1. DRESS [ドレス]トップ
  2. 恋愛/結婚/離婚
  3. あの時ああ言ってやればよかった 第3話「叩かれた女」

あの時ああ言ってやればよかった 第3話「叩かれた女」

過去の出来事に対して「あの時、きちんと言い返しておけばよかった……」とモヤモヤした気持ちを抱く様々な女性たち。恋愛、結婚、家族や友人との関係に、やるせない想いを重ねる彼女たちの前に、ひとりの老婆が現れ……。小説家・南綾子による最新作『あの時ああ言ってやればよかった』の連載がスタート! 第3話は「叩かれた女」。

あの時ああ言ってやればよかった 第3話「叩かれた女」

「あのとき、ああ言ってやればよかった……」

 部屋でひとり、今日の結納でもらったばかりの指輪を見つめていると、ふいに過去のできごとが胸をよぎって、山田千佳は息苦しくなった。

 38歳。婚活歴10年。長かった。本当に長かった。よくがんばった、と自分を百回ねぎらってもまだ足りない。それほど、ここまでの道のりは長く、そして地獄のように険しかった。

 その地獄のトンネルの先に、彼がいた。

 婚約者の真治は前の職場の同僚だった。五年前に退職したあとも、年に一回の頻度で食事
をしていた。10カ月前に突然告白され、そのままトントン拍子で結婚が決まった。

 理想より、15センチは背が低く、300万は年収が低い。結婚相談所に提出していた希望条件のほとんどが当てはまらない。でも、真治はやさしく、誠実で、まじめで、こちらの個性を尊重してくれる。不安なことは何もない。それなのに。

 なぜ、あの日のことをいつまでも考えてしまうのだろう――。



 あれは、2年前の夏のことだ。36歳になったばかり。会社のお局に「35までは大丈夫、36からやばい。やばいぐらい男に相手にされない」と脅され、猛烈にあせり、大慌てで結婚相談所に駆け込んだ。

 入会して3カ月経ったころ。理想そのものの男性が現れた。

 彼の名は、山田富士男。富士山のような大きな男になるように、と名付けられたという。
 
 有名国立大卒で省庁勤務。身長183センチ。2歳年上の38歳。千佳から申し込みをし、すぐにOKの返事がきた。最初はホテルのラウンジで一時間お茶。次の週末にイタリア料理店でランチ。

 三回目は、平日の夜を指定された。  

 フレンチレストラン。夜景の見えるカップルシート。三回目だし、食事中に交際を申し込まれるのは間違いないと千佳は信じていた。

 しかし、そうはならなかった。

 食事が終わってすぐのころ、それまで楽しく弾んでいた会話に、突然、暗雲が垂れ込めた。富士夫が「体の相性」という言葉をやたらと口にしはじめたのだ。要は付き合う前にセックスしたい、ひいてはこれからラブホテルにいきたい、ということを彼は言っていた。

 千佳は悩んだ。ホテルにはいきたくない。でも断ったら次はないかもしれない。それもイヤだ。こんな優良物件、二度とマッチングできないに違いないから。熟考の末、千佳はこう答えた。

「友達が婚約前に体の関係を持ったら、相手が既婚者だったことがあるらしくて。だから怖くて、婚約するまでは、そういうことはできません」

 なぜか彼は激高した。疑われた、くだらない男と一緒にされた、というのが怒りの理由だった。

 彼は千佳を侮辱する言葉を、周りに聞こえないよう、小声でありながらも激しい口調でまくしたてた。そして最後には、店員が置いていった革のレシートホルダーをつかむと、千佳の頭をパシーンとたたいた。それほど強い力ではなかったものの、暴力は暴力だ。去り際、富士夫はテーブルに5000円だけおいていった。会計は25000円だった。

 長い婚活の中でも、もっとも腹ただしい思い出であることには違いない。でも、もう過ぎ去ったこと。それなのに、いまだに思い出すと無性にイライラしてしまう。自分でも、何に対してここまで腹を立てているのか、よくわからない部分もある。

 ああ、あの男……富士夫の顔が頭から離れない。このままだと一晩中考えてしまいそう。

 指輪を丁寧に片付けると、外の空気を吸うために、玄関から外に出た。マンションの外廊下に立ち、夏の夜風にあたると、幾分心がすっきりとした。

 でも……なんか、妙に静かだ。音が何も聞こえない。

 そのとき、妙に冷たい風が背後から吹き付けてきた。

 振り返ると、見たことのない女が立っていた。なぜかカップ焼きそばのようなものをむしゃむしゃ食べている。

「あのとき、ああ言えばよかった、と思うことは、ないかね?」

 あ、これやべえ奴。ダメだ、さっさと家に入ろう。 

「わたしはある。ある男に言ってやりたいことがある。でも言えずに死んでしまったよ。わたしと同じような女たちの、その胸のもやもやを救ってやりたいんだ。だからあなたを過去に戻して、言いたいことを言わせてあげよう。どうだい、やってみるかい?」

 次の瞬間、千佳はほとんど無意識でうなずいていた。

■なんだこれは。なんだこのバカ男は。

 目の前に、美しい夜景が広がっていた。テーブルには、キャンドルと、ふたつのコーヒーカップ。そして隣には……。

「いや、ほんと、うちの上司の無能さったらないんですよ。俺が三十分で仕上げる仕事を、丸一日かけてやるんだからだから」

 べらべらとしゃべりながら、富士夫は右の人差し指で奥の歯に詰まった食べカスを取ろうとしている。ふいに話を止め、手をあげると、店員を呼びつけてぞんざいに「あ、チェック、お願い。はやくして」と言った。

「この店、値段のわりにまずかったよね。千佳ちゃんがこの店に来てみたいって言ってから予約したけどさあ。元同僚の男に勧められたんだっけ? その男、全然ダメだね」

 千佳はいきなり愕然とした。なんだこれは。なんだこのバカ男は。

 次の瞬間、ああそうか、全てを理解した。自慢と悪口を一方的に聞かされるだけの会話を、話が弾んでると無理やり見なしていたこと。それだけじゃない。食事マナーの悪さ、店員や周りの人に対する高圧的な態度、その他すべて、直視しないようにしていた。

だって彼は、高学歴で高収入で、自分にはもったいないぐらいの高条件の人だから。付

き合ったら、もっと優しい面が見られるはず。そう、必死に考えようとしていた。

ああ、そうか。

自分が腹を立てていたのは、この男に対してじゃない。この男に対する自分の態度が許せなくて、仕方なかったんだ。

「ところで、千佳ちゃんは、男女が仲良く交際していくために何が必要だと思う?」富士夫が言った。「俺はね。やっぱり相性だと思うんだ。一番は体の相性ってやつかな。大人の男女ってのは……」

 千佳はほとんど無意識のうちに愛想笑いを浮かべていた。わたし、この人といるとき、いっつもこんなふうに愛想笑いをしていたっけと思う。なんとか気に入られたくて。結婚したいと思ってほしくて。

 うわあ。最悪、わたし最悪。こんな男に媚売って。マジ最悪だ。死ねばいいのに。わたしって死ねばいい。そのぐらい最悪。

「え? 千佳ちゃん、一体どうしたの?」富士夫が不思議そうな顔でこちらを見ていた。

「死ねばいいのに……とかなんとか言ってたけど」

 無意識のうちに口から言葉が出ていたらしい。「いや……なんでも……」とつい言い訳をしてしまう。

「あ、もしかして、あの男の店員のこと? さっきから態度も悪いしノロいし、最悪だよね。ていうか、見てよこの会計、あの料理で23000円だぜ? 高すぎじゃない?」

「あ……ええ」

「で、さっきの相性の話だけどさ。体の相性ってのはさ……」

「……って! この期に及んでまだ愛想笑いするわけ⁉ わたし⁉」

 千佳は立ち上がった。そしてテーブルの上の革のレシートホルダーをつかむと、自分で自分の頭にたたきつけた。何度も、何度も。バシン、バシンと店中に音が鳴り響く。

「わたしのバカ! 死ぬほどバカ! こんなクソ男に必死になって! 一体何を見てるんだ! くだらないことばかりに目くらましされてるから、婚期を逃すんだよ! クソバカ女!」

「ちょ、ちょっと千佳ちゃん?」 

 富士夫が腕をつかんで揺さぶってきた。「恥ずかしいよ、ちょっと」

 千佳はカッと目を見開いて相手を見下ろした。「恥ずかしいのはお前だ! 付き合う前に体の相性を確かめたいなんて、どの口が言うんだよ! ていうか絶対下手くそだろ! もう帰る!」

 財布を出した。きっちり会計の半分出して帰ってやろうと思った。ええっと、二万三千円ってことは……とりあえず……。

 背後から「危ない!」と叫び声が聞こえ、顔を上げる。富士夫が椅子を持ち上げていた。そして、こちらに向けて勢いよく放り投げた。

「うわー!!」

■なんでわたし、気づかなかったんだろう。

 夏の夜の空気の中に、自分の叫ぶ声がこだました。マンションの外廊下。どこか遠くから、ブーーーーという長いクラクションの音が聞こえてきた。

 あー、びっくりしたと胸をなでおろす。同時に、部屋の中でスマホが鳴っていることに気づいた。慌てて戻るとと、真治からの電話だった。

 真治は、今日の結納でひどく緊張していた千佳を気遣って電話をかけてくれたのだった。

「何か話したいことがあるなら、聞くよ」彼はそう言った。

 いつもそう言うのだ。いつだって、千佳の話を楽しそうに聞いてくれる。一方的にベラベラしゃべって丸め込もうとは絶対にしない。付き合う前から、ずっと。なんでわたし、気づかなかったんだろう。

「ごめんね」と千佳はつぶやいた。「わたしってさ、本当に最悪な女じゃない? いい歳して男は金とか言ってたこともあったし、自分には甘いくせに他人には厳しいし、サイテーじゃない? こんなわたしのどこがいいの?」

 真治は数秒沈黙し、それからハハハと笑った。

 そして言った。「そういう、ところかなあ」

イラスト/つぼゆり(@tsuboyuri_

南綾子先生によるweb小説『あの時ああ言ってやればよかった』は、10月22日から10月31日まで毎日更新! 公開スケジュールはこちらからご確認いただけます!

10月22日
第1話「恋人がいない女

10月23日
第2話「謝られたい女

10月24日
第3話「叩かれた女

10月25日
第4話「浮気された女

10月26日
第5話「告白した女

10月27日
第6話「プロポーズされた女

10月28日
第7話「死にたい女

10月29日
第8話「絵を描く女

10月30日
第9話「完璧な母の女

10月31日
最終話「怒る女

南 綾子

1981年、愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第4回「女による女のためのR‐18 文学賞」大賞を受賞。主な著作に『ほしいあいたいすきいれて』『ベイビィ、ワンモアタイム』『すべてわたしがやりました』『婚活1000本ノック...

関連記事

Latest Article