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ロマンチックとレコーダー

妙な特技のせいで、わたしは時々傷いたり悲しくなったりする。「アンドロメダ」の歌詞を見るに、もしかしたらaikoも同じなのかもしれない――。エッセイスト 中前結花さんが、かつてのヒット曲になぞらえていつかの思い出を語る連載、第6回。

ロマンチックとレコーダー

飲食店でお手洗いを借りて、パッと鏡で自分の顔を見ると、毎度思い出すことがある。

6年前、同期入社の友人たちと集まった居酒屋で、その夜もずいぶんと気分良く酔いが回ってから、お手洗いを借りた。
手を洗おうと、蛇口の下に手のひらをくぐらせたけれど水が出ない。
「センサーじゃないのか……」
だけど、蛇口は見当たらないのだ。

鏡の中の自分と軽く目を合わせるとやはり困った顔をしていて、しばらくキョロキョロとしたあと、ちょっと離れたところにある「ボタンのようなもの」を恐る恐る押し込んでみると、
「ジャーッ!」
と勢いよく水が飛び出してきた。
「ほっ」

安心してテーブルに戻って、隣の席の男の子に話しかけた。
「水の出し方がわからへんから困ったよ。もう数秒見つからへんかったら、手を洗わずに出てきたかもね」
と水で冷えた手の甲を、彼の手に押し当てる。

すると「そういうこと言うよね」と彼は言って、シメサバか何かを口に運びながらしばらく間をあけたあと、こう続けた。

「実は、俺も水の出し方に困ったんだよ。変な位置にボタンがあったし。他の奴らも絶対困ったと思うよ、もう何人もあのトイレに入ってるからさ。だけど、中前さんだけがそれを笑いながら報告するんだよ。いつもそう」

「それっていいこと?」
と尋ねると、
「いいかどうかはわからないけど、すごくうらやましい。みっともないことも人に話せるというのは」
「みっともないの?」
「“そんな次元で戦ってない人”でしょう。それが人柄になってる。だからじゃないかなあ。なんでもよく細かいことを覚えてるよね。“こんなことがあった”って包み隠さず人に話すから、覚えてるのかも」
「ふうん、そんなもんかな」

このとき、わたしはまるで気に留めないふりをしたけれど、本当は心底うれしくて、とてもとても満足だった。


そのお店は線路の向かいにある地下のお店で、日本酒の種類が多く、とにかく生魚がおいしかった。
それなのに、すこし前「あの店に行こうよ」と話したとき、そこにいた面子は誰ひとりとして、そのお店のことはおろか、そんな飲み会があったことさえうろ覚えだった。
こういうことが多くて、わたしはよくさみしい思いをする。

同じ彼が「よく覚えてるね。忘れちゃったよ」と笑っていた。
きっとあんなふうにわたしを褒めたことも忘れたろう。
彼は、そんなわたしのことを「人に包み隠さず話す人だから」ととても心地の良い表現をしてくれたけれど、事実はすこし違っていた。

わたしの頭の中には、レコーダーが埋め込まれているのだ。
もちろん比喩だけれど、これは極めて事実に近い比喩だ。


***

気づいたのは小学校高学年の頃だった。
わたしは5〜6歳までの記憶がまったくなく、それでいて、たとえば1年前の出来事を思い出そうとするときは、頭の中で再生ボタンを押したように、そのときの景色も、誰かの声、話しぶり、表情、その後ろで流れていた店内の音楽だってありありと思い出せた。

母はいつも「どうしてそんなこと覚えてるの?」とおもしろがり、「ねえ、そのときお母さんはどんな服を着てた?」と愉快そうだったけれど、友だちは皆「それ、ほんま?」と訝しんだ。

どうやら、他の人とは違うようなのだ。
こちらはすべて覚えているのに、大人はたまに「そんなことは言ってません!」だとか「前にも言いましたが、」などと言う。
そのころのわたしは「処世術」や「事情」なんてものをまるで知らない子どもであったから、学校の先生はひとり残らず、大層な忘れん坊だと思っていた。

中学校に上がっても、わたしのレコーダーは回転し続けていた。
しかし本物のレコーダーと同じで、その容量は限られているのかもしれない。
日々の繰り返しのシーンやあまりにどうでもいい記憶は、上書きのせいか手放していったように思うし、高校に入ってからは授業中やテスト勉強のシーンだけが上手く思い出せなくなって、みるみる成績は下がっていった。

これじゃあ意味がないじゃないか、と不服であったし、「“神童”とまで呼ばれてたのに、なんでやろか」と両親はずいぶんがっかりしていた。
小学生の時分は、授業中の先生の声をそのまま頭の中で再生することができたのだ。

それでも、やっぱり「誰かが話したこと」はいつも頭にしっかりと保存されていて、「そんなこと言ってない」とはぐらかされたり、「誰にも話したことないんやけどさ、」などと以前に聞いた話を聞かされるたび、わたしはいつも悲しかった。


aikoの「アンドロメダ」という曲にこんな一節があって、それに、わたしはいたく共感する。

何億光年向こうの星も 肩に付いた小さなホコリも
すぐに見つけてあげるよ この目は少し自慢なんだ
時には心の奥さえも 見えてしまうもんだから
頬は熱くなって たまに悲しくもなった

――aiko「アンドロメダ」



妙な特技のせいで、その主人公は時々傷いている。
わたしと同じだと思った。

思えば、aikoの曲の歌詞の中には、とても細かい描写がいつも連ねられていて、「そのまんまのあなたの立ってる姿とか」「その八重歯も、この親指も」「まつげ」や「えりあし」だってなんだって、全部全部覚えていて「あれも素晴らしくてこれも素敵だった」と語っていた。

――もしかすると、aikoも同じなのかもしれない。

いつからか、頭のレコーダーがわたしを悲しませるとき、わたしはaikoの曲ばかり思い出すようになっていた。


***

そんな調子だから、はじめて人を好きになった瞬間のことも、わたしはしっかりとよく覚えている。

高校3年生に上がり、みんなが受験でそわそわとしはじめるころ、わたしはある日、とても「明確に」恋に落ちた。
夏休み目前の出来事だった。


高校3年間、生物の授業を受け持ってくれていた女性のK先生は、決して悪い教師ではなかったけれど、なんというのか、つまり「人気」がなかった。
K先生がどれだけ「静かにしなさい」と言っても、クラスメイトたちは私語をやめなかったし、机の上に教科書さえ出していない生徒がとても多かった。

普段はそのまま授業が進行していたけれど、ある日、よく目立つ女の子が友人に向かって、ゴミだか手紙だかの紙くずを投げたとき、K先生は「いいかげんにしなさい」とその子の席まで歩いていって腕を掴んだ。

その子は夏だというのにクーラー対策なのかセーターを肩にかけていて、目の詰まった新しそうな紺色のセーターが、先生の手に付いていたチョークで白く汚れ、「最低。汚いねん」と言って払いのけた。

一瞬で何かが溶けたように、教室は静まり返り、残り数分を残してK先生は教室を出ていってしまった。
すまなそうにチャイムの音が響いて、なんとも後味の悪い土曜日だった。


翌週、K先生の授業がはじまる数分前に、回覧板のようにクラスメイトから手紙が回ってくる。そこには
「K先生が入ってきた途端、全員で机に突っ伏して45分間顔を上げないでおこう」
という提案のような「命令」が女子高生特有の字体で書かれていた。
セーターのあの子だろう。
ずっしりと重い荷物を背負わされたような、最悪の気分だった。
そしてそのまま紙をたたみ込んで、わたしは後ろの席に回す。
「ああ、加担した」もっと最悪の気分だ。

K先生は面倒な人だった。
声が高くて早口で、テスト範囲は「授業を聞いていればわかります」とヒントのかけらもくれない。
だけど、校外学習で名古屋の万博に出かけたとき、足を捻挫していたわたしのために「貸しなさい」と言ってかばんを持ってくれていた。
隣でロボットのショーを見たとき、何気なく「息子も来たいと言ってたわ」と言った。
そのとき、「先生」も誰かの「お母さん」なのだと、新鮮な気持ちになった。

K先生の足音が教室のすぐそばで聞こえ、「来た来た来たっ」とみんなが嬉々として着席して、驚くことに本当に全員が机に顔を突っ伏した。
「……本当にやるの」
と呆気にとられながら、わたしは「息子も来たいと言ってたわ」というあのときの声を思い出し、いったいどうしたらいいのかわからなくなった。
別に好きでもなんでもないけれど、この先生に嫌なことをされた覚えは、一生懸命探したけれどひとつも見つからなかったし、なによりこの人も誰かの母親なのだ。

どうしたものかとパッと後ろを振り返ったとき、ただひとり、いちばん後ろの席で、とある男子生徒だけが前を向いて座っていた。

わたしのようにあたふたと迷っている様子もないけれど、
「俺は加担しないぞ」
と意気込んでいるような様子も一切ない。
まるで別の部屋にいるみたいに、ただ教科書を肩肘で抑えながら、ぼんやりといつも通り、前を向いて座っていた。
手紙が回らなかったのだろうか。

彼は、どちらかといえば騒がしいグループに属していたけれど、思えば、クラスで男子生徒が品のない洒落で誰かをからかったり、聞こえよがしに先生を揶揄してたのしんでいるときそこには参加しなかった。

あまり女の子とは話さないけれど、わたしが体育で足を捻挫したとき「大変やな」とひとこと言って道を開けてくれた。
そういうひとだった。


そして目があう。
そのときの数秒間を、わたしはとてもとても長く感じた。
教室には、こんなにたくさんの人がいるのに、まるでふたりしかいないようにも思えて、耳がすっと詰まったように静かで、時が止まってしまったような感覚であった。

慌てて前に向き直して、わたしも「顔は下げずにこのままいよう」と決めた。
クーラーがよく効いた教室の中、顔だけがとても熱い。
そして「ああ、これがそうか」と心の中でひとりごつ。

今までの、かっこいいな、素敵だな、好きかもしれない、とは明らかに違う。

「恋」をしたのだ。

喉の下、体の真ん中のあたりに、なにかよく知らないものがつっかえるような感覚があって、やがて炭酸入浴剤のようにじわじわとあたたかく溶け出して、浸透していく。

そんなことはお構いなしに、K先生は、いつも通り45分間授業を行った。
その背中は、「相手にしないぞ」「やり過ごすぞ」ととても意気込んでいるように見えて、わたしと彼だけがその一部始終をじっと見守っていた。

あれから14年の月日が流れて、また今年も当然のように夏が来た。

近ごろのレコーダーの具合はと言うと、相変わらず回ってはいるけれど、その性能は随分落ちてしまったように思う。

正確には、「録音」と「すこしの録画」に問題はないけれど、必要に応じてそれを上手く取り出すことが困難になってきたのだ。

こう何年も生きていれば、よく似たシーン、よく似た台詞、よく似た気持ちと何度も何度も繰り返し出会う。
忘れたふりをしているうちに、本当に忘れてしまったことも多々あるし、「思い出す必要などない」という幸せも知ってしまった。
先週、友人と蕎麦をすすりながら、何を話したのかさえ曖昧にしか思い出せない。
しかし、それでも一向に困らないし、それが「長く一緒にいる」ということなのだ。

そして、子どものころや、多感な学生時代のように、一つひとつの出来事に「はっ」と驚いたり、うずくまるほど悲しんだり。そんな新鮮な刺激を、レコーダーに与えてやることができなくなっているのかもしれない。

そう思うとたまらなく切なくて、やっぱりレコーダーの存在はいつまでもわたしを悲しませる。

交差点で君が立っていても
もう今は見つけられないかもしれない

――aiko「アンドロメダ」




だけど、物書きという仕事を選んだ。
取材相手の表情を会社の机でもしっかりと思い出せること、ずいぶん過去の出来事を紡いでエッセイにできること。それだけは大きな救いであったし、わたしは、この仕事に出会うしかなかった人間なのだろうと思うと、「運命」のような言葉を持ち出したくなるほど、甘美で満たされた気分になる。

わたしは、どちらかと言えばそんなロマンチックな言葉が好きだし、なにを忘れても、ロマンチックな出来事は上書きで消えてしまわぬよう、なるべく大事にとってあるほどだ。


そういえば、14年前の夏。
夏休みがはじまる前の日、教室の掃除をしていたら、なんとなく、初恋のその彼とわたしはホウキを持ったまま、話すことになった。
続かない会話をなんとか続かせようともがいているとき、廊下を担任の先生とK先生が談笑しながら通り過ぎた。
よかった。K先生はちゃんと笑っていた。

「K先生のクラスだったことあるの?」
どうしてみんなと同じように顔を伏せなかったのか、そういった意味も含めてそんなことを彼に尋ねた。
「いや、担任やってもらったことはない」
「そうー」

あえなくふたりの会話は教室の床にぽとりと転がり落ちそうになったけれど、そのとき、そのぎりぎりを拾い上げてくれるように、彼は突然早口で言った。

「かばん持ってくれてたから。だって、万博であの先生、中前のかばん持ってくれてたやろ」

ふっと息を飲んで、なにも言えなかった。
わたしたちはあのとき、同じ場面を再生しながら顔を伏せることができずにいただなんて。

耳や頬がじわりと熱くなるのがわかる。
わたしは、どうしてだか、もう叫んで走り出したくなるような気分だった。

水泳部をうらやむような、日差しの強い暑い日だった。
そう言い終わったときの彼のちょっと不自然なパチパチとしたまばたきも、ぎゅっと結んだ口元も、わたしは未だにありありと思い出すことができる。


photo/ぽんず(@yuriponzuu


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中前結花

ライター、エッセイスト。ものづくりに関わる、人や現場を取材するインタビュー記事と、これまでの人生や暮らしの「ちょっとしたこと」を振り返るエッセイを中心に執筆。兵庫県うまれ。https://twitter.com/@merum...

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