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あの時ああ言ってやればよかった 第10話「怒る女」

過去の出来事に対して「あの時、きちんと言い返しておけばよかった……」とモヤモヤした気持ちを抱く様々な女性たち。恋愛、結婚、家族や友人との関係に、やるせない想いを重ねる彼女たちの前に、ひとりの老婆が現れ……。小説家・南綾子による最新作『あの時ああ言ってやればよかった』の連載がスタート! 第10話は「怒る女」。

あの時ああ言ってやればよかった 第10話「怒る女」

「あのとき、ああ言ってやればよかった……」

友人の娘のためにミニチュアドールハウスを作っていると、ふいに過去のできごとが胸をよぎって、栗本道子は息苦しくなった。

「どうしたの?」と沙希が横から声をかけてきた。「おばさん、疲れちゃった?」

 そのとき、沙希の母親の真由美が仕事から帰ってきた。「ごめんねー。遅くなっちゃった。道子、まだ大丈夫? お茶入れるね」

 真由美が入れてくれた温かいほうじ茶をすすりながら、なんとなく窓から夜空をのぞくと、まん丸の満月が浮かんでいた。

「あの人が死んだときも、満月だったんだよね」道子は自然と、そんなことを口走った。

「もう5年?」いつの間に眠ってしまった沙希に毛布をかけてやりながら、真由美が言う。

「あ、わたしが離婚した直後だったから、もう6年かー」

「うん」

「今だから言えるけどさ」真由美はクスッと笑って言う。「わたしずっと道子にムカついてた。あのクソ旦那に何されても、甘んじて受け入れるだけなんだもん。道子って本当に怒らないよね。まるで天使だよ」

「そんなつもりはないんだけどな」と道子は小さな声で答える。真由美には聞こえなかったようで、死んだ夫の悪口を延々と言い続けている。

 結局、その晩は真由美の家に泊まることになった。リビングに布団をしいて3人並んで眠る。真由美と沙希はあっという間に寝息をたてはじめた。カーテンの隙間にのぞく満月は、相変わらず光り輝いている。それをぼんやり見ながら、誰に言うともなしに小声で「そんなつもりはないんだけどな」とまたつぶやく。

 ただただ、時間がはやく過ぎ去ることを祈るので精一杯だっただけ。24歳のときに結婚して、37歳で死別するまで、ほぼ毎晩夫は酒を飲んで、道子を殴った。  

 子どものときから、感情を押し殺してしまう傾向はあった。そのうち、感情そのものがなくなってしまったのだと思う。母も父の暴力に耐えていた。だから、結婚生活、いや、人生とはそういうものだと思ってしまったのかもしれない。何かに耐えること、常に我慢し続けること。それこそが、生きることだと。

 感情がないから、夫に対する恨みもない。今はひとりで自由気ままに生きている。仕事をして、休みの日は何より好きなドールハウスを作って過ごす。それで十分だ。

 でも。あの日のことだけは、どうしても忘れられない。

 それは道子が36歳のときだった。その一年ほど前から夫は全く働かなくなり、朝から晩まで酒を飲んでいた。その晩、道子が保険営業の仕事から帰ってくるなり、まるで挨拶のように頬をぶった。

 いつもと違う、とすぐに気づいた。今日は相当に虫の居所が悪いらしいと。

 案の定、狂ったように部屋の中を暴れ、道子を殴った。挙句、道子が当時、沙希のためにはじめて作ったミニチュアドールハウスを足で破壊した。

 ドールハウスは毎日寝る間も惜しんで作っていたものだった。何かが腹の底から噴き上がってくる感覚があった。が、夫がひときわ強い力で道子の頬を打ったとき、それはあっけなくかき消された。

結局、道子は普段通りに夫が静かになるまでじっと耐え、夫が疲れ果てて眠った後、ドールハウスのかけらを泣きながら集めた。

 その後、まもなく夫のガンが発覚した。どうして見捨てず最後まで看取ったのか、自分でもわからない。感情がないから。何もかも、どうでもよかったから。そうかもしれない。

 でも、今でも、ときどきあのときの、腹の底から何かが噴き上がってくる感覚がよみがえって、自分を苦しめる。あの強い衝動の行き場がなくて、ただただ苦しい。あのとき、ドールハウスを破壊されたとき、気持ちを言葉にして彼にぶつけることができていたら、こんなに苦しみは抱えずに済んだような気がする。少しでも反抗していれば。

 そのときだった。道子はびっくりして「わーっ」と叫んだ。

 慌てて、沙希と真由美を振り返る。ふたりとも、叫び声など全くなかったような顔で眠りこけている。

 道子は上半身を起こし、恐る恐るまた夜空を見た。やっぱり、だ。満月が知らない老婆の顔になっていた。

「あのとき、ああ言えばよかった、と思うことは、ないかね?」

 老婆がしゃべった。これは夢だ、夢を見ているんだ、そう自分に言い聞かせつつ、でもふと気づく。この顔、どこかで見たことが……。

「わたしはある。ある男に言ってやりたいことがある。でも言えずに死んでしまったよ。わたしと同じような女たちの、その胸のもやもやを救ってやりたいんだ。だからあなたを過去に戻して、言いたいことを言わせてあげよう。どうだい、やってみるかい?」

「あの……どこかで会いませんでした?」道子は思わず老婆に声をかけた。

「えーっと、あ! あの有名な事件……」

 すると急に老婆は慌てた顔になり、次の瞬間、さっと消えてまた光輝く満月に戻った。

■押さえちゃダメ! 我慢しちゃダメ!

「おばちゃん、どしたの?」

 沙希に背後から呼びかけられ、振り返る。沙希はのぶとい男の声で「この野郎!」と怒鳴ると、少女とは思えないほど強い力で道子の頬を打った。

 あまりに強い力で頬を打たれ、気づくと床にうつぶせていた。起き上がって振り返り、まず気づいたのは。

 強烈なアルコールの香り。夫の姿。

 瞬時に悟る。理屈はよくわからないが、自分はあの日に戻っている。それは間違いない。

 「うるせえ!」

 何か言ったわけでもないのに、酔った夫がそう叫んでまた殴りかかってきた。道子は慌ててうずくまり、腕で顔をかばった。当時の記憶が一気にあふれるようによみがえってくる。

暴れているときは、じたばたせず、じっとしてできるだけ顔を殴られないようにすること。じりじりとさりげなく部屋の角へ移動しながら、夫の周辺を観察した。

すぐに気づいたことがあった。

夫の足元に、紙を丸めたものが転がっていた。履歴書のようだ。知らないところで職探しをしていたのだろうか。夫の顔を見る。もしかしてこの人、人生を立て直そうと必死だったのだろうか。でも、もう遅い。

「何を見てるんだよ」

 夫は動きを止め、次の瞬間、「うおおおお!」と雄たけびをあげた

 あ、と思った。ドールハウス。ドールハウスを壊される。なんとかしなきゃ。急いで立ち上がったが、数秒遅かった。夫は衣装ケースの上に置いてあった作りかけのドールハウスに踵落としをくらわし、さらに破壊されたそれを持ち上げ、道子に向かってぶん投げた。

 その瞬間。

 熱い何かが、体の中で噴き上がった。

 怒り、これは怒りの炎だ。

 しかしすぐに、それを反射的にかき消そうとしている自分に気付く。だから道子は叫んだ。「押さえちゃダメ!」と。「我慢しちゃダメ!」と。

 視界に、銀色に鈍く光るものがあった。ドールハウスの屋根部分の破片だった。先が割れて鋭くとがっている。次の瞬間にはそれを手にしていた。何かに気付いた夫が「やめろ!」と叫ぶと同時に、腕を振り上げる。最初に腹を刺した。すぐに引き抜いて、今度は胸のあたりを刺した。

 何度も。

 何度も。

 何秒、何分、いや何時間たったのか、わからない。

 夫はまだかすかに息をしていた。口からごぼごぼと泉のように血があふれる。道子は夫にまたがってその様子を見下ろしていた。笑った。

笑いながら「苦しい?」と聞いた。夫は答えない。

道子はまた笑って、今度はこう言った。

「苦しいといいんだけど」

 そのとき、フッと何かが降りてくるように、気づいた。夫に何も言い返せなかったことを、反抗できなかったことを後悔していたのではなかった、ということに。   

 あのとき、ドールハウスを壊されたとき、この人を自分の手で殺させなかったことをずっと後悔していたんだ。わたしの怒りはそれほど大きかった。そんな大きな怒りを、閉じ込めてしまった。だから苦しかった。やっとわかった。

 でも、やっぱり殺さなくてよかった、と思う。こんな男のために、人生を無駄になんかしたくないもの。

 そのとき、目の前で夫の息が止まった。

■過去は変えられない、どんな魔法を使っても

 目を覚まし、まずすぐに沙希と真由美を確かめた。眠っている。時計を見る。午前2時。布団に入ってから、約3時間。

 今の……夢?

 夢でも、いいか。なんだか、今、とても気分がすっきりしている。

 わたしにも感情はある。怒り。わたしもあれだけ激しく怒ることができる。誰かにぶつけなくても、自分でその感情を認めてあげるだけでいいのかもしれない。

 うん。これからは、すべての感情を味わいつくす。そういう人生にしたい。

 眠ろうと再び目を閉じかけたが、何かが心をざわつかせた。体を起こし、枕元においたスマホを手に取って、ネット検索する。ヒットした女性の顔の画像を見て、「やっぱりそうだ」とつぶやいた。

 まだ道子が小学生だったときに起こった殺人事件。被害者の女性は30歳なのに、亡くなったとき老婆のようだったと報道されていたことをよく覚えている。

画像は卒業アルバムのものだが、さっきの月の老婆と、目つきが同じだった。内縁の夫に部屋に閉じ込められたまま、確か餓死してしまったのではなかったか。

 誰かに、何か言ってやりたいことがあるのかな。

でも、それは絶対に実現しない願いだ。過去は変えられない、どんな魔法を使っても。でも、過去についての解釈は変えられるのかも。そんなことをぼんやり考えているうちに、眠りに落ちる。

イラスト/つぼゆり(@tsuboyuri_

南綾子先生によるweb小説『あの時ああ言ってやればよかった』一覧はこちらから見ることができます!

10月22日
第1話「恋人がいない女

10月23日
第2話「謝られたい女

10月24日
第3話「叩かれた女

10月25日
第4話「浮気された女

10月26日
第5話「告白した女

10月27日
第6話「プロポーズされた女

10月28日
第7話「死にたい女

10月29日
第8話「絵を描く女

10月30日
第9話「完璧な母の女

10月31日
最終話「怒る女

南 綾子

1981年、愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第4回「女による女のためのR‐18 文学賞」大賞を受賞。主な著作に『ほしいあいたいすきいれて』『ベイビィ、ワンモアタイム』『すべてわたしがやりました』『婚活1000本ノック...

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