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「元気」はもうあきらめた

今あなたは元気じゃないんだから、元気にならないとね。だって元気なことはいいことなんだから。元気があればなんでもできる! ってね――。あれ、でも“元気な状態“ってなんだろう? 健康診断で引っ掛からないこと? 大きな怪我や病気をしていないこと? 生湯葉シホが考える、元気とか健康のことについて。

「元気」はもうあきらめた

去年の末、還暦を過ぎた父ががんの手術を受けた。食道をぜんぶ切除した上で胃の一部を引っ張ってきて食道の代わりにする、という人体切断マジックのような大手術だったから、いま父の体には食道と胃の半分がない。

退院後、見舞いにきてくれた父の知人は、15キロほど痩せた父の姿を見て一瞬明らかにぎょっとした顔をし、しばらく言葉を探したあとで「早く元気になってくださいね」と言った。父はかすれた声でなにか返そうとしたのだけど、「無理にしゃべらないで大丈夫ですから」というその人の声が重なり、黙ってしまった。

無理にもなにも、手術で傷がついた声帯ではその音量がフルボリュームなんですよ、というのを私から言おうか迷ったが、そんなことを言ったら余計に「それはおつらいですね」みたいな顔をされてしまう気がした。父は黙り、私はその横で所在なくテレビの囲碁番組を見ていた。

■なんでそっちが泣くんだよ

退院したばかりのころ、父に「食道ないのってどんな感じ?」と聞いたとき、「食道がないのは自分ではよくわかんないんだけど、頭ないなって感じはする」と言われたのが妙に印象に残っている。あーわかる、と答えて「なんでわかるのよ」と母に笑われたのだけど、私も数年前、胸の手術を受けたときに同じようなことを感じたのだ。

左胸に5センチほどの腫瘍があり、放っておくと悪性化する可能性があるので胸を切って腫瘍を取り除きます──と医師に告げられたとおりの説明をすると、当時付き合っていた恋人は、ファミレスの向かいの席で急に泣き出した。「胸を切るんだ?」と言われ、乳房ごと摘出するわけではないけれど傷とかはできると思う、と伝えると、「つらいな」と手を握られた。

手術を終えた半年後、私の胸にはまた別のしこりができた。もともと医師には、何度か再発する可能性が高いこと、繰り返すうちに悪性化するケースが多いということを聞いていた。検診に行き、しばらく様子を見ましょうねという結論が出た帰り道にそれをLINEで恋人に伝えると、電話がかかってきた。彼は思いつめたような声で「またか……」と言い、「どうしてシホばっかりそんな目に遭うんだ、お願いだから早く健康になってくれよ」と泣いた。
なんでそっちが泣くんだよ、というのが、そのときの率直な気持ちだった。

父にとってはわからないが、私があの言葉に感じた内臓が浮くような居心地の悪さは、「頭ないなって感じ」にとても近かったんじゃないか、と思う。目の前の相手にとつぜん“健康”という見えない白線を引かれ、あなたはその外側にいますよ、轢かれる前に早くホームに戻ってください、と注意を受けたようなばつの悪い気分だった。

■外に出たくないのだ、元気がないのだから

話は変わるけれど、私は毎年、梅雨がくると決まって人の視線が怖くなる。
10代のうちはそれを治さなくてはと思い悩んでいたのだけど、最近はもう、“そういうもの”と開き直るようになった。人と対面する仕事は梅雨に極力入れないようにするし、飲み会の誘いもほぼすべて「ちょっと忙しくて……」で断る。まったく忙しくなんかないのだが、1日12時間くらい眠らないと眠気が消えないので、基本的にずっと寝ている。

そんな話をすると、決まって「えっ、早く病院行ったほうがいいよ」と言ってくれる人がいる。ありがたいなと思いつつ「いや、“そういうもの”なんだよ」と言うと、絶対に怪訝な顔をされる。もちろん、それで仕事や友人関係にあまりにも支障が出るようになったら病院に行くつもりだけれど、いまの私は特にそれで困っていないから(仕事をセーブしているので収入はかなり減るけれど、“そういうもの”なので)、まあいいや、となる。申し訳ないけれど、間違っても「外出たほうがいいよ」などと言わないでほしい、と思う。出たくないのだ、元気がないのだから。

めちゃくちゃなことを言っていると思われたかもしれないが、私にとって “元気がない”のはそのくらい自然なことだし、もっと乱暴なことを言うと、“元気がない”くらいが自分にとってのちょうどいい健康なのだ、と思っているふしがある。もちろん、元気はないよりあったほうがいいよ、と言う人のことは否定したくないのだけれど、私の場合は、人に「元気になってね」と言われると、なんとなくソワソワする。ありがとう、でも、元気じゃなくても社会に存在させてくださいよ、私はこれでも健康なんですよ、と思ってしまう。

■“病気”は絶対的な悪、なのか?

すこし前、自分が漠然と抱えていたそんな気持ちに寄り添ってくれるような本に出会った。『やさしくなりたい』という、“ままならない身体”をテーマにした個人発行のZINEだ。

先天的な病気や心身の不調など、身体になんらかの不安を抱え込んでいる人たちの寄稿やインタビューを集めた1冊で、発行者の野地洋介さん自身も心臓発作で緊急入院するという経験をしている。この本に、医師・稲葉俊郎さんへのインタビューが収録されているのだけれど、インタビューの中にとても印象的な一節があった。



“健康とは、100人いれば100通り異なる状態。絶対的な定義は不可能だとぼくは思っています。しかし医者も患者さんも、病気のないまっさらな状態を「健康」としてゴールに置き、物語を組み立てている。その裏には、病気とは絶対的な悪であり、もし見つかれば速やかに取り除かなければならないという前提があります。(中略)
例えば、先天性下肢欠損症という生まれつき足のない疾患を例にします。この図式に当てはめると、子どもは一生悪いものとして自分のからだを背負って生きていくことになりますが、そんな認識のなかで生きていくことはかなり辛いものです。人生の価値や意味を外部の人が決めていいのでしょうか。”
――『やさしくなりたい』編:野地洋介 より引用

稲葉さんは、“その子にはその子だけの健康の形がある”と言う。
このインタビューを読んで最初に頭をよぎったのは、10代のときに引きこもりになり、いまでもうつと付き合いながら仕事をしている同世代の友人のことだった。彼女は幸い、相性のいい医師に出会ってカウンセリングや服薬を続けているのだけれど、彼女のお母さんは通院を始める前の子どもの姿を見ているからなのか、“元気だったとき”を治療のゴールに捉えているふしがあるそうだ。

「元気だった10代前半のときなんて自我もなにもなかったんだよ、カウンセリング受けるようになってからが私なんだけどなあ」と友人は言う。その気持ちはとてもよくわかるし、私にとっても、いまだにしこりのある胸や梅雨に元気がなくなる心、その他のいろいろなままならなさを抱えた身体こそが私なのだ、といまは思う。

■自分だけのビート、と思いたい

最後にもうひとつ、大好きな本の話をする。
絲山秋子さんの『ダーティ・ワーク』という小説の中に、『worried about you』という短編がある。ギタリストをしている熊井という女性が主人公で、彼女はある日、嫌々受けた健康診断で心疾患の疑いがあると告げられる。死につながるような病気だったら、と不安を抱えながら再検査を受けた彼女は、医師に「これは異常っていうほどの異常じゃないですねえ」と言われ、心電図を見せられる。そして、



“「これはね」
医師は嬉しそうに言った。
「異常じゃなくて、あなたの心臓に固有なリズムのようなものですよ」
「固有なリズム……」
「くだいて言うと、癖みたいなもの。あなたの心臓の癖なんです」”
――『ダーティ・ワーク』絲山秋子,集英社 より引用

そう告げられ、熊井はつい笑ってしまうのだ。物語は、“それは、悪い結果ではなかった。彼女は誰も知らない自分だけのビートを手に入れた。”というフレーズで終わる。
原稿を書くために久しぶりにこの小説を読み返して、“自分だけのビート”という言葉に思わず私までうれしくなり、笑ってしまった。自分の身体のままならなさをこんなふうに捉えられたら、どれほどいいだろう、と思った。ちょっと格好よすぎて私にはまだ真似できないけれど。

父にきのう「まだ頭ないなって感じる?」と聞くと、「もうこれはたぶんずっとないな」と返信がきた。父は最近、食道がないなりに上手に酒を飲むコツがわかってきたらしい。いいのかよ、とも思うけれど、それは私や家族が決めることではたぶんない。父なりに、彼の身体との付き合い方を、彼なりの“健康”を、探っていってくれたらいい。

『偏屈女のやっかいな日々』の連載一覧はこちらから

生湯葉 シホ

1992年生まれ、ライター。室内が好き。共著に『でも、ふりかえれば甘ったるく』(PAPER PAPER)。

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