「彌生は、大胆な娘よ」
『蟻ヶ崎会会報』1966年7月8日
天才、草間彌生。大胆な挑戦と耐え忍んだ日々
「浮き沈みに耐えてここまで来たの」。ドキュメンタリー映画『≒草間彌生 わたし大好き』で語った前衛芸術家・草間彌生さん。バッシングに耐えて静かに再起を図りながら、アートへのピュアな欲望を持ち続ける人の冷静と情熱。
水玉! 赤いオカッパ! 鋭い眼光! そう聞いて思い浮かべるのは? 今や日本人なら知らない人はいないほど有名になった前衛芸術家・草間彌生さん。その名声は、国内のみならず、海外にまで轟いています。
作品の評価も、うなぎ登り。2017年には、世界のオークションで最も売れた女性アーティストとして、ダントツの第一位に輝きました。その金額は、なんと71億8000万円! しかも、存命する女性アーティストでは、草間さんひとりという快挙。
しかし、草間さんが唯一無二の存在として、確固たる地位を手に入れたのは80歳を過ぎてからです。私は、映画『≒草間彌生 わたし大好き』の監督として、その道程を間近で記録する幸運に恵まれました。
最初に出会ったのは、草間さんが66歳だった1995年。何気なく読んだ草間さんの本に魅せられ、是非とも本人に会ってみたいと取材を申し込んだのです。小さな体とは裏腹に、近寄り難いオーラを感じたのをはっきりと覚えています。その頃の口癖があります。
「生きているうちは、世の中に認めてもらえないかもしれない。でも自分が死んだ後、必ず認められる日が来る」
ゴッホが死後に高い評価を得たように、自分もそうありたいという渇望であり、認めてくれない世の中への苛立ちが感じ取れました。まさに波乱万丈な草間さんの生き様。
幼い頃から既に「有名な画家になる」という強い決心を抱いていた草間さんでしたが、行く手に立ち塞がっていたのは、戦後の旧態依然とした日本社会。女性は結婚して家に入るのが当たり前でしたし、ましてや画家になろうなんてもっての外です。そこで草間さんが打って出た策は、日本を飛び出すことでした。
簡単に海外に行ける時代ではありませんが、あらゆる手段を講じ、1957年28歳で渡米を勝ち取ります。出発前には、それまでに描いた作品のほとんどを河原で焼き捨て、過去の自分と訣別。その意気込みは、周囲が驚くほどでした。
渡米を反対し続けていた父親が、羽田空港に見送りに訪れ、ポツリと漏らした言葉です。英語も話せない草間さんは、ひとりも知り合いのいない異国へと飛び込んで行きました。この勇気ある決断がなければ、今の草間さんは存在しえなかったことでしょう。
窮屈な日本で滾っていたエネルギーは、ニューヨークの競争社会で揉まれながら、自在に溢れ出しました。自ら切り開いた道で、増殖と反復というオリジナルな表現を編み出し、作品「無限の網」「ソフト・スカルプチュア(柔らかな彫刻)」でアートシーンを駆け抜けます。
しかし、草間さんの芸術への貪欲さが、周囲との軋轢を生じさせることに。ニューヨーク発祥の“ハプニング”という新しい芸術表現を、草間さんも、60年代後半、頻繁に行うようになります。それは、セントラルパークやブルックリン橋で、反戦や平和へのメッセージを込め、全裸の男女の肉体に水玉模様を描く“クサマ・ハプニング”。注目を集めましたが、ニューヨークのアート界は、売名行為だと冷ややかな視線を向けました。さらに、追い打ちをかけるように、日本のメディアがスキャンダラスに書き立てたのです。
1973年、16年ぶりに帰国した日本で待っていたのは、激しいバッシング。芸術家として生き残る居場所がありませんでしたが、ここでも草間さんは大胆な行動に出ます。精神科の病院に、自ら入院したのです。芸術療法を提唱していたこの病院で、冷静に再起を図ります。私は、数ある草間作品の中で、この時代のコラージュ作品が大好きです。ひっそりと制作された小品は、深く深く海の底に沈み込んだような静けさを漂わせ、耳を澄ませば、草間さんの微かな息づかいが聴こえてきそうです。
草間さん復活の兆しは、90年代後半に訪れます。アメリカの女性キュレーターが企画した回顧展『愛は永遠に 草間彌生 1958-1968』で、ニューヨーク時代の作品が再評価されたのです。そして、人気に火がつくきっかけは、2004年に森美術館で開催された『クサマトリックス』。5人の少女と3匹の犬が草原で戯れているようなインスタレーション「ハーイ、コンニチハ!」と愛らしい少女を描いたドローイング作品「愛はとこしえ」は、これまでの強迫的な草間作品のイメージを「カワイイ!」に一変させ、ファン層を広げ、老若男女の観客の心を捉えました。
「浮き沈みに耐えてここまで来たの」
映画『≒草間彌生 わたし大好き』2008年
ドキュメンタリー映画の撮影中、高松宮殿下記念世界文化賞の2007年度の受賞が決まり、カメラを向けると、力強い答えが返ってきました。水玉の女王として圧倒的な存在感を示す草間さんですが、その裏には、芸術家として生き残りを模索した苦しくも、情熱的な時期があったのです。
思い返せば、私の人生も、草間さんと知り合ったことで刺激的なものになりました。その計り知れない魅力を探ろうと、熱にうなされたように取材を続けるうちに、気がつけば20年が経っていました。その間、草間さんの“地雷”を踏み、不協和音を起こすことも度々。
今となっては笑い話ですが、当時の私にとっては、泣きたいほどの出来事をひとつご紹介します。密着取材を始めて間もない頃、満開の桜と草間さんを撮影したいと、花見にお誘いしました。何度かの交渉の末にやっとOKをもらい、青山墓地に出発。順調に撮影を進めて、和やかにお別れをしたと思っていました。
しかし、花見の翌日、草間さんのスタッフから思わぬ連絡が。「花見で貴重な制作の時間が奪われたので、今後取材は受けない!」と草間さんが怒っていると言うのです。思いもしなかった地雷爆発で、無期限出入り禁止になってしまいました。しばらく微熱が続き、もう辞めたいと思うのですが、再び撮影が許され、草間さんの突き抜けたキュートさに触れると、また懲りずにアトリエへと足を向けてしまうのです。
例えば、こんなシーン。自分が描いた作品を改めて眺めながら。
「ステキね〜! もっと見せて」
「自分のやったこと、全部ステキ。天才的だね」
映画『≒草間彌生 わたし大好き』2008年
自分の作品に本気で感動している草間さんは、童女のようにチャーミングです。
その表情を見ると、それまでのわだかまりは、すべて帳消しになります。
そして、最近つくづく思うのですが、SNSで“いいね!”を押してもらわないと不安になってしまう人が多い中で、“自分で自分にいいね!”を押しまくる草間さんは、なんて素敵なんだろうと。
人は、何らかの使命を帯びてこの世に生まれて来るのだとしたら、草間さんは、作品を通じて多くの人に“芸術の素晴らしさ”を伝えにきたのかもしれません。そんな草間さんを写真家の篠山紀信さんは、「国宝。日本の宝」(NHKスペシャル「水玉の女王 草間彌生の全力疾走」)と称しました。その言葉通り、最大の作品は、草間さん自身! 私はそう確信しています。
荒波に耐え、アートへのピュアな欲望を持ち続け「もっともっと」と誰も辿り着いたことのない高みを目指す孤高の魂。90歳になった今も、手を止めることなく制作に励んでいます。
Text/松本貴子
Illust/野出木彩
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