1. DRESS [ドレス]トップ
  2. 恋愛/結婚/離婚
  3. あの時ああ言ってやればよかった 第9話「完璧な母の女」

あの時ああ言ってやればよかった 第9話「完璧な母の女」

過去の出来事に対して「あの時、きちんと言い返しておけばよかった……」とモヤモヤした気持ちを抱く様々な女性たち。恋愛、結婚、家族や友人との関係に、やるせない想いを重ねる彼女たちの前に、ひとりの老婆が現れ……。小説家・南綾子による最新作『あの時ああ言ってやればよかった』の連載がスタート! 第9話は「完璧な母の女」。

あの時ああ言ってやればよかった 第9話「完璧な母の女」

「あのとき……ああ言ってやればよかった……」

 デパートの生鮮食品売り場でできるだけ質のよさそうな卵を選んでいると、ふいに過去のできごとが胸をよぎって、秋野静香は息苦しくなった。

 頭を振って、イヤな映像を頭から追い出す。ダメダメ、余計なことを考えている場合じゃない。今日は夫が出張先から帰ってくる。やらなければならないことが山ほどある。

「ねえ、ママ。ハンバーガー食べたい。たまにはいいでしょ?」

すぐ横で息子の祐が弱々しい声で。実現しないとわかりながら聞く言い方。

「ダメだよ」と母親の代わりに、娘の光が答える。

「パパがファーストフードは食べたらだめって言ってたでしょ」

「いつも家のご飯じゃん。つまんねー」

 そう言うだけで、これ以上駄々をこねる息子ではない。かごの中には夫のための大きなステーキ肉。夫のためのブロッコリーとトマト。夫のためのアイスクリーム。

一週間ぶりに帰ってくる夫。久しぶりの家族団欒。

幸せなはずなのに、ため息が霧のように胸の中を曇らせている。どうして今日に限って、あの日のことばかり思い出してしまうのだろう。

 あれは、子どもたちが4歳の頃のこと。静香は24歳で、毎日育児と家事にてんてこまいだった。15歳年上の夫は新しい事業を起こしたばかりで多忙だった。ベビーシッターなど、他人の手を借りるのは、何より夫が嫌がった。何もかもひとりでこなさなければならなかった。しかも完璧に。夫がそれを求めるから。

 あの日、静香は風邪をひき高熱を出していた。妊娠中でも産後でも一度も家事をさぼったことはなかったが、その日は立っているのもつらいほどで、夕食も作り置きのおかずを食卓に並べるのが精いっぱいだった。

 自分はソファで休み、子どもたちだけで食べさせていると、夫がいつもよりはやく帰ってきた。静香は夫に、子どもたちを風呂に入れてほしいと頼んだ。

夫は静香を一瞥し、それからじっと食卓を見つめると、突然「なんだこの冷めたメシは!」と叫んで、静香の髪を引っ張りあげた。

それでも母親か、何が風邪だ、母親ならどんなに体が辛かろうと子どものために出来立ての料理を出すべきだ、お前は愛情が足りないんだ。

矢継ぎ早に怒鳴られ、情けなくて怖くて、涙があふれてとまらなかった。

「熱が出て、つらくて」助けてほしくて、そう言った。

しかし夫は鼻で笑い「お前は何の価値もない人間だ」と言った。それから3日間、口をきいてくれなかった。

 あれから6年、家の中を常に清潔に保ち、料理はすべて手作りで、家族が出来立てを食べられることにはとくに心血を注いでいる。夫の事業は順調で、子どもたちは小学校から私立に通い、静香はママ友とボランティアサークルを立ち上げ、充実した日々を送っている。

 わたしは完璧な母親。

 心に、小さな穴が空いている感じがする。常に。そこから風が吹き込んでピューピューと音が鳴っている気がする。いつも。

 夫に怒鳴られた日。あの日、無理をしてでもちゃんとやればよかった。

「何の価値もない人間だ」

夫がそう口にしたのはあの一度きり。ちゃんとやっていれば、夫にそう言わせることもなかったはずだ。どんなに家事を頑張っても、夫から無価値な人間と思われ続けているような気がする。

頑張っても頑張っても、自分はダメな母親なんじゃないかと不安になる。

あの日さえ、ちゃんとやっていれば。なぜ風邪ぐらいで甘えてしまったんだろう。

「あのとき、ああ言えばよかった、と思うことは、ないかね?」

 声のしたほうを振り返り、心臓が止まりそうになった。娘の光の顔だけが、見知らぬ老婆になっていた。

「わたしはある。ある男に言ってやりたいことがある。でも言えずに死んでしまったよ」

 今度は祐が言った。祐樹の顔も同じ老婆になっている。子どもたちは勝手にカゴの中に手を突っ込むと、おやつ用に買っておいた豆乳ドーナツを見たこともない下品な食べ方でむしゃむしゃ食べはじめた。

「わたしと同じような女たちの、その胸のもやもやを救ってやりたいんだ。だからあなたを過去に戻して、言いたいことを言わせてあげよう。どうだい、やってみるかい?」

 ふたりは声をそろえて言った。ヤダ。怖い。なにこれ。静香はカゴを投げ出し、背を向けて走り出した。しかし次の瞬間、背後から髪をつかまれグイっと引っ張られた。

 あの日、夫にされたときのまったく同じ力で。

■本当に、わたしには価値がない。

「なんだこの冷めたメシは!」

 振り返ると人相の変わり果てた夫の顔があった。静香の髪をつかんだまま、矢継ぎ早に怒鳴っている。子どもに冷めたメシを食わせてお前はゴロ寝か、いい身分だな、お前みたいなやつを寄生虫って言うんだぞ! 

――本当に過去に戻っちゃった、と静香は妙に冷静に思う。

横目で食卓を見ると、まだ小さい子供たちがおびえた顔でこちらを見ていた。それにしても、この人、こんなにもひどいことを言っていたんだ。記憶と違う。あまりにショックで、心を守るために脳が記憶を書き換えたのかもしれない。

「いつまで粗大ごみみたいに寝てるんだ! あと十分以内にメシを作りなおせ!」

「熱が出て、つらくて」

 あの日と同じ言葉を口にしてみたら、泣くつもりなどなかったのに自然と涙がポロっとこぼれた。

「泣けば許されると思ってるのか、お前は本当にバカだな」夫は心底あきれたように言った。

「本当に、何の価値もない人間だ」

 その瞬間、涙がぴたりと止まった。

 何の価値もない人間。

 そうわたしは、何の価値もない人間。

 この日はじめて言われて、ずっとそう思って生きてきた。

「許されるなんて思ってない」静香は低い声で言い返した。夫は一瞬、驚いたように硬直し、すぐに「口答えするな!」と怒鳴った。

「うるさい!」と静香も怒鳴り返す。その剣幕に、夫はたじろいだのか半歩下がった。その隙に立ち上がり、キッチンに駆け込むと、大急ぎで料理をはじめた。

 体はやはり熱っぽくだるかった。しかし死ぬ気で動いた。見た目は26歳だが、中身は主婦歴十年のベテランだ。これまでに培った家事技能を総動員し、自分でも驚くスピードでおかずを4品作り上げ、食卓に並べた。

 夫は全く表情を変えることなく、自分の席に着いた。いただきますも言わず、から揚げを箸でさす。ぺちゃぺちゃと音をたてて咀嚼する。

「おいしい?」と静香は聞いた。夫は答えない。

「わたしはこれでも価値がない人間? 毎日家族のためにおいしいご飯を作って、出来立て食べさせて、子どもたちもいい子に育てて、それでも価値がない?」

「15点」夫がボソッと言った。

「下味がうすくて、肉が臭い。出来立てだったらいいってもんじゃないだろう。全力出してこれじゃあな。お前はやっぱり価値がない人間だ」

「光と祐は? から揚げおいしい?」

 ふたりは困ったように顔を見合わせた。

「もうさっきおかず食べたから、お腹いっぱいで食べられない」光が言った。

「僕も。から揚げいらない」佑が言った。

 そのとき、頭の中で何かがブチッと音を立てて切れた。静香はキッチンに引き返し、まだ熱い油の残った鍋を持ち上げ、「これをかぶって死んでやる!」と叫んだ。娘と息子は、ただ茫然とこちらを見ていた。夫はなぜか半笑いの顔だった。

「やれるものならやってみろよ」

 そう言って箸をテーブルにおろすと、席をたち、すたすたと歩いてリビングを出ていく。わたしには価値がない、と絶望しながら思う。本当に、わたしには価値がない。

■誰のための、完璧な母親

「ママ、ママ」

 娘に腕をゆすられ、ハッと我に返った。

「あの男の人のこと、なんでずっと見てるの?」

 静香の視線の先に、従業員専用口に向かって歩いていく男の背中があった。どこか夫に似ていた。

「あの人が、パパに似てる気がしたの」

「あ、本当だ。なんか、全然振り返らないところが似てる」

そう言う娘の顔を見て、ほっとした。ちゃんと見慣れたいつもの顔に戻っている。息子もだ。今のは一体何だったのだろう。

「帰ろうか」と子供たちに声をかけながら、ふと思いつく。

「ママがもうご飯作らないって言ったら、どうする?」

 子供たちは戸惑うように顔を見合わせた。少しして、娘が言った。

「ご飯作るの、イヤなの? じゃあ今日から、わたしが作ろうか」

「俺も作る!」

 思わず静香は笑ってしまった。バカみたい。わたし、何を言ってるんだろう。

「やっぱり今日はハンバーガー、食べて帰ろっか」

 ふたりはまた顔を見合わせ、次の瞬間「やったー」とうれしそうに声をあげた。完璧な母親。誰のための、完璧な母親だろうか。少なくとも今までは、子どもたちのためではなかった。

わたしのことを価値がない人間だと思っている人のために、これからも自分の時間を無駄にするのだろうか。

店の入り口へ引き返しながら、カゴの中にある夫のためのアイスクリームをもとに戻し、夫のためのブロッコリーとトマトをもとに戻し、夫のためのステーキ肉をもとに戻した。

イラスト/つぼゆり(@tsuboyuri_

南綾子先生によるweb小説『あの時ああ言ってやればよかった』は、10月22日から10月31日まで毎日更新! 公開スケジュールはこちらからご確認いただけます!

10月22日
第1話「恋人がいない女

10月23日
第2話「謝られたい女

10月24日
第3話「叩かれた女

10月25日
第4話「浮気された女

10月26日
第5話「告白した女

10月27日
第6話「プロポーズされた女

10月28日
第7話「死にたい女

10月29日
第8話「絵を描く女

10月30日
第9話「完璧な母の女

10月31日
最終話「怒る女

南 綾子

1981年、愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第4回「女による女のためのR‐18 文学賞」大賞を受賞。主な著作に『ほしいあいたいすきいれて』『ベイビィ、ワンモアタイム』『すべてわたしがやりました』『婚活1000本ノック...

関連記事

Latest Article