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引越しで気づいた手放すことの大切さ

「気に入っているから」という理由で何かに執着していると、自分の人生はそれの延長上にあると考えてしまいがち。でも、実際そんなことはない。一度手放して、新たな一歩を踏み出すと、未来を拓いていける。小島慶子さんが大好きだったマンションから引越して感じたことはーー。

引越しで気づいた手放すことの大切さ

 私が東京で仕事をするときに住んでいる部屋は、古いマンションのひと隅にある。そこが気に入ったのは、住民がとても積極的に維持管理に努めていて、手入れの行き届いた古さが、むしろ落ち着いた品格を感じさせたから。人の手のかかったものって、温かみがあっていい。植栽も鬱蒼と茂って、夏は降るような蝉時雨、地元産のクワガタも。秋には虫の音が聞こえて、都会の真ん中なのに里山のよう。築30年ほども経つのに、薄汚れた感じはまるでない。本当に住み心地のいい部屋だった。

 だった、と書いたのは、引っ越したから。夏前から、建物の周りに足場が組まれ、大規模修繕工事が始まったのだ。窓のすぐ外に足場があって、作業員さんが歩き回っている。人の気配に振り向くと、ベランダに作業員さんが2人も立っていたこともあった。朝はきっちり9時から耳をつんざくドリルの音。これが本当に、本当に辛い。昼間仕事で外に出る日はいいけど、執筆デーは仕方がないので代官山の蔦屋などに避難する。結局、そのまま12時間いたこともある。夜になって部屋に戻り、ようやく窓を開けると、足場を包む幕に遮られて、夜風はさほど入らない。黒い幕で外から遮蔽された足場に、もし泥棒が潜んでいたら、部屋に入るのはいとも簡単。となると、大きい窓は開けられない。

 朝起きて、せめてもの空気の入れ替えをと換気扇を回したら、作業員さんの休憩所のタバコの煙が上がってきてしまったり、強い揮発性の塗料の臭いが部屋に流れ込んだり。黒い幕で囲われているので日差しも入らないし、人がしょっちゅう通るのでカーテンを閉め切りにしなくてはならない。するともう、今が朝なのか夜なのかも、雨か晴れかもわからない。マンションの玄関を出て初めて土砂降りだと気づいたこともあった。

 これが、かなりやられるのだ。メンタル的にしんどい。光を浴びず、窓の外の人の気配を絶えず気にして、風も通さないでいると悶々としてしまう。仕方なく外に出ようとエレベーターを降りると、共用部にも作業員さんがたくさん出入りし、工事用の車両が止まり、資材が置かれ、あの古い心地いい風情はどこへやら……まさに工事現場そのものだ。このところよく引越しの車を見るなと思ったけれど、私と同じことを感じた人がいるのだろう。これはもう、移るしかないと。

 思い立ってから引越しまで、わずか半月のことだった。様々な条件が合う建物は一つしかなく、その中で数部屋見た結果、一つに決定。仕事の合間に役所にダッシュしたりして必要書類を揃え、審査結果が出たらすぐに引越しの日取りを決め、電気水道ガスの手続きや家具の処分や購入、配達の日程調整まで決めて、なんとか引越しを敢行。我ながらよく頭と体がついていけたものだと思う。

 あの大好きな古い部屋には、結局2年半ぐらいしか住まなかった。住み始めてすぐに、そろそろ大規模修繕工事をという話を聞いていたのだが、そんなのちょっとの間我慢すればいいのだと甘く見ていたのだ。

 これから部屋を借りる人、特に古目の落ち着いた物件が好きな人は、そのリスクがあることをわかっておこう。近いうちに大規模修繕工事の話が出ていないか、事前に確認した上で住み始めないと、こんな悲しい別れにもなりかねない。気に入っていた部屋だけに、移るのは残念だった。

 ところが現金なもので、新しい部屋に住み始めてちょっとしたら、もう元の部屋には住めないな、などと思ってしまう自分もいる。新居は窓の外に知らない人が立っていることもないし、朝日も夜風も入ってくる。たとえ虫の音の代わりに車の走る音が聞こえても、窓のすぐ外に大きな木が生えていなくても、案外私、生きていけるんだ。

 お気に入りのものに執着していると、人生はすべてその延長上にあると思ってしまう。けれど、思わぬ邪魔が入り、大事なものを手放して新しい一歩を踏み出してみると、それまでの愛すべき風景が急に色褪せて過去のものになってしまうのだ。薄情なような、たくましいような。恋にもそんな薄情さがつきものだよな、なんて、久々に幾つかの遠い別れを思い出したのだった。

小島 慶子

タレント、エッセイスト。1972年生まれ。家族と暮らすオーストラリアと仕事のある日本を往復する生活。小説『わたしの神様』が文庫化。3人の働く女たち。人気者も、デキる女も、幸せママも、女であることすら、目指せば全部しんどくなる...

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