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あの時ああ言ってやればよかった 第2話「謝られたい女」

過去の出来事に対して「あの時、きちんと言い返しておけばよかった……」とモヤモヤした気持ちを抱く様々な女性たち。恋愛、結婚、家族や友人との関係に、やるせない想いを重ねる彼女たちの前に、ひとりの老婆が現れ……。小説家・南綾子による最新作『あの時ああ言ってやればよかった』の連載がスタート! 第2話は「謝られたい女」。

あの時ああ言ってやればよかった 第2話「謝られたい女」

「あのとき、ああ言ってやればよかった……」

 深夜0時、キッチンでシンクを黙々と磨きながら、ふいに過去のできごとが胸をよぎって、葉山さゆりは息苦しくなった。

 真夜中にキッチンの掃除をしていると、必ずあのときのことを思い出してイヤな気持ちになる。

 あれは、もう10年も前のこと。

 さゆりはまだ28歳だった。娘のゆかりはまだお腹の中。普通なら、幸せの絶頂のはずだ。

 でも、実際はその逆だった。5歳年上の夫・宏明の友人夫婦のせいだ。

 美貴と良太は宏明の高校時代の同級生で、ちょうどさゆりたちが結婚した頃、良太の転勤先から地元に戻ってきた。それから週末は、4人で過ごすのが当たり前になった。さゆりが妊娠しても変わらず、たまにはふたりで過ごしたい、と夫に言っても「4人のほうが楽しいだろう」と取り合ってもらえなかった。さゆりはちっとも楽しくなんかなかった。食事と酒の用意も、後片付けも、すべてさゆりひとりに押し付けられた。

「いつもごめんねー」というだけで誰も手伝ってはくれない。とくに美貴には、夫たちがいないところで意地悪もされた。夫に相談しても、気のせいだとあしらわれるだけ。

 4人での思い出はイヤなことしかない。中でも、あの晩の屈辱は忘れがたかった。

 その頃すでにさゆりは臨月だった。その日も昼からふたりはやってきて、夜遅くまで飲んだくれていた。

 深夜0時少し前、よっぱらった美貴が勝手に台所に立ち入り、カレーの入った鍋を床にひっくり返した。

 しかし美貴は謝りもせずにへらへらしているだけだった。夫もいつも通り、見て見ぬふり。仕方なくさゆりは台所の床にはいつくばって後始末をはじめた。雑巾を動かす自分の手を見つめていたら、誰もいない場所にたったひとりで取り残されたような気持ちがして、気付くと泣いていた。

 ふいに、頭上から美貴のキャハハハハ、という高笑いの声が降ってきた。

「さゆりちゃん、何泣いてるの? バカじゃないの?」

 夫と良太もそばに立って、こちらをのぞき込んでいた。

「お腹出てるし、なんかブタみたい。自分の汚物のまみれるブタだよ、それ、やばいよ。キャハハハハ」美貴はまたお得意の高笑いをして、タバコを吸い、さゆりの涙に濡れた頬に向けて煙を吐き出した。

 さゆりはすがるように夫を見た。さすがに今回ばかりは妻をかばって、ふたりを追い出してくれるのではないか。そう一縷の望みを抱きながら。しかし夫はひとつため息をつくと「なんだよ。泣くほどのことかよ。恥ずかしいな」そうぽつりと言っただけだった。そのときのショックと絶望感。目の前が真っ暗になった。

 数日後、無事に娘が生まれた。それからまもなく、美貴と良太が離婚した。良太の不倫が発覚したのだ。結局あの晩が、ふたりに会った最後になった。

 これで平穏で幸福な時間が戻ってくる、とそう思ったが、そうはならなかった。

あのとき、助けてもらえなかった。そのわだかまりは消えず、夫を一番の味方としてはもう見られなかった。彼もそれを感じ取ったのか、あるいは元からそうだったのか、さゆりにも子どもにも強い関心を見せなくなった。

最近の夫は家にいるときはうつろな顔をしてスマホの画面をひたすらにらみ続けている。子どもの成長よりよっぽど面白い何かが、そこに映っているのだろうさゆりは思う。夫にはお金以外の何も期待していない。彼の健康も将来も全てがどうでもいい。

 ただ、あのときのことを思い出すと、悔しくて、胸がモヤモヤしてどうしようもないのだ。

 さゆりはシンクを磨く手を止め、ひとつため息をつく。そして流しの下の棚にこっそり隠してある煙草を取り出し、ベランダに出た。

 次の瞬間、衝撃で心臓が止まりそうになった。

 隣の家のベランダから、知らないおばさんが体を伸ばしてこちらを覗き込んでいた。おばさんはどういうわけか肉まんみたいなものをむしゃむしゃ食べている。

「あのとき、ああ言えばよかった、と思うことは、ないかね?」おばさんは言った。「わたしはある。ある男に言ってやりたいことがある。でも言えずに死んでしまったよ」

「……あの、お隣の奥さんのお母さんですか?」

 たしか、隣の奥さんのお母さん、ボケちゃって介護が大変って話だったような。でも奥さんは浮気して家出して、旦那さんが面倒見てるんだよね……旦那さん、今日は不在なのかな。
「わたしと同じような女たちの、その胸のもやもやを救ってやりたいんだ。だからあなたを過去に戻して、言いたいことを言わせてあげよう。どうだい、やってみるかい?」

 ああ、やっぱりボケちゃってるんだな。そう思いつつも、相手の言葉に妙な説得力を感じていた。この人の言っていることが本当だったらいいのにな、と思う。その心のうちを読んだように、おばさんはニヤリと不敵に笑った。

■わたしはあんたたちの奴隷じゃない

 突然、体が恐ろしいほど重たくなった床に四つん這いになっている自分の腹を見る。膨らんでいる。床に広がった冷めたカレー。手には汚れた雑巾。自分の頬に触れると、涙で濡れている。

 ちらっと背後を伺った。美貴と良太、そして夫がリビングのソファにだらしなく座ってテレビを見ていた。紛れもなく、あの夜だ。

 それにしても、腰が痛い、猛烈に。背中もやけに重い。臨月ってこんなにつらかったっけ? 信じられない。わたし、こんなつらい体であの酔っぱらい3人の面倒を見ていたの?

 しかもこんな夜中に。じわわじと腹がたってきた。

 そのとき、目の前に女の細い足首が現れた。

 「さゆりちゃん、何泣いてるの? バカじゃないの?」

 美貴だ。そのそばには夫と良太もいた。夫の顔は、いつも家でよく見る表情だった。うつろで、何かを見ているようで、何も見ていない顔。

「お腹出てるし、なんかブタみたい。自分の汚物のまみれるブタだよ、それ、やばいよ。キャハハハハ」

 美貴は高笑いすると、さゆりの涙に濡れた頬に向けて煙草の煙を吐き出した。

 さゆりは重たい腹を支えながらゆっくり立ち上がり、次の瞬間、美貴の左手をパチンとはじいた。

「ふざけるな!」さゆりは叫んだ。「妊婦に煙草の煙を吹きかけるとか、立派な暴力だ!」

 そしてさゆりはこの10年、何度も今夜のことを思い出しては、ああ言ってやればよかったと妄想し続けた言葉を、一気に吐き出した。

「わたしはあんたたちの奴隷じゃない。料理上手とか褒めてればなんでもやると思ったら大間違いだから。それと美貴、うちの調味料とか生理用品とか、ちょくちょく盗んでるのしってるんだからね。あと良太、あんた、うちの隣の奥さんと浮気してるでしょ」

 美貴と良太は「どういうことよ?」「お前こそ」と互いになじりあいはじめた。それを放っておき、さゆりは夫の呆けた顔を見据えた。
「ねえ、わたし、あなたの娘を妊娠してるんだよ」夫に問いかける。

「こんな夜更けまで家事させて、あげく顔に煙草の煙を吐かれて、なんとも思わないの? ねえ、何か言ってよ」

 夫は数秒黙り込んだ後「……泣くなよ」とだけ、絞り出すように言った。

「やっと出てきた言葉が、それ? もっと、こう……」

「ていうかさ」そのとき、美貴の大きな声に遮られた。「何、悲劇のヒロインぶってるわけ?」

 美貴はつかんでいた良太の胸ぐらを離し、こちらにツカツカと歩み寄ってきた。

「まるでわたしらが家事押しつけたみたいな言い方してるけど、別に頼んでないじゃん。あんたって、何かにつけて、押しつけがましいのよ。わたしたちに感謝してもらいたいのがいつも見え見え。これ見よがしに手の込んだ料理出してきたりしてさ。あんたのダンナ、よく言ってるよ、嫁と一緒にいると息がつまるって」

 急に、目の前が暗くなったような感覚がした。息がつまる。そうか、夫のうつろな顔は、息がつまっている顔だったんだ。

 誰かに感謝されたい。認められたい。自分の中に常にある欲求。押しつけがましい。学生時代の友達にも何度か言われたことがあった。

 そうだ、とさゆりは思う。未だに、わたしは夫から感謝されるときを待っている。関係が冷え切った今でも。いつか、そのうち、わたしの頑張りに気付いてくれるんじゃないかって。あのときごめんって、後悔して謝ってくれるんじゃないかって。

 そのとき「あっ」と思わず声が出た。胎動だった。娘が内側から蹴り上げていた。

 懐かしい感覚。バカみたいだよね、とさゆりは娘に問いかけた。そんなママ、かっこわるいよね。

 さゆりは夫の顔を見た。相変わらずのうつろな目。ただただ、時間が過ぎ去るのを待っている顔。

「いままでありがとう」さゆりは言った。「でも、もうさようなら」

■最後のチャンス

「あちっ」

 持っていた煙草がいつの間にか短くなり、火が指にふれた。咄嗟にベランダに振り落とした。

 冷たい風はやみ、ベランダは梅雨らしいムシッとした夜気に包まれている。

 隣の奥さんのお母さんらしき人の姿はもうなかった。

 なんだったんだろう、今の。夢? 首を傾げながらさゆりは部屋に戻る。

 そのとき、玄関から物音が聞こえた。夫が帰ってきたようだ。時計を見る。深夜2時。

 夫はフラフラとした足取りでリビングダイニングまでやってくると、コップを出して水を飲んだ。そのコップを洗わずに置いて、冷蔵庫をあけ、中に入っているおかずの残りを冷えたままムシャムシャ食べはじめる。

 さゆりはそれをじっと見つめながら、心の中で「これが最後のチャンス」とほとんど無意識のうちに思っている。今日こそ、何か言ってくれないか。今日こそ、気付いてくれないか。今日こそ、あのときごめん、と。

 ……いや、ないでしょ。

 バカみたい。笑いがこみ上げてきた。急にケラケラと笑い出した妻を、やっと夫はその存在に気づいたように、振り返った。

 さゆりは笑いを止め、無表情になって言った。「ありがとう、でも、もうさようなら」

イラスト/つぼゆり(@tsuboyuri_

南綾子先生によるweb小説『あの時ああ言ってやればよかった』は、10月22日から10月31日まで毎日更新! 公開スケジュールはこちらからご確認いただけます!

10月22日
第1話「恋人がいない女

10月23日
第2話「謝られたい女

10月24日
第3話「叩かれた女

10月25日
第4話「浮気された女

10月26日
第5話「告白した女

10月27日
第6話「プロポーズされた女

10月28日
第7話「死にたい女

10月29日
第8話「絵を描く女

10月30日
第9話「完璧な母の女

10月31日
最終話「怒る女

南 綾子

1981年、愛知県生まれ。2005年「夏がおわる」で第4回「女による女のためのR‐18 文学賞」大賞を受賞。主な著作に『ほしいあいたいすきいれて』『ベイビィ、ワンモアタイム』『すべてわたしがやりました』『婚活1000本ノック...

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