あの時ああ言ってやればよかった 第7話「死にたい女」
過去の出来事に対して「あの時、きちんと言い返しておけばよかった……」とモヤモヤした気持ちを抱く様々な女性たち。恋愛、結婚、家族や友人との関係に、やるせない想いを重ねる彼女たちの前に、ひとりの老婆が現れ……。小説家・南綾子による最新作『あの時ああ言ってやればよかった』の連載がスタート! 第7話は「死にたい女」。
「あのとき、ああ言ってやればよかった……」
今晩だけでも二百回ぐらいうっている寝がえりをまたうっていると、ふいに過去のできごとが胸をよぎって、望月花代は息苦しくなった。
眠れない。時間を確かめたらますます眠れなくなるのはわかっている。……多分今、2時すぎぐらい。夏はすぐに明るくなるからいやだ。
もういい加減、耐えられない。もうたくさんだ。生きていても、何の希望もない。悲しみだけが、廃止された線路のようにずっと続いていく。
結婚した頃は、こんな未来が待っているなんて予想もしていなかった。
若い頃は異性と全く縁がなく、だから33歳で夫の信二との縁談がまとまったときは心底ホッとした。彼はひとつ歳上で、家業の電気店を手伝っていた。
優しく、明るく、堅苦しくないところが好きだった。
ただいかんせん、気弱だった。気弱すぎた。
同居は必要ないと言われていたのに、新婚1カ月でほぼ強制的に彼の実家に転居させられた。花代は役場での仕事を続けながら、家事と病気の舅の世話まで負担させられた。全てを采配していたのは、姑だった。
子どもはなかなかできず、39歳のとき、子宮外妊娠した。医者に、今後妊娠することは難しいだろうと宣告された。このときがターニングポイントだったと思う。
姑は大義名分を得たとばかりに、嫁いびりにますます拍車をかけた。板挟みに耐えきれなくなった信二は、まるで意思をなくしたロボットみたいに、母親の言いなりになっていった。42歳のとき、花代は心身ともに調子を崩し、一日中布団の中から出られなくなった。
頭の中は常に霧がかかったようで、まともなことは何も考えられなかった。
ある日の昼間。年が明けたばかりの、とても冷え込んだ日。その頃、夫婦の寝室と呼べるものはなくなり、花代は陽が一切あたらない物置同然の四畳半に閉じ込められていた。
いつものように湿った布団の中で石のようにじっとしていると、隣の居間で、姑と信二がひそひそと話し合っている声が聞こえた。が、その頃は思考力だけでなく、聴覚や視覚も鈍っていて、まるで水の中の会話みたいにしか聞こえないのだ。信二が何か大事なことを言っている。それはわかった。でも聞き取れない。そのうち、ふすまがそっと開いて、すべてが記入された離婚届と、慰謝料は一切請求しない旨が書かれた念書が、枕元に差し出された。
離婚後、信二はすぐに見合いをし、15歳年下の女性と再婚した。まもなく子どもが生まれた。狭い町なのでなんでも耳に入る。相変わらず電気店を手伝っているようだが、家を出て家族3人でアパート暮らしをしているらしい。
花代はずっと変わらない。この夏で、48歳になる。体調は回復したが、役場はやめた。実家の農業を手伝いながら、死んだように生きている。やりたいことも何もない。ただ、ひとつ心残りがあるとすれば……。
「あのとき、ああ言えばよかった、と思うことは、ないかね?」
声が聞こえた。今、はっきりと。自分より少し年上の女性の声。花代はぎゅっと目を閉じた。とうとう、幻聴が聞こえるようになってしまったのか。
「わたしはある。ある男に言ってやりたいことがある。でも言えずに死んでしまったよ」
しかし、幻聴にしては妙に鮮明だった。あと、話し声の合間に聞こえる咀嚼音みたいなものはなんだろう? 熱いものでも食べているのか、犬みたいにハフハフ言っている。何か食べながら話す幻聴なんて、そんなのアリ?
「わたしと同じような女たちの、その胸のもやもやを救ってやりたいんだ。だからあなたを過去に戻して、言いたいことを言わせてあげよう。どうだい、やってみるかい?」
「いや、別に言いたいことなんかないから、いい」
花代は真っ暗な天井に向かってつぶやいた。幻聴と会話するなんて、わたしもいよいよ終わったな、そう思ってクスッと笑う。誰かに言ってやりたい言葉なんて、本当に何もない。
だけど、もう一度聞きなおしたい言葉は、確かにあった。
■わたしの未来を決めないでよ。
そのとき、真っ暗だった天井がじわじわと明るくなり、やがて、電話機の形のシミが浮かび上がった。あれは、あのシミは、布団の中で毎日、泣きながら見つめていたシミだ。ここは、結婚生活の最後、鳥のように閉じ込められていた物置。幻聴に続いて、幻覚まで?
「ほら、いいからはやく書きなさいよ」
姑の声。姑がしゃべってる。隣の部屋にいるんだ。昔の恐怖がよみがえり、すぐに心臓が早鐘を打ちはじめる。
「あんな出来損ないの嫁をよこして、あの家もろくなもんじゃない」
「でも金を一円も払わないのは、さすがにまずくないか?」
これは、信二だ。もっとしっかり聞こうと、花代は布団を抜け、ふすまに耳をつけた。
「俺はもう再婚相手も決まってるってのに、あいつのことを一文無しで追い出すなんて、忍びなくてさ」
ええ!? どういうこと? もうこの時点で再婚決まってたの? 初耳だ。あのとき、大事なことを聞いているような気がしたのは、この話だったのだろうか。
「金は次の結婚のために使うべきだよ。あんたもあの若い子のこと、気に入ってるんだろ?」
「でも、俺にだって情はあるんだよ。あいつ、もう43だよ? この先、幸せになろうにも、なれっこないよ。俺のせいだ。申し訳ないと思う。本当、申し訳ない」
何それ。
いやちょっと……ちょっと待ってよ。
「俺はあいつの未来まで奪ってしまった。もうお先真っ暗だよ、あいつは。せめて少しの金ぐらい、俺の貯金から、少しだけ分けてさ」
いやいや、あんた、あんたよ、ちょっと待って。待ちなさい。何の権限があって、今、わたしの未来まで奪うわけ? いや実際、今のわたしの生活は底辺だけどさ、でも、あんたが勝手に決めないでよ。わたしの未来を決めないでよ。
腹の中から熱いエネルギーの塊が、掘り当てられた温泉みたいにブワッと湧き上がってきた。何かに導かれるように、体が勝手に動いた。花代は立ち上がり、ふすまをスパーンと開けた。
そのとき、花代は思った。わたし、今、遠山の金さんみたい。
ふたりは驚愕の表情でこちらを見ていた。口の達者な姑がさっそく何か言いかけている。その隙を与えず「うるさい、ババア!」と怒鳴った。
「いや……まだ何も言ってないんだけど……」
「とにかくうるさい! それよりあんた!」花代は信二を指さした。
「未来を奪ったって何よ? 悦に入って語ってんじゃないよ。新しい女がいるからって、モテ男にでもなったつもり? バカじゃないの? あんたみたいなチンケな男に、わたしの未来も人生も奪わせない! 死ぬとき、絶対あんたのことを思い出さずに済む人生にするから。今に見てろ。バーーカ!」
勢いに任せてピシャッとふすまを閉めた。しかし、すぐにまた開けた。
「言い忘れたわ。貯金十万もないくせして金分けるとか、寝言は寝て言えよ。バーーーーーーーーーーーーカ!」
今度はちょっと静かに、ふすまを閉めた。
ふうと息を吐き出す。そして、振り返って、締め切った窓のカーテンを開けた。いつもはカーテンを開けても、正面にある工場のせいで日の光なんてほとんどささないのに、外はまるで雪景色のような真っ白な光が視界いっぱい広がっていて、目がくらんだ。
■その言葉が、ずっと聞きたかった。
瞼を開く。今、少し眠っていたような、眠れなかったような。夢を見たような、そうでないような。
一瞬、光に目を射抜かれたような気がしたけれど、部屋は薄暗かった。時計を見る。4時12分。もう朝だ。一日がはじまる。
何にもしない、一日が。布団にくるまって、ただひたすら死にたいと嘆く一日が。
のろのろと布団を抜け、なんとなく窓に寄った。カーテンをあけ、ベランダに出る。東の空に夏の朝焼けが広がっていた。
山のすぐ上の空が、金と桃色のまだらに染まっている。美しい着物の帯みたいだ、と花代は思う。もうすでに空気は湿気がたっぷりで、むき出しの腕がすぐにべたついてくる。そのとき、ヒグラシが一斉に「ケケケケケ」と泣き出した。
ずっと室内に閉じ込められていたいたわけもないのに、空を見るのも、虫の鳴き声を聞くのも、外の空気を肌に感じるのさえ、何年振りかのように、一瞬思えた。
それにしても。
申し訳ない――その言葉が、ずっと聞きたかった。花代に対して、花代にしたことや、あるいはしてやれなかったこと、そして花代の人生について、信二に申し訳ないと謝ってほしい。ずっとそれを願っていた。
でも、それは間違っていたのだ。そんな言葉を聞いたって、幸せな気持ちにはなれない。かわいそうな女だと思われても、嬉しくなんかない。
そうだ、いつ死ぬかわからないけれど、今日から死ぬその日まで、あの人のことは思い出さないようにしよう。どうせ生きていくんだったら、そういう人生にしたい。
気づくと空はもう水色だった。
イラスト/つぼゆり(@tsuboyuri_)
南綾子先生によるweb小説『あの時ああ言ってやればよかった』は、10月22日から10月31日まで毎日更新! 公開スケジュールはこちらからご確認いただけます!
10月22日
第1話「恋人がいない女」
10月23日
第2話「謝られたい女」
10月24日
第3話「叩かれた女」
10月25日
第4話「浮気された女」
10月26日
第5話「告白した女」
10月27日
第6話「プロポーズされた女」
10月28日
第7話「死にたい女」
10月29日
第8話「絵を描く女」
10月30日
第9話「完璧な母の女」
10月31日
最終話「怒る女」