンバーとしてデビューした篠田麻里子さん。AKB在籍時は、“神7(かみセブン)”と呼ばれる人気メンバーとして多くのファンを魅了しました。グループを卒業してからも、モデル、女優、タレントとしてマルチに活躍を続けています。

「幼い頃に描いていた夢は、ほとんど叶っている」ーー過去のインタビューでもそう力強く話す篠田さんは、どのような“運命の選択”を重ねてきたのでしょうか。彼女の幼少期から現在に至るまでの軌跡を追いかけました。

ヘアメイク       :松本智色
スタイリスト      :根岸豪
取材・文        :仲奈々
写真          :宮本七生
編集          :小林航平

■“好き”にまっすぐな母の姿に憧れた

ーー篠田さんは2019年にご結婚されていますよね。結婚の決め手は「生まれ育った環境等の共通点が多く、自然と一緒にいる未来が想像できた」からだそうですが、篠田さんはどんな幼少期を過ごしてきたのでしょうか?

私は3人兄弟で兄と妹がいるのですが、私と妹は幼い頃アトピーに悩まされていたんです。母は食事にとても気を遣ってくれていました。白米でなく玄米にこだわっていたし、おやつも市販のお菓子は一切買わずに手作り。でも、幼い頃の私はそれがすごく嫌でした。友達の家にはカラフルな市販のお菓子やジュースがあるのに、どうして我が家には茶色い質素な食べ物しかないんだろうって。当時は、我が家はお米もお菓子も買えないくらい貧乏なんだと思っていました(笑)。

でも、私自身が母となってからは、毎食手作りすることがどれだけ大変か身に染みて感じていて……。子どもたちを思っての、母の愛情だったと理解できるようになったんです。

ーーお母さまは、母となった篠田さんにとってのロールモデルなのでしょうか?

そうですね。愛情深いところはすごく尊敬しています。母は、人の悪口を絶対に言わないんですよ。当時の時代背景もあったのかもしれませんが、母は私たち兄弟をワンオペで育てていました。家事や育児に関われない父への不満もあっただろうに、「お風呂はお父さんが一番に」「大事なことはお父さんに相談してから」など、とにかく父を立てる人でした。それは決して“妻としての義務”ではなくて、父のことが大好きで尊敬しているから、自然とそうしていて。母は家族のことを尊重してくれていたような気がします。

私が中学生の頃、父が県外に転勤することになったんです。子どもがまだ小さい場合、家族みんなで行くか、父だけ単身赴任するかのどちらかが一般的だと思うのですが、母は「私はお父さんについて行くけど、あなたたちはどうする?」と私たち兄弟3人の意見を聞いてくれたんです。その結果、兄は地元の福岡に残って、私と妹は両親についていく選択をしました。

子どもたちを信じて大事な決断を任せてくれるのもすごいなと思ったし、「父が大好きだから、私は父に着いていく」と、自分の進みたい道を自分で選択する母の姿は素敵だなと思いましたね。

ーーお母さんの姿が、篠田さんの価値観に大きな影響を与えているんですね。

小さい頃から、興味を持ったものはなんでも試してみないと気がすまないタイプで。習い事は10個以上経験させてもらいました。私が好きなものにまっすぐに向き合えるようになったのは、母のおかげだと思います。

父と母はいまでもすごく仲良しで、普段ふたりは福岡に住んでいるのですが、ときどき東京に遊びに来ることがあります。それも娘の私が東京にいるからではなく、ふたりでデートを楽しむために上京するんです。父は家のことはなんでも母に任せきりだったので、私が「相手がお母さんじゃなかったら今頃見放されているよ!」と言うと、「本当にそう思う」と照れくさそうにするんです(笑)。父と母がお互いに深い愛情を共有している姿は、私の憧れです。

■AKB48のメンバーになったのは、秋元康さんを見返したかったから?

ーーそんなご家族のもとで育った経験が、今の篠田さんの活動に生きていると感じる瞬間はありますか?

父の仕事の関係で転校が多かったことは少なからず影響していると思います。初めて転校したときは、“転校生”というだけで脚光を浴びてしまって、それに戸惑い周りとうまく打ち解けられなかったんです。そうしているうちにクラスの中で孤立してしまって……。その環境がつらかったから、「次に話しかけられたときには、明るいキャラクターで返事してみよう」と試行錯誤するようになって。

それからは、転校のたびに自分を変えられるのが楽しかったですね。誰も私のことを知らないからこそ、今までとは違うキャラになってみよう! と毎回ワクワクしていました。

ーー今は主に女優のお仕事をメインでされていると思うのですが、そのベースにはさまざまなキャラクターを試していた転校での経験があるのでしょうか。

転校の体験もベースにありますが、あとは興味があることはなんでもやってみたくなる私の性格とそんな私の背中を押してくれる母の姿が大きいと思います。小学生の頃、上京して観た宝塚の舞台に感動してバレエを習い始めたり、父の転勤で沖縄に行ったときは、安室奈美恵さんやSPEEDさんにハマって沖縄アクターズスクールを見学しに行ったり。「これがしたい!」と思ったらすぐに行動にでちゃう。

演技も、ダンスも、歌も好きだったから、“女優”や“歌手”といったピンポイントな職業じゃなく、漠然と人前に出る仕事に憧れていました。

ーーでは、AKB48のオーディションを受けた当時は、アイドルになりたかったわけではないのですか?

高校卒業後は、「資格があったほうが就職に有利かな」と思い地元の専門学校に入学したのですが、なんだかしっくりこなくて……。「じゃあ私のやりたいことってなんだろう」と考えたら、まず歌やダンスが思い浮かんだんですよね。東京にも住んでみたかったし、それなら上京して何かオーディションを受けてみようかなって。そのときに偶然見つけたのが、AKB48の1期生オーディションだったんです。

ーーオーディションでは、最終審査で落ちてしまったそうですね。

最終選考は歌の審査で、私は中島みゆきさんの『悪女』を選曲したんです。この曲は「マリコの部屋で〜」という歌詞から始まるので、審査員に私を印象付けられるかもしれないと思ったのですが……。秋元康さんから「計算高さが嫌」と酷評され、落ちてしまいました(笑)。でも、それがきっかけでやる気に火がつきました。

ーー負けず嫌いな性格なのでしょうか?

めちゃくちゃ負けず嫌いです(笑)。私を酷評した秋元さんを見返したかったから、AKB48に落ちたあとも他の芸能オーディションを受けることは一切考えず、第2期のオーディションでどう挽回できるかを必死に考えていました。

1期生募集のオーディションに落ちたあとは、劇場でAKB48のグッズの売り子のアルバイトを始めました。そこで訪れるファンの人たちと積極的に交流をしていました。劇場の中に売り子は入れなかったので、公演を観たファンの方たちに振り付けや歌詞、人気メンバーがどんな対応をしているかを教えていただいていました。

ーーそのあと、売り子ながらAKB48の人気投票で1位を獲得し、2期のオーディションを待たずしてメンバー入りされていますよね。そこには、持ち前の“負けず嫌い”な性格を生かした地道な努力があったのですね。

まさか売り子の私が1位になるなんて、流石の秋元さんも予想していなかったと思います(笑)。秋元さんは純粋に「ファンの期待に応えたい」という方なので、1位になった私がメンバーになればファンが喜ぶと思ってくれたのかな。

私自身、“言霊”はあると信じていて、自分の夢は口にするようにしているんです。夢を語ると笑ったり批判したりする方もいるかもしれませんが、応援してくれる人だって必ずいるはず。逆に言えば、言葉にしないと私がどんな夢を描いているか誰にも伝わらないですよね。

1位を獲得してAKB48のメンバーになれたのも、当時まだ売り子だった私が語る「次のオーディションで合格して、人気メンバーになりたい」という夢に耳を傾けて、応援してくれたファンの方たちのおかげなんです。

■AKB48時代に積み重ねた努力が、今に結びついている

ーー言葉の力を信じて夢を発信し続けた結果、篠田さんは歌やダンスで人前に立つ“アイドル”として芸能界デビューすることになります。夢が叶ってAKB48の一員となってからは、どんな変化がありましたか?

2006年にデビューしてから2013年にAKB48を卒業するまで、とにかくずっと忙しかったです。当時のAKB48は毎日劇場での公演があって、それをこなしながらテレビや雑誌の撮影をしたり、ミュージックビデオの収録をしたり……。それに加えて、歌やダンスの練習もしないといけないですしね。深夜3時まで仕事して、少し仮眠をとって朝6時には次の仕事がスタート、なんてことも多かったです。

ーーハードなスケジュールですね……。何年もそんな生活を続けて、つらいと思ったことはなかったのでしょうか。

眠れないので身体はきつかったです。よく原因不明の蕁麻疹に悩まされていました……。海外までミュージックビデオの撮影に行ったのに、当日にひどい蕁麻疹がでて撮影できる状態ではなく、急遽帰国したこともあります。

ーー精神的な部分ではどうだったのでしょうか?

夢が叶って好きなことができていたので、精神的な充実感はありました。身体は追いつきませんでしたが(笑)。

ただ、若いときにハードな経験ができたのは、ありがたいことだったなと思います。今でも「きついな」と思うこともあるのですが、同時に「AKB48にいたときよりは全然楽!」と思えるんですよね。今は1歳の娘を育てていて、夜泣きの対応でまとまった睡眠がとれないことも多いのですが、「AKB48にいたときよりはたくさん眠れているな」と思って(笑)。めちゃくちゃきついことを乗り越えてきた経験があるから、つらいことが起こっても「私なら大丈夫」と自信が持てるようになったのかなと思います。

それに、AKB48のメンバーやスタッフの方々にも支えられていましたから。

ーーメンバー同士の関係にも支えられてきたのですね。

そうですね。よくメンバー同士の仲の良さについて聞かれることがあるのですが、単純に“仲が良い”というよりも、“戦友”という言葉がしっくりくるかもしれません。絶対に負けたくないライバルなんだけど、みんな同じ目標に向かってがんばっている。毎日部活をしているような感じで、とにかく楽しかったです。

メンバーそれぞれに強みがあるので、今でも困ったことがあると相談に乗ってもらっています。たとえば、SNSに困ったらこじはる、子育ての悩みはあっちゃんとか。AKB48を卒業した今も、困ったときに頼れる仲間がたくさんいるのは心強いです。

■「“安定”や“現状維持”を目標にすると後退していく」篠田麻里子の挑戦を駆り立てた言葉

ーーAKB48の頃から、篠田さんはアイドルだけでなくモデルや女優など多岐に渡って活躍の幅を広げています。AKB48の活動だけでも忙しい中、なぜいろいろなことに挑戦されていたのでしょうか。

秋元さんに言われた「“安定”や“現状維持”を目標にすると、後退していく。前に進もうと思って、やっと維持ができる」という言葉はきっかけのひとつですね。世間からすると、秋元さんが考える企画の多くは斬新でヒットしているように見えるかもしれません。でも、実は100個考えた中の1個が当たっているかどうからしいんです。「他の人の何倍も何十倍もチャレンジしているだけだ」って。

私自身、もともと興味を持ったことはやらないと気がすまない性格ではありましたが、秋元さんのお話を聞いてから、より目の前に来たチャンスは絶対に逃したくない、チャレンジしたいと思うようになったんです。

ーー多くのチャレンジを経て、今は舞台女優を主軸として活躍されていますが、女優を始めたばかりの頃は、お芝居に対して恐怖心を抱いていたそうですね。

アイドルとして舞台に立つことに対しては長年の経験があったので自信がありました。ですが、お芝居をするために舞台に立つことは、初めての経験だったので最初は不安が大きかったんです。

たとえば、歌やダンスであれば、少しくらいのミスをしてもすぐ立て直せるんですけど、お芝居だと私がセリフを言い間違えたり飛ばしたりすると、たちまち会場全体に大混乱を起こしてしまう……。そのプレッシャーが大きくて、芝居が恐怖でした。

ーーしかし、今はお芝居をメインでされていますよね。恐怖心にどう向き合っていったのでしょうか?

長いセリフがあると「覚えられない……」と不安になるのですが、この役を私にくれた人は、「篠田麻里子ならきっとできる」と信じてくれていると思うんです。じゃないと、チャンスは回ってこないはず。「この仕事は、自分のレベルを上げるためにも必要な仕事だ」と思って取り組めば、やりきったときの自分を想像してワクワクできることに気づいたんです。

私、考え方次第で見える世界は変わると思っていて。自分の人生を自分で選べるなら、つらい世界よりも楽しい世界で生きていきたい。だったら私は、つらいことがあるたびに「もうダメだ」と暗く落ち込むような世界に生きるのではなく、「生きているだけで私ってラッキー!」と明るく思える世界で生きていきたいんです。

■誰かの夢を手放しで応援できる存在でいたい

ーー興味を持ったことや好きなことに全力を注いできた篠田さんが、やりたいことを実現してきたその背景にはどのような考え方があったのでしょうか?

家族や仲間のサポートがあった上での話ですが、やっぱり言葉にすることですね。自分のやりたいことを口にし続ければ、必ず応援してくれる人が出てきてくれるから。話す相手は身近な人でいいんです。私は今でも友達やマネージャーさんに「こういうことをやってみたい」と話すようにしています。そうすると、思わぬところから夢が実現することもあって。

以前ファッションブランドを立ち上げたときも、「服が好きだから、いつか自分のブランドを作りたい」と周りに話していたら、立ち上げをサポートしていただけるという企業から声をかけていただいて。当時はアパレルの知識ほとんどないままスタートしてしまったので、結果的に終わってしまいましたが、そこから学べることは多かったです。モノづくりにはまたチャレンジしたいなと思っています。

ーー夢を語る人に対して良く思わない人もいるかと思います。そんな人が現れたとき、篠田さんはどうしていますか?

負けず嫌いなので、「無理だ」と言われるほど燃えますね。福岡から東京に出るとき「芸能人になるために上京する」と言うと、笑われることも多かったんです。でも、「私が本当に芸能人になったら、この人たちはいったいどんな顔をするんだろうな」と想像すると、どんどんやる気が湧いてきました。

誰かに夢の相談をされたとき、私は手放しで応援できる人でありたいと思っています。たとえその夢が叶う可能性が低くても、周りからの応援が力になって夢に近づくことを私は知っているから。

“好き”に素直な母の背中に憧れたから、歌もダンスもお芝居もファッションも、好きなものにはまっすぐにチャレンジできたし、負けず嫌いな性格だったから、周りに笑われても、オーディションで酷評されても前に進み続けられた。そして、夢を語り続けたから、夢が叶った――。どれも私を構成する、“運命の選択”だったのだと思います。

篠田麻里子プロフィール

1986年3月11日、福岡県生まれ。AKB48のメンバーとして活動後、女優、タレント、モデルとして幅広く活躍。公式YouTubeチャンネル『篠田麻里子ん家』では、日々の育児の様子などを配信中。2021年第13回ベストマザー賞「芸能部門」受賞。2021年第13回ベストマザー賞「芸能部門」受賞し、同年に日本マザーズ協会公認「子育て応援・ママ応援大使」就任。

DRESS編集部

いろいろな顔を持つ女性たちへ。人の多面性を大切にするウェブメディア「DRESS」公式アカウントです。インタビューや対談を配信。

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