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運命を受け入れながらも自分道を歩む。高峰秀子の真っ直ぐな自律心

好きも嫌いと仕事と割り切って、やる以上はプロに徹しようーー強い意志を持って、子役から戦前戦後を代表する大女優のひとりとなった高峰秀子さん。自律心・セルフコントロール力を大事にし続けた人の冷静と情熱。

運命を受け入れながらも自分道を歩む。高峰秀子の真っ直ぐな自律心

高峰秀子はトーキー時代の子役デビューから、白黒映画時代のアイドル女優もいわゆる壮年期の“お母さん・奥さん役”まで、戦前戦後に渡って長く活躍した、言わずと知れた大女優である。

谷崎潤一郎や藤田嗣治など芸術・美術分野のレジェンドたちとの親交も多く、絵画や骨董品などへの造詣も深い。また、名随筆家として知られており、晩年まで著作も多く残していて、70代になってもピリリっとウィットとアイロニーと本質が光る名文をたくさん書いていた。夫は邦画界で数多くの人間の心の本質を鋭く繊細に描いた名映画監督・脚本家の松山善三だ。

■日本映画界のレジェンド、女優・高峰秀子

ここまでの経歴を紹介すると「私たちとは全く別世界の大スター、さぞかし立派で豪奢なお屋敷に住み、お手伝いさんを大勢抱えて左うちわで暮らしていたんでしょ?」と思われる方もいるかもしれない。

ところが、高峰秀子のキャリアの、奥底に潜む人生を紐解くと、現代社会を生きる私たちにも学びになる、凛々しく聡明な生き方をしてきた素敵な女性であることがわかる。高峰さんの生き方には、一貫したひとつの哲学・流儀が通っている。養女・松山明美は自身の著書で高峰さんの流儀を “こだわらない意志”と表現している。

この寄稿を通して、高峰さんの出演映画や著作を手に取ってくださる方が増えることはもちろん、彼女が生き抜いた姿に関心を持っていただければうれしい。

■養母の夢を叶えて子役になった運命

高峰さんは1924年(大正13年)に北海道は函館に生まれた。生家はカフェや料亭を営む商家だった。

実父の妹である、高峰さんの叔母に当たる女性・平山志げさんは、“高峰秀子”の名で活弁士として芸能活動をしていた女性だったが、子どもに恵まれなかった。志げさんは、兄夫婦に「四人目の子供が宿ったときに「生まれた子供を養子にしたい」と兄にせがんだ

『わたしの渡世日記』高峰秀子著,文春文庫,1976年

その子どもこそが、高峰さんだった(生まれたときの名は、平山秀子さん)。赤ちゃんが兄夫婦のもとに生まれたとき、志げさんはその芸名の「秀子」を与え、誕生を喜び、折に触れて赤ちゃんの秀子さんを連れ帰る交渉をするために函館に向かった。

志げにしてみれば、名前まで付けた「自分の子供」であり、「生まれる前からの約束」だから連れ帰るのが当然であると主張

『わたしの渡世日記』高峰秀子著,文春文庫,1976年

していたそうだ。

時が経って、志げさんにまたとないチャンスが訪れる。高峰さんの実母が病気で亡くなったのだった。そんなわけで数年の算段が叶い、志げさんは4歳半の幼い高峰さんを東京に連れ帰った。

高峰さんの子役デビューのきっかけは、なんとも運命としか言いようのない流れで始まる。

高峰さんが5歳の頃、養父母と暮らす東京は大森で、とある春の日、松竹蒲田撮影所にトーキー映画の子役オーディションの列があった。養父は列の最後に並び、高峰さんも着いていく。

これが高峰さんの女優人生スタートとなる運命の日で、60人もの子どもたちの中から選ばれ、トーキー映画『母』で子役デビューする。

わずか5歳の平山秀子ちゃんは、養母のかつての芸名、高峰の名字を背負って、自伝内で、自身の子役時代を「猿回しの猿」と表現するように、好むと好まざるとにかかわらず、「子役」という職業婦人(?)になってしまったのである。

■自らの意思と関係なく「猿回しの猿」となった幼少時代

高峰さんの子ども時代は、売れっ子になるほどに親戚縁者であると主張する、顔も知らない誰かが周囲に増えていった。

もはや家計だけでなく、親戚縁者の生活を支えるために、映画撮影の現場で昼夜もなく激しく働いた。家に帰れば養母との緊張した関係に疲れる日々。養父母は麻雀などで養女の稼いだ金をいいように使い込むのだった。

また、高峰さんは自分の実像と乖離した扱いをされることに、戸惑うようになる。映画『綴方教室』で、モデルになった豊田正子という女学生と、10代の女優の高峰さんを並べてマスコミは「ふたりの天才少女を並べて、好きな食べ物は? と問うに、高峰秀子は“今、おなかいっぱいだからわからない”と答え、豊田正子は言下に“梅干しと白いご飯”と答えた」などと、面白おかしく報道。勝手な想像ではあるが、清貧を比較されたことで、10代の感受性は傷つき、迷ったことだろう。

常にそんな環境の中に身を置く中で、高峰さんの中で次第に根深い人間不信・人間嫌いが形成されていったことは、無理もないことだ。高峰さんの子ども時代の生活を現代社会の常識で見ると、にわかに信じがたい。児童福祉法もない時代のこととはいえ、あまりにも孤独な幼少時代ではないだろうか。

■自身でプロ意識を構築しきった聡明さ・自律心の芽生え

冒頭で紹介したように、高峰さんは文化人からのラブコール・親交がとても厚い。

幼い子役時代から、歌手の東海林林太郎から、養子に来ないかと熱心に誘いを受けて、一時期は同居するなどから始まり、10代以降は文豪の谷崎潤一郎や画家の梅原龍三郎などの文化人とのお互いの作品に機に出会い、性別や年齢での差を感じさせない友人としてリスペクトされ、家族ぐるみで長きに渡って親交を温めるなど、枚挙にいとまがなく、信じがたい面々である。

私の好きなエピソードにこんなお話がある。

戦争のさなか、10代の高峰さんが映画の撮影中に、山本嘉次郎監督と話したエピソードだ。

「デコ(高峰さんのあだ名)、一人で何を考えていた?」
「別になんにも……」
「デコ、つまんないかい?」
「つまんない」
(中略)
「普通の人でもタクワンは臭いと思うだろう? でも俳優は普通の人の二倍も三倍もくさいと思わなくちゃダメなんだな」
「……」
「何でもいいから興味を持ってみてごらん。なぜだろう? どうしてだろう? って。考えるってのはワリと間が持つよ。そうすると世の中そんなにつまんなくもないよ」

『わたしの渡世日記』高峰秀子著,文春文庫,1976年

高峰さんは、この監督との会話の中で、監督は「プロになれ」と自分に言ったのだと気づく。そして、家にいなくても、映画界・文化界にメンター・正しい大人がいることに感謝をし、こましゃくれて、だるそうに人間不信のまま仕事をしていた自分の姿に恥を感じる。

好きも嫌いと仕事と割り切って、やる以上はプロに徹しよう。持てない興味も務めて持とう。人間嫌いを返上して、もっと人間を知ろう。タクワンの臭みを他人の五倍十倍以上に感じられる人間になろう。

『わたしの渡世日記』高峰秀子著,文春文庫,1976年

このような強い言葉に現れる意志を持って、ひとりの職業人・プロとして、“好むと好まざるとにかかわらず”の子役~アイドル女優から、プロフェッショナルな女優へと、女優という職業に冷静で知的な情熱を持って、自分自身を大きく変えていった。

自分は女優として・個人としてどうあるべきか? を問い続ける姿は、プロフェッショナルとしての自律心・セルフコントロール力だ。それを10代半ばの少女が自ら必要性に気づいて構築したということに、驚きが隠せない。

また、自分はどうあるべきかという自問自答と調整を長い期間継続するには、何よりも情熱が必要だ。高峰さんには、プロに徹するという情熱があった。時には自分を食い物にする他人だけにとらわれず、救いの言葉をかけてくれる他人に目を向けて。スクリーンに映る自分を楽しみにしてくれるお客さんに向けて。

高峰さんの特殊性・魅力はまさにここにあるのではないだろうか。我を捨てて、誰かのために冷静にそして情熱を持って自分という器を、芸を磨いていった。それも超一流品として。

■現代を生き抜く私たちに必要な自律心と職業観

この高峰さんの回想の言葉は、現代社会で“好むと好まざるとにかかわらず”仕事をして食べていかねばならない私個人にもガツンと響く言葉だ。プロに徹する腹積もりがなくては、プロになんてなることはできない。プロとして自発的にふるまうことが蓄積されて、人はプロになる。

まだまだ男女平等なんてはるかかなたの大正生まれの女性に、昭和の末裔の私が時を超えて、職業観・プロフェッショナリズムを教えていただくことがあるなんて! と私は初めてこの言葉に触れたとき、大きく感銘を受け、背筋が伸びる思いがした。

どんなに華々しい活躍をしても、冷静に淡々とプロフェッショナリズムを持ち続けることは並大抵の自律心・意志では成し遂げられない。

晩年、養女・明美さんとご夫婦の財団法人(一本のクギを讃える会:映画の裏方さんを表彰する法人)を設立するというエピソードに現れる、高峰さんの言葉に私はしびれてしまった。

映画作りが一つのビルを建てることだとしたら、監督もスタッフもみんながそれぞれ一本のクギ。女優もただの一本のクギに過ぎない。ただスクリーンに姿をさらすというだけの違い

『高峰秀子の流儀』松山明美著,新潮社,2010年

邦画界の歴史になおも名高く残る、50年もの映画人としてのキャリアを持ってもなお、自身も含めて「一本のクギ」と考える、このフラットさ・冷静さもまた、高峰さんの並外れた初志貫徹された意志と知性だ。

さて、仮に自分がキャリアで大成功しても、いい仕事をしても、おごれる人は久しからずの精神で、フラットに・冷静に自身や他者を見つめることはできるだろうか……。

■高峰さんの流儀:こだわらない「意志」、そして、そのための一貫した自律

さまざまなエピソードに垣間見られる高峰さんの自律心こそが、高峰さんを子役やアイドル女優で終わらせず、50代にかかるまでの映画女優キャリア、そして70代にかかってまでの文筆家としての多方面でのご活躍と、すべての作品の圧倒的な品質・品格を生む源泉だと、私は考えていて、心から尊敬している。

自律は冷静だけでも情熱だけでも成し遂げられない。両方のバランスがあってこそ成し遂げられるものだし、そのバランスはひたすらに知性と意志のなせる業だし、通り一辺倒に一時期だけ成し遂げられれば何者になれるというわけでもない。

高峰さんは総じて意志を持って、変えられない運命を生き抜いた。その過程では日常のあらゆる微細な出来事に対して、自らの意志を持ってこだわらず・動じず、自分の望む方向へと変えられるものを自分の力で変え、生活・人生を構築して生き抜いた女性なのだ。

私はふと、キリスト教の有名なニーバーの祈りを思い出す。

「主よ、変えられるものを変えるだけの勇気を、変えられないものを受け入れるだけの冷静さを、そして変えられるものと変えられないものを区別する知恵を与えたまえ」

まさに、高峰さんの生き方はニーバーの祈りそのものであり、だからこそ、生き様がひとつの流儀・哲学として一貫している。だからこそ、流儀・哲学として洗練されているからこそ、高峰さんの生き様を知った私たち他者をひきつけてやまないのだと私は考えている。

■高峰さんの激動の渡世の終着点:ご結婚

ちなみに……映画界や養母との確執などに疲れ果てた高峰さんは、20代の終わりにパリに留学し、帰国後30歳のとき、映画監督で脚本家の松山善三さんと結婚した。

結婚当時、松山さんは駆け出しの映画助監督で、名の知れた大物女優の高峰さんとは、逆・格差婚と言われたそうだが、高峰さんは、

松山は私にないものを全部持ってる。もう誠実が洋服を着てるような人

『高峰秀子の流儀』松山明美著,新潮社,2010年

と夫を描写する。この高峰さんの言葉は、パートナーに対する最高の信頼・尊敬の言葉ではないだろうか。

また、高峰さんの世代の女性で、そもそもいわゆる「職業婦人」自体がとても稀有な存在だが、女性も主体的に納得のいく形で個人として対等な夫婦関係を構築することもまた稀有だ。

21世紀ももう20年という時代を生きる私としては、高峰さんのようにしみじみと人間性に信頼を置いた誰かと結婚したいものだ……と思ったりもする。

運命の流れに沿って、激動の人生を生きた高峰さんが、唯一自身で決めたことが結婚であると著書で繰り返される。そして、高峰さんの自伝『わたしの渡世日記』は、松山さんと結婚するところで終わる。

それは、高峰さんにとっての30年間の「渡世」の終わりが松山さんとの結婚だったということだ。

晩年、養女の明美さんに

かあちゃんは子供の時から働いて働いて……だから神様が可哀想と思って、とうちゃんみたいな人に出会わせてくれたんだね。

『高峰秀子の流儀』松山明美著,新潮社,2010年

とポツリとお台所で話したそうだ。これ以上に、今手にしている幸せ・安寧への感謝を表す言葉を私は知らない。


Text/ユキ・クリヤマ
Illust/野出木彩

ユキ・クリヤマ

外資系コンサルで奮闘する会社員です。 最愛の彼氏が死んでしまったり、諸事情を抱え、人生要件定義しなおし中です。 働く女性の視点で、あれやこれやと思考をめぐらすのが好きで、このたび記事を書かせて頂きます。

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