私も、あなたも、わがままでいい。伊藤野枝が求めた自由
作家、編集者、女性解放運動家として、明治〜大正の世を生きた伊藤野枝。28年という短い生涯を駆け抜けた野枝の発言や行動は多くの女性を勇気づけた。「女の人生を勝手に決めるな。誰かに人生を裁かれてたまるか。私は私のために生きるのだ」。自らの言動からそんなメッセージを発信し続けた人の冷静と情熱。
「100年前の話とは思えない……。大丈夫なのだろうか……」という不安と「かっこいい!」という熱狂が交互に押し寄せる。伊藤野枝を知れば知るほど、何度でも。人を不安と熱狂に惑わせる人は、すなわち魅力的だと思う。
伊藤野枝は1895(明治28)年から1923(大正13)年まで生きた、作家であり編集者、女性解放運動家である。まだ戦前の当時は、男女平等を謳った日本国憲法もなく、女性には参政権も与えられず、子を産み、家を守るという役割があるのみだった。
東京の女学校に通っていた野枝は、卒業後に九州の地元で結婚が決まっていた。親に言われるままに農家の嫁になるのはイヤだったが、聞き入れてもらえない。結局、入籍後すぐに家を飛び出してしまう。再び東京に出てきて頼ったのは、女学校時代に恋をした英語教師(辻潤)だった。
今でも不倫は悪いものとして憎まれることが多いが、当時の既婚女性の不倫は相手の男性もろとも姦通罪という罪に問われるものだった。辻は、野枝との姦通の責任で学校をクビになってしまう(彼女の親戚が夫の家族に頭を下げてくれたため後に離婚が成立し、実際に姦通罪で訴えられることはなかった)。
野枝はそんなことで悪びれるような女ではない。辻とセックスをしまくって過ごし、お金がなくなると、当時女性の文芸誌『青鞜(せいとう)』を立ち上げたばかりの平塚らいてうに手紙を出して支援をお願いした。その縁から『青鞜』編集部で働き始める。チャンスを掴む人は、得てして厚かましい人だったりする。
20歳にして『青鞜』の編集権を引き継ぐと、「今までの青鞜社のすべての規則を取り去ります」という大胆な編集方針を掲げる。それまで本音を語ることをタブー視されてきた貞操問題、堕胎問題、廃娼(政府公認の遊郭を廃止するかどうか)問題などについて議論を巻き起こす。いわゆるエリートと呼ばれるような女性だけでなく、一般女性にも誌面を解放し、女性の問題をみんなのものとしていった。
辻と結婚してふたりの子を産んだ野枝は、そのころ辻の浮気騒動もあり、また別の男にも惹かれていた。当時アナキズム(無政府主義)を唱え、政府から目をつけられていた男、大杉栄である。
■女の人生を決めるな
一度恋をしてしまえば、抑えられない。やがて辻に別れを告げ、大杉の家に転がり込む。彼は、結婚やカップルの枠組みを設けずに自由に人を好きになり、セックスをして、それを尊重し合う「自由恋愛」を提唱していて、既にふたりの恋人がいた。野枝に対しても「同居せずにそれぞれが自立しましょう」という約束事を伝えていが、彼女があっさりそれを無視して同居を始めたため、別の愛人が嫉妬のあまり大杉の喉元を刺す事件に発展してしまった(幸い、これで死ぬことはなかった)。
大杉と暮らすようになってからは、彼の影響もあり、女性の労働問題についてたくさんの発言をしていった。労働組合の指導者がどう言うとか、組織がどうこうとかは関係ない。家庭でも職場でも抑圧されている女性たち自身が立ち上がり、声をあげていこう。行動していこう。誰もあなたの生きる権利を奪うことはできない。そうした呼びかけは多くの女性を勇気づけた。
ここまで簡単に伊藤野枝の人生の一部を振り返ってみたが、あまりにも自由で驚いてしまう。人を好きになれば好きと伝え、セックスしたければセックスして、お金がなければ金や食べ物を乞い、思ったことは書いて発表する。筆者もかなり自由に生きている方ではあるが、人生が何回あっても、彼女が28年の生涯で経験したのと同等の経験などできそうにない。
女の人生を勝手に決めるな。誰かに人生を裁かれてたまるか。私は私のために生きるのだ。
彼女の言い分を筆者なりにまとめると、こうなる。誰もが伊藤野枝になれないし、なる必要もない。でも、自分の欲求が何者かに脅かされそうになったとき、あるいは人生の選択が何者かにねじ曲げられそうになったとき、彼女の生き方から、周りを振り切る勇気を少しでももらえるかもしれない。
ここから、私の好きな伊藤野枝の考え方をいくつか紹介していく。