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あの時ああ言ってやればよかった 第8話「絵を描く女」

過去の出来事に対して「あの時、きちんと言い返しておけばよかった……」とモヤモヤした気持ちを抱く様々な女性たち。恋愛、結婚、家族や友人との関係に、やるせない想いを重ねる彼女たちの前に、ひとりの老婆が現れ……。小説家・南綾子による最新作『あの時ああ言ってやればよかった』の連載がスタート! 第8話は「絵を描く女」。

あの時ああ言ってやればよかった 第8話「絵を描く女」

 打ち合わせを終え、先に店を出ていく編集者の背中を目で追っていると、ふいに過去のできごとが胸をよぎって、一条未知は息苦しくなった。

 今日、ひとつ大きな仕事が決まった。

こういうことがあると、喜びとともに、あの頃のことを思い出す。何もかもうまくいかなくて、闇の中を歩いていたような日々のこと。

 洋二郎と出会ったとき、未知は24歳だった。イラストレーターとしてはまだ駆け出しで、食べていくために広告代理店で派遣社員として進行管理の仕事をしていた。

彼は違う部署の営業マンで、昼休憩のときに社内のテラスで声をかけられたのが最初だった。真顔だと少しキツい印象だけれど、笑顔が子どもみたいで、可愛いと何度も言ってくれて……でも彼は結婚していた。

はじめて話をしたときから、もう好きだった。

 だけど、幸せだったのは、付き合いだして最初の3カ月ぐらいだけだったと思う。洋二郎は少しずつ、本来の姿をあらわしていった。平日はほぼ毎晩未知の部屋に居座る。絵を描くと叱られ、画材道具を捨てられた。殴られることはなかったが、殴ってくれたほうがマシなぐらいひどい言葉で、何度も何度も罵倒された。

 思い出すだけで苦しくなるエピソードは、あげだしたらキリがないほどだ。けれど不思議と一番よく思い出すのは、ケンカともよべないとても些細な、ある出来事だった。

 それは、未知が27歳、洋二郎が30歳のときのこと。彼の友人夫婦と4人で、銀座のイタリア料理店で食事をしていた。洋二郎はそのように、妻帯者のくせに臆面もなく未知をよく人前に連れ出した。その友人夫婦とも何度も会っていた。

 食事中、洋二郎は突然不機嫌になった。未知が絵描きとしていかに出来が悪く、才能などないに等しいかを滔々と語りはじめたのだ。

 そして最後にひときわ大きな声で「やりたいことがあったって、才能もコネもなきゃ無意味だから。こいつはどっちも持ってないの。おまけに運もない」と言って、未知の頭をこつんと小突いた。

 そのときは、何とも思わなかった。でもその晩、ベッドの中で、急に悔しくてたまらなくなって泣いた。今考えれば、あの頃から徐々に、彼にかけられた呪いが解けはじめていたのかもしれない。

 しかし結局、それから1カ月もしないうちに彼から突然別れを告げられた。ほかに女ができたらしかった。何年も一緒にいたのが嘘みたいに、まるで一晩だけの男のようにふっと消えた。


 あれから、7年。イラストレーターとしての仕事は順調で、同業者の恋人もできた。でも幸せを実感するたび、あの晩のことがよみがえって不安な気持ちになる。やっぱり自分は才能も運もない、出来損ないなんじゃないか。洋二郎が何もかも正しかったんじゃないか……。


「あのとき、ああ言えばよかった、と思うことは、ないかね?」


 ピンク色のワンピースに白いエプロンをかけたウエイトレスがそう言って、テーブルに水をおいた。その顔を見て、未知はギョッとした。シミだらけの顔のおばさんだった。

「わたしはある。ある男に言ってやりたいことがある。でも言えずに死んでしまったよ」

 おばさんはそう言って、編集者が食べ残したシュークリームを手づかみして口に入れた。

「わたしと同じような女たちの、その胸のもやもやを救ってやりたいんだ。だからあなたを過去に戻して、言いたいことを言わせてあげよう。どうだい、やってみるかい?」

「あ、はい……ええ、あ、いや」

 どっかいってくれないかな……そう思いながら、あいまいに答えた。でもおばさんはどこへもいかず、無表情のままじっとこちらを見ている。だんだんいたたまれなくなってきて、ほとんどわけもわかっていないのに、未知は「あ、じゃあやります」と答えた。

■”かなえたい夢”だけがない。

「おまたせいたしましたー」

 目の前に4つのビールジョッキがドンと置かれた。ぼんやりしていると、隣から「ほら、はやくとれよ」とせかされてハッとした。洋二郎だった。未知は反射的にジョッキを手に取り、正面に座る友人夫婦の文也と涼子の「カンパーイ」の声にのせられ、ジョッキを合わせた。

 周りを見渡した。あのイタリア料理店だ。

 どうやら本当に過去に戻ってしまったらしい。

「みっちゃん、どうかした? ぼーっとして」

 洋二郎がこちらを覗き込んで言った。未知は思わずその顔に見とれた。

 切れ長の鋭い目。筋の通ったすっきりとした形の鼻。薄い唇。この顔が、好きだった。冷たい表情と、あどけない表情がくるくる入れ替わる。そのめまぐるしい変化にいつも心を揺さぶられていた。

 料理が次々に運ばれてきて、未知以外の3人はよく食べよくしゃべりよく笑った。未知は置物のようにひたすらおとなしくしていた。余計なことを人前でしゃべると、あとで必ず叱られるから。

 一時間半ほどした頃だった。涼子がたくらむような笑顔になって「そういえばみっちゃん、最近、絵描いてるんでしょ?」と未知に聞いた。

 あ、と思う。そうだ、確かこの後、洋二郎は急に機嫌を悪くして……。

「えっと……いや……」

「この間、絵描いたから見てほしいっていってきたじゃない。描けた? 見せてよ」

「なんだよ、お前」洋二郎が急に大きな声を出した。「まーだあきらめてねえの? 全く、才能ないから芽なんて出ないぞって何度も言ってるのに、あきらめが悪いなあ」

 そして洋二郎はビールを飲むピッチを急激にはやめ、いかに未知が絵描きとして出来が悪く、才能などないに等しく、どう考えたってイラストレーターとして成功しようがないかを滔々と語りはじめた。

 それを彼の横で、あの日と同じようにじっと黙って聞きながら、しかし未知はあの日とは全く違う印象を抱いていた。

洋二郎は薄ら笑いを浮かべ、未知を侮辱している。

しかし、テーブルの上の左手は白くなるほど固く握られていた。この人……何かを恐れているみたいだ。もしかして、わたしが離れていってしまいそうで怖いのかな? きっと、そうだ。そう考えると、このあとすぐに別れを告げてきたのもわかる気がした。捨てられるぐらいなら捨ててやると思ったのだろう。彼らしい。

 わたしが絵を描くことは、彼のプライドを刺激する行為でもあったのかもしれない、と未知は思う。コネ、学歴、収入と人が羨む多くのものを持っている彼だったけれど、”かなえたい夢”だけがない。そういう人だったから。

「やりたいことがあったって、才能もコネもなきゃ無意味だから」洋二郎はひときわ大きな声で言った。

「こいつはどっちも持ってないの。おまけに……」

「待って」と未知は彼の言葉を遮った。そして、洋二郎の目をまっすぐ見つめた。

「ごめんね、気づいてあげられなくて。わたしが絵を描くことがこんなにも嫌だったんだね。でも、わたしやっぱり絵を描きたいの。洋二郎さんも何か心からやりたいって思うこと、そのうち見つけられると思うから、その……えっと……」 

 彼の顔が見る間に赤くなっていく。アレ……おかしいな……励ましてるつもりなんだけど……わたし、もしかして失言した?

「えっと、あの、別にその、洋二郎さんのことバカにしてるわけじゃないんだよ。そうだ、洋二郎さん、お笑い番組好きだから、お笑いとかやってみたらどうか――」

「お前の、そういう無神経なところが、俺は大嫌いなんだよ」

 次の瞬間、彼が固く握りしめていたこぶしが、未知の顔めがけて飛んできた。

■わたしをいじめてくれて、わたしを追い詰めてくれてありがとう

「未知! 未知!」

 ハッとして顔を起こした。目の前に、見慣れたやさしい笑顔が現れて、未知はほっと息をつく。

「喫茶店のテーブルで寝るなよ」

 恵太はそう言って、未知の肩をポンポンとたたいた。相変わらず間の抜けた笑顔。昔のギャグマンガから飛び出してきたような顔だ、といつも思う。

「おいおい。ほっぺた真っ赤になってるぞ。誰かに殴られたみたい」

「えっ。あ、ハハ。恥ずかしいな。見ないでよ」

「打ち合わせ終わった? どうだったの?」

「うん。仕事決まったよ」

「マジで!」恵太は嬉しそうにパチパチと手をたたいた。

「すごい、すごいよ、やったな」

「ねえ、恵太ってさ」未知は少し痛む右の頬をさすりながら聞く。「いつもわたしのこと、自分のことのように喜んでくれるよね。どうして?」

 恵太は同業者だが、未知ほどはうまくいっていない。掛け持ちのアルバイトも続けている。

「そんなの、当たり前でしょ? 俺は未知が好きなんだから、未知の幸せがうれしくて当然じゃないか」

 なんだか急に照れ臭い気分になった。思わず顔をそむけた。

 窓にうつる自分の目をのぞき込む。闇のトンネルを抜けられて、本当によかった。そのとき急に、洋二郎に本当に言いたいことが思いついた。ありがとう、と言いたい。わたしをいじめてくれて、わたしを追い詰めてくれてありがとう、と。

 でもきっと……もし本当にそう言ったら、彼は相当に怒るだろうな。窓に映る自分の笑みがとてもいじわるで、ちょっとおかしかった。

イラスト/つぼゆり(@tsuboyuri_

南綾子先生によるweb小説『あの時ああ言ってやればよかった』は、10月22日から10月31日まで毎日更新! 公開スケジュールはこちらからご確認いただけます!

10月22日
第1話「恋人がいない女

10月23日
第2話「謝られたい女

10月24日
第3話「叩かれた女

10月25日
第4話「浮気された女

10月26日
第5話「告白した女

10月27日
第6話「プロポーズされた女

10月28日
第7話「死にたい女

10月29日
第8話「絵を描く女

10月30日
第9話「完璧な母の女

10月31日
最終話「怒る女

南 綾子

1981年、愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第4回「女による女のためのR‐18 文学賞」大賞を受賞。主な著作に『ほしいあいたいすきいれて』『ベイビィ、ワンモアタイム』『すべてわたしがやりました』『婚活1000本ノック...

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