あの時ああ言ってやればよかった 第4話「浮気された女」
過去の出来事に対して「あの時、きちんと言い返しておけばよかった……」とモヤモヤした気持ちを抱く様々な女性たち。恋愛、結婚、家族や友人との関係に、やるせない想いを重ねる彼女たちの前に、ひとりの老婆が現れ……。小説家・南綾子による最新作『あの時ああ言ってやればよかった』の連載がスタート! 第4話は「浮気された女」。
「あのとき、ああ言ってやればよかった……」
仕事帰りに寄ったコンビニで明日の朝食のパンを選んでいると、ふいに過去のできごとが胸をよぎって、菅田環は息苦しくなった。
長く重たいため息を吐きだし、結局毎日食べているクリームパンを手に取る。いつまであの人のことにとらわれなきゃいけないのだろう。そう思いつつ、それでも考えてしまう。前の夫のことを。
同い年の亮介とは、大学一年のときに友人の紹介で知り合い、互いが28歳のときに結婚した。ふたりは自他ともに認める”親友”夫婦だった。趣味を共有し、いつも笑い話ばかりして。休日もずっと一緒。好きなバントのライブにいったり、家で映画を何本も見て感想を語り合ったり。そんな日々に、飽きることはないと思っていた。
2年たっても子どもができなかった。それは当たり前のことだった。子どもができるようなことを、滅多にしなくなっていたのだから。新婚の頃ですでに、年に数回程度だったと記憶している。
自分たちはそれでいいのだと、環は思うようにしていた。夫婦関係は夫婦それぞれ。自分たちはそういう形を選んだ。それで十分幸せだから大丈夫。きっと亮介も同じ考えだ。そう信じていた。
でも違った。
亮介の浮気が発覚したのは、結婚10年目、ふたりが38歳の春。その日は突然きた。
環が出張先から予定よりはやく帰宅したら、風呂場から女が裸で出てきた。夕暮れどきで、赤い夕日が窓からさして、女はこちらに気付かないままタオルで髪を拭いていた。そのすべてを、スローモーションで覚えている。まるでドラマの一場面みたいだった
「男としての自信を取り戻したかった」
彼はそう言い訳し、そのまま家を出て行った。何の音沙汰もないまま翌月、亮介の両親が会いに来た。相手の女の妊娠が判明したらしかった。「金は出すから、別れてやってくれ」彼らは頭を下げた。「孫の顔が見たいから、別れてやってくれ」と。
最後に彼が荷物をとりにくる日、顔を合わせるのがものすごく怖くなって、不在にした。だから、何も話せないまま別れて、今に至る。
ふたりで買ったマンションはすぐに売りに出した。それから約3年、環はずっとひとりで暮らしている。同じ仕事をして、恋人も作らず。ただただ、過去を悔やんで生きている。
結婚したことも、離婚したことも悔やんでいない。ただ、あの日、あのとき、家に残って彼を待って、それまでたまった不満や怒りをすべてぶつけてやればよかった。
こっちだって、女として見てもらえず本当はさみしかったこと。
セックスの回数が減ったことについて話し合いをもちかけたとき、笑ってはぐらかされ、とてもみじめだったこと。ほかにも、たくさん。
もしかしたら、今からでも遅くないかもしれないとも思う。そう、今からでも会いに行って、言うべきことを言う。その言うべきことを言わなかったせいで、過去にとらわれたまま抜け出せない。
ハア、とまた長い息を吐きながら、環はレジ台にクリームパンと紙パックの牛乳を置いた。
「あのとき、ああ言えばよかった、と思うことは、ないかね?」
顔をあげた。今、誰の声? あたりをきょろきょろ見回す。さっきまで他に客がたくさんいたいのに、誰もいない。レジ係のおばさん以外、誰も。
「わたしはある。ある男に言ってやりたいことがある。でも言えずに死んでしまったよ」
レジ係のおばさんはそう言うなり、ホットスナックのケースからフライドチキンを取り出してガツガツ食べはじめた。
「わたしと同じような女たちの、その胸のもやもやを救ってやりたいんだ。だからあなたを過去に戻して、言いたいことを言わせてあげよう。どうだい、やってみるかい?」
なにこれ? こんなことってある? たった今思っていたことを、このおばさんが叶えてくれるの? このフライドチキンの油で唇をテカテカにしているこの妙なおばさんが? ていうかこの人本当におばさん? おじさんにも見えるけど? どっち? やっぱ夢? これは夢なの?
「夢でもいい。お願いします」
おばさんかおじさんかよくわからないそのレジ係の、テカテカの唇を見ながら環は言った。
■自分を過去に閉じ込めていたのは、自分自身
キャーーーーーーーと子どもの叫び声が聞こえ、目を覚ます。昔の家のリビングの、ソファに横になっていた。これは……やっぱり夢? 半分寝ぼけたままローテーブルに置いてあるスマホを手に取った。日付は3年前の4月6日。亮介が荷物をとりにきた日だ。時刻は午後3時3分。
一気に目が覚めた。ということは、もう間もなく亮介がここにくるはずだ。どうしよう。どんな顔をして彼を迎えればいい? 焦りが足の先からジリジリとこみ上げてくる。やっぱり、無理だ。逃げ出したい。逃げようかな?
環はリビングとダイニングをぐるぐると犬のように歩きまわった。
そもそも、言うべきことってなんだっけ? ああ、頭が真っ白だ。そのとき、視界を何かが横切り、胸がざわついた。足を止めて振り返る。
なんだろう。何が気になったんだろう。部屋を見渡す。懐かしい景色だった。そこは、たしかにふたりで暮らした家だった。ふたりで選んだ家具。お気に入りの萌黄色のカーテン。その横のガラスキャビネット。
キャビネットにゆっくり近づいた。そのガラスの扉に、まるで鏡のように、不思議なほどくっきりと自分の顔が映し出されていた。胸をざわつかせたのは、これだ。39歳の自分の顔。
今とは、まるで別人だ。
たった3年しかたっていないとは思えないほど、若々しい。髪は豊かに光を照り返し、肌も十分つやつやしている。これに比べたら、毎朝見る42歳の今の顔は、もはや老婆だ。
白髪はほったらかし、顔は乾燥しすぎて粉がふき、まるでじゃがいも。でも気にもとめなかった。今の自分の姿なんて、どうだっていいから。過ぎ去った、もう戻らない時間にとらわれ続けているから。42歳で老婆。そんなのイヤだ。たとえこの先ずっとひとりでも、こんなにはやくおばあさんになりたくない。わたしでいながらわたしを失っている。そのことに、今、やっと気づいた。
「何をしているんだよ」
驚きで、呼吸が止まりかけた。
振り返ると、すぐ後ろに亮介が立っていた。彼は表情も変えず、また同じ言葉を口にする。
「何をしているんだよ」
言いたかったこと、言うべきこと。亮介を前にした途端、なぜか妙に心が落ち着いて、言葉がいろいろ浮かんできた。でも、言ってもしょうがない、急にそんな気になっていた。
言ったら言ったで、すっきりはするだろう。でも、もうそうしたいとは思わないのだ。自分を過去に閉じ込めていたのは、自分自身だ。それなら、自力で脱出したい。この人はもうわたしの人生には関係ないのだから、1ミリでも関わらせたくない。
「言いたかったことがいろいろあったんだけど、もういいや」
環は亮介の目をまっすぐ見て言った。亮介は視線の定まらない目でこちらをぼんやり見返している。浮気が発覚する少し前から、彼は家でときどきこんな目をするようになった。家にいながら、どこか遠くを見ていたのだろう。
「長い間、どうもありがとう。今日を限りに、もう二度と、亮介のことを思い出すことはないと思う」
「なんだよ、それ」
「過去のことだから。何もかも。これからのわたしには関係のないことだから。幸せになれるといいね」
次の瞬間、予想もしえないことが起こった。亮介が顔をくしゃくしゃにして泣き出したのだ。
「俺、本当は別れたくない。子どもなんかほしくない。あいつと結婚なんかしたくない」
彼はそれまで環が聞いたことのない話をしはじめた。浮気相手とは体の相性だけで付き合っていたということ。音楽の趣味も映画の趣味も合わず、価値観も違い、一緒に生きていきたいとはとても思えないこと。
「俺ら、どうしてこんなことになってしまったの?」
「わからないけど、過去を悔やんでもしょうがないんじゃない? 新しい奥さんのこと、目をそらさず、ちゃんと見てあげたほうがいいと思うよ」
亮介はすがるような顔で環を見た。その青ざめた頬を一度だけそっとなで、環は彼の横を通り過ぎ、部屋を出た。
■家に帰ったら、まず鏡を見よう。
「ありがとうございましたー」
目の前で自動ドアが開いた。振り返ると、レジの中には坊主頭の若い男の子しかいなかった。
クリームパンと牛乳が入ったレジ袋を手にさげ、外に歩き出しながら、今のなんだったんだろうと思う。やっぱり夢? ていうか、亮介は浮気相手と本当は結婚したくなかったのかな? それともさっきのアレは、わたしの心の奥底にある願望が反映されたものとか?
……そんなこと、どっちだっていいか。
そうだ。家に帰ったら、まず鏡を見よう。今のわたし、どんな顔をしているのか、今一度ちゃんと見てみよう。そして明日から、いや今日から、自分磨きに取り組もう。
失った自分を取り返す。そんなことは不可能なんだろうか。わからない。わからないけれど、もう後ろは振り返りたくない。そんなことをぼんやり考えながら、環は家までの道をぶらぶらと歩きだす。
イラスト/つぼゆり(@tsuboyuri_)
南綾子先生によるweb小説『あの時ああ言ってやればよかった』は、10月22日から10月31日まで毎日更新! 公開スケジュールはこちらからご確認いただけます!
10月22日
第1話「恋人がいない女」
10月23日
第2話「謝られたい女」
10月24日
第3話「叩かれた女」
10月25日
第4話「浮気された女」
10月26日
第5話「告白した女」
10月27日
第6話「プロポーズされた女」
10月28日
第7話「死にたい女」
10月29日
第8話「絵を描く女」
10月30日
第9話「完璧な母の女」
10月31日
最終話「怒る女」