「わたしは戦争中の女学生でしたから、あまり勉強もしていなくて、何も知りません。ですから、わたしの知らないことや、知りたいことを調べて、それを出版したら、わたしの歳より、上へ5年、下へ5年、合わせて10年の世代の人たちが喜んでくださると思います。そんな女の人たちのための出版をやりたいと思います」
『暮しの手帖別冊 しずこさん「暮しの手帖」を創った大橋鎭子』暮しの手帖社,2016年,22頁
戦争が起きない世界、暮らしに色を添える雑誌を 大橋鎭子が描いた希望
生きることの楽しみを生涯追い求めた編集者、大橋鎭子。『暮しの手帖』を創刊し、世の女性たちの暮らしが楽しくなるように、生きやすくなるようにとの思いで、今までにない雑誌を編んだ人の冷静と情熱。
インスタグラムで、主婦の方をたくさんフォローしている。お料理や住まいや着こなしをはじめとした彼女たちなりの「暮らしのひとこま」を見るのがただ楽しいからだ。彩りよく詰め合わされたお弁当、子どもが散らかしたあとにどうやって部屋をリセットするか、今月着たファッションの一覧などなど、私の中の衣食住――「暮らしを大切にしたい」気持ちを、少し高揚させてくれる。
そんな投稿たちにこめられた「暮らしを大切にすること」への憧れは、あるいは原点は、どこにあるのだろうか。私が思うに、その一端を担ってきたのが「女性向けの生活雑誌」の数々であり、なかでも雑誌『暮しの手帖』の存在は大きいように感じる。
■『暮しの手帖』を生み出した大橋鎭子さんのこと
私と『暮しの手帖』の出会いは十数年余り前にさかのぼる。小学生のとき、放課後になるとまっすぐ祖父母の家へ帰っていた。幼い頃から本好きで、物語などが置いてあれば、時間を忘れていつまでも読んでいられる子どもだった。祖父母の家で私にも読めて面白かったもの――それは、母が幼少期に読んだであろう、表紙の色褪せた世界児童文学全集と、祖父が定期購読していた『暮しの手帖』だった。
料理の写真も暮しのコラムも、商品テストに至るまで、どのページを読んでも楽しいと思えた雑誌だった。
本コラムでは『暮しの手帖』起ち上げ人のひとりである大橋鎭子の生涯について紹介するが、彼女をよく知らなくても2016年上半期の朝ドラで高畑充希が演じた『とと姉ちゃん』のモデルだよ、と言えば合点する人もいるかもしれない。
大橋鎭子は、家族のため、世の女性のために命を燃やして働き続けた人だった。彼女の灯した「女の人のための出版がしたい」「暮らしの知恵を売る仕事をしたい」という火は、現在に至っても多くの女性の心を優しく照らしている。一生を「職業婦人」として生きた彼女の人生について、振り返っていこうと思う。
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1920年(大正9年)、大橋鎭子は東京府・深川にて誕生した。父である大橋武雄、母である久子との間にできた長女だった。そののち、大橋家は次女の晴子、三女の芳子に恵まれて、鎭子は、ふたりの面倒を見る心優しい姉となった。
しかし、鎭子が10歳のとき、武雄が肺結核により亡くなり、幼いながらも鎭子は喪主を務めることになった。この体験を原点として、鎭子は「父に言われた通り、母や妹を幸せにしなくては」と誓うのだった。
東京府立第六高等女学校を出た鎭子は、当時女学生は卒業したら嫁ぐのが当たり前だった時代に、親類の紹介で日本興業銀行(現在のみずほ銀行)に入行。新聞の切り抜きや調査月報の編集手伝いをした。3年働いたあとに思い立って「学問を身につけるため」日本女子大学校へ進学するが、体調を崩して半年で退学した。
再び活字の仕事がしたいと思い、新聞広告で見つけた日本読書新聞社の求人に応募し、入社。しかし折しも、その年(1941年)の12月に真珠湾攻撃が起こり、日本は太平洋戦争に突入していった。1945年3月10日、鎭子の誕生日に東京大空襲が起きた。大橋家に直接の被害こそなかったが、焼け出された人たちが街中をよろよろ歩いている光景を鎭子は見た。
終戦を迎え、生き延びた鎭子は「家族を幸せにするにはどうしたらいいか」と考えた。一般的なお勤めでは、女性は男性よりも、ずっと少ないお給料しかもらえない時代。そこで、「知恵を売る」こと――つまり、本や雑誌をつくることで、一家を養えないか考えた。
日本読書新聞の編集長、田所太郎は「女の人のための出版がしたい」と夢を語る鎭子に、親友であり、編集者の花森安治を紹介した。花森は鎭子の夢を聞き、自らも親を早くに亡くした身として、鎭子の親孝行したいという気持ちに共感。鎭子と一緒に会社を興し、雑誌をつくることを決意した。
花森は鎭子にこう語っている。
「君も知っての通り、国は軍国主義一色になり、誰もかれもが、なだれをうって戦争に突っ込んでいったのは、ひとりひとりが、自分の暮らしを大切にしなかったからだと思う。もしみんなに、あったかい家庭、守るに足る幸せな暮らしがあったなら、戦争にならなかったと思う」
『暮しの手帖別冊 しずこさん「暮しの手帖」を創った大橋鎭子』暮しの手帖社,2016年,25頁
もう二度とこんな恐ろしい戦争をしない世の中にしていくための雑誌をともにつくることを鎭子に約束させた。
当時26歳の鎭子と花森の初仕事はファッション誌『スタイルブック』の創刊だった。誌面では着物地で作る洋服や、直線断ちで作る服などを紹介。やがてひっきりなしに注文が届く大当たりの雑誌となった。
『スタイルブック』刊行から2年後の1948年、衣に加えて食と住、そして随筆を加えた雑誌『美しい暮しの手帖』を鎭子は花森と一緒に創刊する。まだ日本の至るところに戦争の傷跡が生々しく残る中、不便な状態でも暮らしの知恵をしぼることで、生活を少しでも明るくしよう、楽しくしよう、というコンセプトがうかがえる。
『暮しの手帖』を売るために、鎭子をはじめとする編集メンバーは、リュックサックに雑誌を詰めるだけ詰めて、各地の本屋さんに置いてもらえるように営業したり、川端康成や志賀直哉をはじめとする、日本の著名作家に『暮しの手帖』に寄稿してくれるようにお願いしに行ったりと情熱的にさまざまな試みをした。なかには、今の上皇陛下のお姉さまにあたる東久邇成子さんにも「やりくりの記」と題した原稿をいただき、その号は話題となった。
『暮しの手帖』は「誰でも必ずおいしく作れる料理を」をテーマに掲げてレシピのページを編み、さりげないささやかな暮しのひとコマを綴ったエッセイページ「すてきなあなたに」を載せ、各社の家電などが使いやすいかを調べた「商品テスト」で多くの人から支持を得て、その功績は世間へと浸透していった。
鎭子が36歳の年には「暮しの手帖編集部」が「婦人家庭雑誌に新しき形式を生み出した努力」に対して、菊池寛賞を受賞した。また、38歳の年には、アメリカ国務省の招待で、3カ月間に渡ってアメリカ視察旅行を実施。
鎭子と花森のタッグで『暮しの手帖』は、人々に愛される雑誌となったが、鎭子が58歳のとき、花森が心筋梗塞で死去。花森亡きあと、鎭子は編集長兼社長となり、そのあとの「暮しの手帖社」をけん引した。
1994年、鎭子が74歳のとき『すてきなあなたに』が東京都文化賞を受賞。本書は、鎭子が花森に「さりげない、ささやかな、ごくふつうの日々の暮らしのひとコマを綴ったページを作るのはどうですか」と提案して始まった『暮しの手帖』のコーナーであり、のちにエッセイ集としてまとめられたものである。
「商品テストも大事だけれど、ほんのちょっとしたことでも、一言声をかけるだけでも、その場を和ませてくれる、ちょっとした心くばり、思いやり。お茶ひとつ、ケーキひとつでも、ひと手間かけるだけで、おいしく、ゆとりのある場になる。スカーフ一枚、ブローチひとつでも、ひと工夫しただけで、美しく、豊かな気持ちになれる……そんなことを伝えるページを作りたかったのです」
『「暮しの手帖」とわたし』大橋鎭子著、暮しの手帖社,2016年,236頁
鎭子のほかにも、多くのエッセイストがこの「すてきなあなたに」コーナーに寄稿した。「すてきなあなたに」は、現在の『暮しの手帖』でもずっと続いているロング連載となり、誌面のなかでも欠かせない存在となっている。
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鎭子は93歳まで生きて、最期は肺炎で永眠した。
「わたしは、女の人が自分の力を充分に発揮できる会社をつくりたいのです」。かつて鎭子は花森にそう語った。男性の使い走りになるのではなく、自分で仕事をし、事業をして、女性ばかりの家族を養いたいという鎭子の希望。
「夢を持って始めた会社を潰せない」との思いと、「社長業と主婦業は両立できそうにない」との思いから、彼女は独身で生きることを26歳から決めていた。鎭子と、鎭子を手伝っていた下の妹の芳子が仕事を終えて帰ると、上の妹の晴子が、自分の家族の分のほかに、姉と妹の食事を用意して待っていたそうだ。
「やってみなければ、わからないじゃない? 何でも、厚かましいくらいにあたってみたから、今日まで来られたんじゃないかしら」という、どこか淡々とした冷静な言葉を、鎭子は61歳のときに残した。
鎭子が切り拓いたものは何だろうか、と考えてみた。戦後すぐの、嫁いで家族の面倒を見ることしか女性にはほぼ選択肢がないような時代に、職業を持ってがむしゃらに働き、なお、市井の人々の暮らしに思いを馳せて、その日々が愛おしいものになるように、工夫を凝らした生活スタイルを提案したことだろうか。
鎭子は、自分なりの「女性の理想像」を、体当たりで人生を通して体現したのではないかと思う。仕事を持って好きなだけ働くことは、嫁ぐしか選択肢がなかった女の人の夢であったし、その一方で、伴侶を持つことこそなかったが、生活の中で楽しみを見つけたり、衣食住を大切にしたりするのは、鎭子の望んだ生き方だったように思われる。
■女の人が生きやすく、暮らしが楽しくなる社会を目指した人
現代、女性の生き方は多様だ。これぞと思った仕事を見つけて働くことに一生を捧げる人。趣味に楽しみを見つけて、そのために稼ごうとする人。結婚して子を成し、家族のために日々家事をする人。家庭と仕事をほどほどのバランスで両立する人もいたりする。
私たちが鎭子から学べること、それは「女の人はこういう生き方しかできないんじゃないか」という世間や自分の内心にそびえる壁が目の前に現れたとき「そんなことはないよ」と笑ってその壁を壊し、「生き方のモデル」を更新していくことなのではないか。
一方で、誰にももれなくついてまわるのが「暮らしを営むこと」だ。「ていねいな暮らし」と聞くと、一瞬身構える方も多いかもしれない。「仕事や育児でこんなに忙しいのに、暮らしのことまで気を回せない……」と。でも、そういう発想は、ミスリードではないだろうか。
鎭子の目指したものはきっと「女の人をより忙しく」することじゃなくて、生活に工夫をすることで、女の人により生きやすくなってもらったり、女の人の暮らしが楽しくなるように色を添えたりすることだから。
エッセイ集『すてきなあなたに』は鎭子はじめ、何人かのエッセイストが共著し、鎭子が編纂した作品集だが、2015年に出版された10巻セットの『すてきなあなたに』ポケット版は、私の本棚に大切に置いてある。
通勤や旅先で、鞄のなかから取り出して、ぱらぱらページをめくってみると、めいっぱいに詰め込まれた「暮らしの知恵」や「暮らしの楽しみ方」にほんのり温かい気持ちになれる。
ひとりの女として、生きることの楽しみを生涯追い求めた人。鎭子の遠い背中に思いを馳せながら、ぜひとも、そういう生き方がしてみたいと思う。
Text/上田聡子(@hoshichika)
Illust/野出木彩
・「10月特集『冷静と情熱の女たち』」
・「それでも、生きて行く私。作家・宇野千代の『物差し』」
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