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「小さな幸せ探しの連続が人生を作る」迷いと葛藤の中で中島静佳が見つけた自分の生き方

DRESSの『運命をつくる私の選択』は、これまでの人生を振り返り、自分自身がなにを選び、なにを選ばなかったのか、そうして積み重ねてきた選択の先に生まれた“自分だけの生き方”を取り上げていくインタビュー連載です。第一回のゲストは、フリーアナウンサーの中島静佳さんです。

「小さな幸せ探しの連続が人生を作る」迷いと葛藤の中で中島静佳が見つけた自分の生き方

札幌テレビ放送でアナウンサーとしてのキャリアをスタート、その後フリーへ転身するとともに調理師専門学校へ通い、食にまつわる多くの資格も取得されている中島静佳(なかじま・しずか)さん。
活躍の場を広げながらエネルギッシュな挑戦を続ける中島さんの決意に秘められた迷いや葛藤、日々の喜び、そして今一番大切にしたいこと。あらゆる想いを振り返りながら、これまでの人生の選択についてお話していただきました。

ヘアメイク:KOTO(UM)
取材・文 :丘田ミイ子
写真   :高橋佑樹
編集   :小林航平

■大自然での幼少期、自由な高校生活を経て

――中島さんは高校卒業までを故郷である滋賀県で過ごされました。子どもの頃はどんな日々を過ごされていたのでしょうか?

私の故郷はすごく自然が豊かな場所で、通っていた小学校には小川が流れていて、裏には山もありました。昼休みに山で木の実を取ったりしていたらどこまで登ったかわからなくなって、掃除の時間にやっと降りてこられた、なんてこともありましたね(笑)。親になってからは子どもに「本も読みなさい」なんて言っているんですけど、そんな自分はほとんど家にいないような子どもでした。

――活発な子ども時代をお過ごしになられたんですね。高校、大学、そして社会へと進むにあたってはどんな未来をイメージしていましたか?

一つひとつを思い返すと、「絶対この学校に行きたい」とか「こんなことがしたい」とか明確なビジョンはあまり持っていなかったような気がします。むしろ、通っていた高校がすごく自由だったので遊びすぎて全然勉強をしていなくて……。当時の滋賀県には学区外と学区内という制度があって、私の住んでいた学区外地域からの受験には合格点の基準が学区内から受けるよりも少し高く設けられていたんです。そんな経緯もあり入学時は成績も良い方だったんです。だけどそこからはどんどん落ちていって、ついには「何か悩みでもあるの?」なんて先生に呼び出される始末。存分に学生生活を楽しんでいました(笑)。文化祭にすごく力を入れていた学校で、高三の秋なんて大学受験が目の前のはずなんですけど毎日文化祭のために生きているような感じでした。

――高校卒業後は一度関西の大学に入ってから、さらに別の大学へ受験をされたんですよね。そこにはどんな思いがあったんでしょうか?

最初の大学生活も楽しかったんですけど、受験の時に体調を崩したり、「もっとできたんじゃないか」っていう思いもあったんです。だからといって明確に行きたい大学があったわけではなかった。ただ、自分の中に心残りがあったので「とりあえずセンター試験だけもう一回受けてみよう」って思ったんです。強いて言うなら、関西だったら自宅から通えちゃうから思い切って関東にしたというくらいでしょうか。

■自分は何がしたいんだろう。人生で最も迷った就活時代

――「アナウンサーになりたい」と思って上京を決めたわけではなかったんですね。

当時は全く考えてなかったですね。就職活動でもやりたいことが分からなくて、金融や旅行業界、メーカーなどさまざまなジャンルを視野に入れました。逆に言うと、アナウンサー受験をする人は早くからその道を目指しいろいろ準備をして、他の業種は受けないなんて人も多くて……。「夢ってそんな早く見つけられるものなんだろうか」と驚きでした。私は何がやりたいかはわからないけど、とにかく楽しそうな方へ……という感じだったんですよね。でも、そういう「楽しむ気持ち」が人生の選択の折に自然とキーになっていたようにも思います。

――アナウンサーという道を意識し始めたことにはどんなきっかけがあったんでしょうか?

田舎から出てきた私にとっては、アナウンサーとして働くってどこか遠い世界の話というか、到底なれるものだと思ってなかったんです。でも、日本テレビでアルバイトをしていたこともあって、アナウンサーを目指す子が周りに多いという環境ではありました。大学二年の時に「このテレビ局は二年生から受けられる試験があるから書類を取りに行こうよ」ってバイト仲間の子に誘われて、軽い気持ちで「挑戦してみようかな」と受けてみたんです。そこで最終の講習会まで残ってはじめて「もしかしたら頑張ればなれるものなのかもしれない」と現実的に思って……。それでも「絶対アナウンサーに!」と思っていたわけではなく、一般企業も受けて何社か内定もいただいて。

そのタイミングで講習会で一緒だった子に「札幌にすごくいい局があって明日締め切りだし出そうよ」って言われたんです。そこで書類をFAⅩで送って貰って締切に間に合うように急いで出したことをよく覚えています。

――それが、その後活躍をされるSTV(札幌テレビ放送)との出会いへ繋がっていくのですね。

東京での試験を経て、札幌での最終面接が決まった時もまだ実感はなく、とっさに「卒業前に北海道に旅行できる!」と思ったくらい、何も考えられてなかったんです(笑)。でも、父親が少しの間北海道に単身赴任していたこともあって家族みんな北海道という街が大好きだったんですよね。母曰く、私も初めて北海道に行った時に「ここに住みたい」と言っていたらしく……。不思議なご縁ですよね。それでも受かった時は迷いました。一般企業とテレビ局のどちらも知らない世界だから「絶対こっちがいいはず!」とは思い込めなくて。私双子座なんですけど、まさに自分の中に違う考えのふたりがいるような、そんな感じでした。後にも先にも人生の選択においてあそこまで悩んで迷ったのは、その時だけだったと思うほどです。

――内定も決まっていた中で「この道でやっていこう!」という選択の決め手になったのはどんなことだったのでしょうか?

内定をいただいていた企業の方は私がアナウンサーと迷っていることもご存知で、女性の社員さんと人事の方と面会するような機会があったんです。その時、人事の方が席を立った瞬間にその女性が「私だったら、アナウンサーになるわよ」って言ってくれたんです。とてもびっくりしました。同じタイミングで信頼していたバイト先の先輩にも「どっちがワクワクするかで選んでいいんじゃない?」って言われて。その言葉もすごく覚えていますし、自分自身の「より楽しめそうな選択をする」という指針にも繋がっている気がしますね。その後、「今しかできないことはどっちだろう?」って自分の中でも考えて、札幌に行くことを決めました。

■札幌という新天地でアナウンサー人生をスタート。迷いと葛藤と喜び、そして大きなターニングポイントへ

――振り返ってみて、アナウンサー人生の幕開けはどんな感じでしたか?

「向いてないなあ」って毎日思っていましたね。関西弁が染み付いていたので、標準語を美しく話すというところから苦労しました。「母音の無声化」という声を使う仕事において欠かせない発声方法があるのですが、就職試験中にも指摘を受けていたりして。かといってフリートークが得意というわけでもなかったので生放送で追い詰められて、求められていることとは真逆のこと言ってしまってお叱りを受けたり……。何年か経って北海道の街行く人に「あなた本当に上手になったわよね、最初はどうなるかと思って心配してたのよ」って言われたことがあるくらい、当時はひどかったと思います(笑)。

――温かいエピソードですね。街の方の言葉の裏に地元の人々に愛された中島さんのマンパワーを感じます。「向いていない」と感じたことには、周囲と比べて落ち込むような出来事もあったりしたのでしょうか?

私以外のアナウンサーの同期3人はとても個性があり、フリートークも天才的に上手でした。でも、あまりにタイプが違いすぎたから比べることはなかったですね。うまく言えないのですが、比べても仕方ないと思っていました。それよりも、今やるべきこと、全うすべきこと、そして楽しむことがまず目の前にあったから。入社2年目で『アタヤンプッシュ』というフリートークがベースのラジオ番組を担当することになったんです。人に語れるようなネタもないし、最初はすごくプレッシャーでした。でも、その中に『小さな幸せ探し』っていうコーナーがあって。「信号に引っかからずに駅につけた」とか「眉毛が上手に描けた」とか、リスナーさんが生活の中にあるささやかな喜びを送ってくれるんです。そのコーナーがすごく印象深くて、その後の人生でも“小さな幸せの積み重ね”というものを感じながら生きるようになった気がしますね。

――お仕事の経験の中にも生き方を形成するような出来事があったのですね。

ラジオに次いで入社3年目の時に北海道で知らない人がいない『どさんこワイド』という番組のキャスターをやらせていただくことになったんです。10年間お馴染みの顔触れでお送りしていた番組で、女性キャスターが私に変わるという形でのスタートでした。前任の方は完璧な先輩で、恐れ多くて比べるなんてとんでもない! という感じでしたね。与えられた環境でどれだけ自分と向き合って頑張れるか。そんな日々でした。

――人気番組のメインキャスターという経験はご自身にとってどんなものでしたか?

どんな仕事を選んでもそうだと思うんですけど、局アナの時もフリーになってからも自分がやりたいことをドンピシャでできるなんてことはほとんどなくて。アナウンサーという大きな枠組みは叶っても、「この番組をこの立ち位置でやりたい」とか「こんなことを発信したい」とかまではなかなか叶えられない。それは社会に出て感じた、ある意味での厳しさであり、挫折のようなものだったのかもしれません。でも、だからこそ、与えられた環境で精一杯やる。そんな踏ん張りもここで学んだ気がしますし、今も常に大切にしています。

■フリーへの転身とともに新たな世界への一歩を――仲間の存在に支えられた日々

――多くの思い出を刻んだ北海道の地を去り、フリーになる決意を固めるにあたってはどんな展望をお持ちだったのでしょうか?

「仕事に行きたくない」なんてことは一度もなかったし、札幌での毎日もSTVで過ごした時間もすごく楽しかったんです。フリーになったのも別にビジョンがあったわけではなく。でも、まだ新たに挑戦していけることや自分自身が発展していけるようなことがあるかもしれない、あったらいいな、って。そういう気持ちが漠然とあって……。

――フリーになると同時に調理師専門学校へも入学されましたが、これまでとはジャンルの違う道での新しい挑戦に至るにはどんなきっかけがあったのでしょうか?

『どさんこワイド』の番組内に、プロの料理人の方が食材を持ってスタジオで料理をしてくださるという企画があったんです。今でも当時の台本やレシピを大事にとっているくらい大好きなコーナーでした。そこでお裾分けしていただいた食材を使って、復習がてら家で作ることが増え、料理の面白さを感じ始めました。食べることも好きだったので、行きつけのお店もいくつかありました。そのお店で食事をすると1日の疲れが癒され、明日に向かう元気をもらえるような。そんな出来事の中で、「私もこういう人の心を動かす料理を作ってみたい」と思い始めたんですよね。でも、「STVのアナウンサーをやめる」なんて絶対言えないと思っていました。でも、やっぱり今しかないって思って言っちゃったんです。あの時のドキドキは今でも覚えています。

――フリーでのお仕事の傍ら学校に通うのは大変ではなかったですか?

夜間クラスだったので、自分と同じように働きながら通っている人がとても多かったんですよ。公務員や会社員の方が就業後にスーツで通われている姿もよく目にしました。「一念発起してお店をやりたい」。そんな気持ちで新たなステージに向かって頑張っている方が多く、共感もあり励みにもなりましたね。そういうことを分かち合える仲間との出会いはとても大きかったです。

――大人になればなるほどそういった出会いはとても貴重に感じます。

そうなんですよね。まさかまた自分が学校に通うことになるとは思ってなかったんですけど(笑)。でも、このコロナ禍でも仲間の存在にはすごく支えられましたね。6人メンバーで毎年誕生日会をやってきたんですけど、「会えないなら、リモートでやろう!」と続けているんです。みんな食が好きで、常に面白いことやワクワクするようなことを探してる。同じ感覚で盛り上がれる仲間ができたことは財産だと思いますね。それは北海道でのアナウンサー時代にも通じる話かもしれません。STVを辞めた時に引き止めていただいたこともありがたかったですし、でも最終的には門出を応援してくれるような。「会社にとっては残念なことだけど個人的に応援するよ」ってエールを送ってくださる方々に恵まれました。北海道で出会った人との繋がりは今も大切に思っています。

――その後は食にまつわる多くの資格や免許も取得されました。その数の多さにはとても驚いたのですが、常にチャレンジをし続けるエネルギーはどういったところから溢れてくるのでしょうか?

そう言っていただけるととてもありがたいのですが、言ってしまえばひとつのものを極めることができない性格なのだとも思います。食に関してもまだ極めきってないですし……。でも、それが楽しいんだとも思うんですよね。「私、まだまだ知らないことばかりなんだ!」って。今を楽しく生きたい、好きなことを好きなままでいたい。そういう気持ちはずっと潜在的にあったのかもしれません。

■ささやかな幸せの連続が、人生を作っている

――多くの選択や挑戦を経て、今の日々で中島さんが大切にされていることはどんなことでしょうか?

今の私にとって一番大切なのは、家庭を充実させることなのかなって思っています。仕事ももちろんしたいけれど、大切なものを守りながらできる限りのことをできたらという気持ち。「自分にとって何が大切なのか」ということを選択の折に問い続けてきましたが、それは日々の小さな幸せの連続にヒントがあったりするんじゃないかなって。そこを見逃さず感じられる感性を持っていたいなって思います。「夢を持ちなさい」ってよく言われる言葉かもしれないんですけど、私は分からないまま進んでもいいんじゃないかなって思うんです。楽しい方へ。心が動く、華やぐ方向へ。そういう“なんとなく”な選択もありなんじゃないかなって思っています。

――『小さな幸せ探し』は、中島さんの中でずっと続いているテーマなのですね。

そうですね!(笑)。私、毎朝お弁当を作っているんですけど、全然好きじゃなかったんですよ。「料理好きだから好きでしょ?」って言われるけど、入れられる品数や種類に限りもあるし作っていて楽しいとかも思えなくて……。でも、ずっと気になっていた曲げわっぱのお弁当箱に変えたら途端に楽しくなったんです。夫も息子も「ご飯が本当に美味しくなった」って言ってくれて。それが最近の小さな幸せです。「お昼ご飯を美味しく食べられた」って日常のごく一部のことかもしれないんですけど、すごく気持ちがいいんですよね。しんどかった朝の時間がむしろ楽しみになって、それで家族もお昼がちょっと楽しみになって。小さな幸せが連鎖してかけがえのないものになっていくような。それってすごくいいことだなって。そんなふうに思っています。

中島静佳プロフィール

1974年06月17日生まれ。札幌テレビ放送で6年間のアナウンサー経験を経てセント・フォース所属のフリーアナウンサーに。 日テレNEWS24の看板番組「デイリープラネット」のメインキャスターを6年間担当し、スカパーアワードを受賞。その後出産を経て東京MXの情報番組、BS11の報道番組などを経て、現在はBS朝日「ザ・トップビジョン」やナレーションを中心に活躍中。 趣味は料理、旅行、水泳、スキーなど。 ジュニアベジタブル&フルーツマイスター、ハーブコーディネーター、北海道フードマイスター、教育職員免許(小学校、中学校、高等学校1種)、日本ソムリエ協会認定 ワインエキスパート、調理師免許など幅広い資格を持つ。

DRESS編集部

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