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「肩書きのない私」を怠けない

「肩書きのない私」を怠けない

妻であったり、母であったり、仕事人であったり、人であったり、女であったり。私たちは日々、さまざまな私を使い分けねばならないから大変だ。せっかく持って生まれた権利、全部をおいしく堪能したいけれど、時間にも体力にも限界がある。全部やろうと無理した結果、疲れて病んだり、死んだりしまっては元も子もない。そこで自ずと、何を優先して、何を二の次にするかという優先順位を付ける必要が出てくる。

優先順位は人によって違って当然、という前提をふまえた上で、私個人はというと、基本的にはお母さんである私が、いつだって、あらゆる私の中心にいるべき、と思っている。というのも、いくら親である私がお金やスマホを持たせて、子どもたちに自由を与えたとしても、社会的には、未成年の子どもたちには、私と同じだけの自由がないからだ。望んで産んだ者として、少なくとも子どもたちが成人して、個人としての権利と、責任を果たす力を持つようになるまでは、最低限守っていかなきゃいけないなーと思う。

母としての自分に縛られすぎない

ただ、だからといって、子どものためにあらゆる「母・以外の私」を犠牲にしなきゃいけないとは思わない。たとえば、お母さんが外で仕事をしようとすると、しないよりは、そりゃ家の中で過ごす時間が減って、学校から帰ってきた子どもに「おかえり」を言えなかったりする。でもその一方で、仕事をしたからこそ収入が増えて、結果、子どもとの生活がより安定したり、子どもの進路の幅が広がったりするかもしれない。さらに、仕事でやりがいを得たり、頼られたりすれば、個人としての自己実現もできるかも。……そんな風に、もともと物事は多面的にできているから、自分の中のいずれかの私が、何かを選択をしたからといって、それ以外の私の意思を切り捨てることにはならない、いわゆる「三方よし」な選択をすればいいと思うのだ。

もし仮に、母である自分を優先する「べき」に、過剰に縛られて、それ以外を全て犠牲にしたとすると、子どもはちょっと息苦しいんじゃないかと思う。

恋愛でも同じようなことがある。相手にのめり込みすぎてしまって、他のあらゆる時間や交友関係を犠牲にしても、相手のために尽くす。一般に、恋人への一途な思いは美しいものとされているから、自分ではてっきり良いことをしていると思い込んでしまう。だけど、それって実際には、誰かの恋人である私に甘えて、自分自身が「個人」であることを怠けている場合が少なくない。親子関係でも、こういうことって起こりがちだ。

軸となる私の周りに存在するいろいろな私

私は誰々の恋人です、私は誰々の母です、そんな風に肩書きのない単体の自分でいるって、実はかなり宙ぶらりんで、心もとないことだ。好きな食べ物、好きな音楽、趣味、性格、肩書き抜きで自分の輪郭を言い表すのは、結構難しい。だから、私たちはつい無自覚に、既に明確な役割が与えられている関係に逃げ込んでしまう。それによって自分は楽になるけれど、一方で「私」を定義する役割を一身に背負わされた相手の方は、かなり重い。

子どもはいつか大人になるし、大人になったら、勝手に自分の人生を生きる(そうしてもらわなければ困る)。だから、そのときには子どもと同じように、親もまた、勝手に自分の人生を生きなきゃならない。親として、子どもを最優先に考える、という正しさに甘えて、個人であることを怠っていると、いずれかの段階で、ちょっと困ったことになってしまうような気がする。

「優先順位を付ける」というと、つい無条件にピラミッド構造を思い浮かべてしまうし、頂点に「母」である私を据えると、あたかもそれだけが決定権を持つべきかのように錯覚してしまう。でも、本当はもっとフラットでいいのだろうと思う。真ん中に一個、大きな、軸となる私の円があって、その周りに、他の役割を持ったたくさんの私が点在している。それぞれの円が、真ん中の私とつながっている。「人」でも「女」でも、あらゆる私が決断を下して良いけれど、それは同時に、中心にいる「母」である私にも繋がっている。私の中のたくさんの私をそんな風に位置付けることで、自分にも、家族にも、風通しの良い状態が作れるんじゃないかなと思う。

紫原 明子

エッセイスト。1982年福岡県生。二児を育てるシングルマザー。個人ブログ『手の中で膨らむ』が話題となり執筆活動を本格化。『家族無計画』『りこんのこども』(cakes)、『世界は一人の女を受け止められる』(SOLO)など連載多...

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