あの時ああ言ってやればよかった 第6話「プロポーズされた女」
過去の出来事に対して「あの時、きちんと言い返しておけばよかった……」とモヤモヤした気持ちを抱く様々な女性たち。恋愛、結婚、家族や友人との関係に、やるせない想いを重ねる彼女たちの前に、ひとりの老婆が現れ……。小説家・南綾子による最新作『あの時ああ言ってやればよかった』の連載がスタート! 第6話は「プロポーズされた女」。
「あのとき、ああ言ってやればよかった……」
女友達と別れて地下鉄の階段を降り、改札に向かって歩いていると、ふいに過去のできごとが胸をよぎって、水野純は息苦しくなった。
今日は婚約をみんなに報告してからはじめての女子会で、とても楽しみにしていた。思う存分、のろけても自慢しても、今日ぐらいは許されるだろうから。そして実際のろけまくった。みんなにうらやましがられて、気分はサイコーだった。
それなのに、なぜ今、こんなにも胸がモヤモヤするのだろう。
多分、あの夜のこと。そのことが、心にひっかかっているせいだ。
婚約者の裕二とは、一年前、純が28歳のときに合コンで知り合った。5歳年上の広告代理店勤務。父方の祖父が有名俳優で母親も元モデル、港区生まれ港区育ち。
最初と二回目のデートは純から誘った。三回目は彼からで、その帰りに「結婚を前提に付き合ってほしい」と言われたとき、ついに夢の階段の一段目にたどりついたと有頂天になった。
今でも覚えている。小学校5年のとき、七夕の笹に飾る短冊に「エリート男性と結婚して自由が丘に住みたい」と書いたこと。エリート男性と結婚する。それが純にとって最大にして唯一の人生の目標だった。
そのためだけに勉強に励み、女子大に入学し、30歳のときに瞼を二重にする手術も受けた。28歳で知り合って、29歳で婚約は、正直ギリギリだったと思う。しかし、ギリギリまで粘ったからこそ得られた、最高の成果だった。
一年間の交際は順調そのものだった。あの夜のことを除けば。
今から3カ月前のこと。その頃、純は職場の人間関係で悩んでいた。新しく異動してきた男性上司からセクハラ被害にあっていた。
ある夜、純は思いきって、裕二に悩みを打ち明けた。話を、彼は黙って聞いてくれた。真剣に考えてくれているのだと純は思った。しかし彼はふいにニヤッと笑うと、純の顔を下から覗き込むようにして、こう言った。
「本当は女として見てもらえて、嬉しかったんじゃないの?」
予想外の言葉に、頭が真っ白になって、その後のことをよく覚えていない。ただ、彼は自分の発言を謝りもしなかったし、撤回もしなかった。翌月、何事もなかったようにプロポーズされ、純も何事もなかったように受け入れた。
でも、なぜだか忘れられない。水に流せないのだ。このまま結婚していいのか、そんなバカげた疑問さえ浮かんでしまう。そんな言い方はひどいよ、と言い返せていたら違ったかもしれない。彼も失言を謝罪して、すべてがまるく収まったのかも。
「あのとき、ああ言えばよかった、と思うことは、ないかね?」
改札機にICカードをかざそうとしたときだった。改札の向こう側に立つ地味な服装の中年女性が話しかけてきた。
「わたしはある。ある男に言ってやりたいことがある。でも言えずに死んでしまったよ」
中年女性はそう言うと、右手に持った茶色の丸いものにかじりついた。カレーパンのようだ。
「わたしと同じような女たちの、その胸のもやもやを救ってやりたいんだ。だからあなたを過去に戻して、言いたいことを言わせてあげよう。どうだい、やってみるかい?」
純はため息をついた。やだやだ。わたしって、よく街中で変な人に話しかけられるんだよね、この間だって……そこまで考えて、ふと気づく。匂い。カレーの匂い。あの晩、彼が作ってくれたカレーと全く同じ匂いだ。その匂いを追いかけるように、純はぎゅっと瞼を閉じた。
■恋人の悩みより、自分のちっさなプライド
イヒヒヒヒという聞きなれた笑い声。目を開ける。裕二がチャームポイント(と純は思っている)の出っ歯をむき出しにして、笑っていた。
「そんな、目を閉じて味わうほど、旨い?」
テーブルの上にカレーとポテトサラダが並んでいた。あっ、本当にわたし、過去に戻ってきちゃったんだ、と純は思う。このカレー、なんか薬っぽい変な匂いがして、ちっともおいしくなかったんだよな。
「うん、すごくおいしい。裕君って料理上手で、なんでもできるんだね」
「だろう? 純はもうちょっと味付けを勉強しなきゃな。今度教えてやるよ」またイヒヒヒと笑う。「そういえばさ、何か悩みがあるって言ってなかった? 友達とケンカ?」
「いや……えっと……うちの上司のことなんだけど」
「上司って男?」
「うん。最近、異動してきた人。なんていうか、ちょっと困ってるの」
「何が?」
アレ? もうすでに不機嫌だ。言い方が急につっけんどんになった。
「えっと……なんかね。最近、ふたりで飲みに行こうって誘ってきたり、仕事が終わったあとも電話してくることもあって。その上司って重役の息子かなんかで、怒らせたらマズいらしいの。だから社内の誰にも頼れなくて。もう、どうしたら……」
あのときと同じように話しながら、純は裕二の顔をさりげなく観察した。すぐに気づいたことがあった。裕二はふてくされていた。まるきり子どもみたいな顔して。そうか、と思う。
あのときは自分の悩みでいっぱいいっぱいで、彼の様子まで気が回らなかったけれど、要するにこの人は嫉妬してふてくされていたのだ。
多分、ほかの男のことで悩んでいるのが気に入らないのだろう。恋人の悩みより、自分のちっさなプライドのほうが大事というわけだ。
なんだか。わたし。この人のこういう器の小さいところ、もっと前から気づいていた気がする。
例えば、彼があまり得意ではない分野の話題を持ち出すと、途端に不機嫌になったり。自慢話をしたときは目いっぱいほめてあげないとやっぱりへそを曲げたり。初恋の男の子の話をしたときもムッとしていたっけ。
いつしか、彼の前では慎重に話題を選ぶようになっていた気がする。プロポーズいう最終目標を達成するためには、ひとつの些細なケンガが命取りになりかねない。
上司のセクハラのことは真剣に悩んでいた。だから心のどこかで、今回だけは彼も真剣に向き合ってくれるんじゃないかと期待していた。でも彼は真剣に向き合うどころか、冗談にもならない冗談を言って純をからかった。失望した。その失望が、心に、魚の小骨みたいにひっかかっていたのだ。
目の前で、裕二はあのときと同じように黙り込んでいる。きっかり10秒後に、彼はあのセリフ――「本当は女として見てもらえて、嬉しかったんじゃないの?」を口にする。
なぜかはっきりとそれが感知できた。純は心の中でカウントする。5、4、3、2、1――
■全部言うから。全部ちゃんと聞いて。
ピッと手元で音がした。同時に改札機の扉が開く。
状況がつかめずまごついていると、背後から舌打ちの音が聞こえ、純は慌てて改札を通り抜けた。
純はあたりを見回した。さっきの地味な女の人、どこへいったんだろう。過去に戻して言いたかったことを言わせてあげるとかなんとか言ってなかったっけ? たしかに今、数秒なのか数分なのかよくわからないけれど、過去に戻っていた……気がする。でも、言いたいことなんて何も言えなかったけど。どういうこと?
ま、でも。
たった今、体験したことが、夢なのか、もしくは妄想なのかわからないけれど、そんな場所で何を言ったって、現実の裕二に伝わらなければ、すっきりもしない。それに過去になんか戻らなくても、今からでも言える。
地下鉄の階段を上り、外に出る。家に向かって歩き出しながら、純は裕二に電話をかけた。
「もしもし、純? 今日友達とどうだった……」
「裕君に、言いたいことがあるんだけど」
いつもと違う様子を感じ取ったのか、電話の向こうの裕二は何も言い返さず黙った。
「前に、わたしが上司のセクハラについて相談したとき、真剣に答えてくれないどころか『女として見られてうれしかった?』って聞いたよね。あれ、すっごいムカついた。わたしの人権を無視したひどい発言だと思う」
「え、あ、えっと……」と頼りない小声が聞こえた。
「えっと、じゃないよ。謝って。いや、待って。わたしこれから、今まで不満に思ってたこと、全部言うから。全部ちゃんと聞いて。聞けないなら結婚はしない。ここで我慢することを選んだから、ろくなことにはならないから。いい?」
裕二は再び黙った。数秒後、さっきよりさらに弱々しい声で「わかった」と返ってきた。
「よし。じゃあまず、ひとつ目ね。裕二はわたしの料理にいつも何かしらケチをつけるけど、裕二のカレーもだいぶマズいから」
話しながら、純はニヤついていた。さっきの裕二の「わかった」の一言を引き出した時点で、もう目的の半分は果たしたような気がしていた。
そう、わたしはこの人の妻になる。でも、半歩下がって夫に付き従うような妻にはならない。夫婦は対等な関係でなくちゃ。
嫌われるのが恐れて、顔色をうかがうようなことはもうしない。絶対にしない。
今夜はその最初の一歩だ。
イラスト/つぼゆり(@tsuboyuri_)
南綾子先生によるweb小説『あの時ああ言ってやればよかった』は、10月22日から10月31日まで毎日更新! 公開スケジュールはこちらからご確認いただけます!
10月22日
第1話「恋人がいない女」
10月23日
第2話「謝られたい女」
10月24日
第3話「叩かれた女」
10月25日
第4話「浮気された女」
10月26日
第5話「告白した女」
10月27日
第6話「プロポーズされた女」
10月28日
第7話「死にたい女」
10月29日
第8話「絵を描く女」
10月30日
第9話「完璧な母の女」
10月31日
最終話「怒る女」