6月特集は「聞かせて、先輩」。自分らしくありたい。自分らしく生きたい。でも、周りの目が気になることもある。そんな方に届けたいのが、自分なりのモノサシを持って、わが道を切り拓いてきた人生の先輩たちのお話。自分が目指す生き方を貫くヒントを探ります。
好奇心を絶やさず、楽観的に生きていたら、幸せな偶然がやってくる
留学生向けの日本語教育界で著名な嶋田和子さん。イーストウエスト日本語学校副校長を務めた後、フリーとなり、国内外を講演や講座で飛び回っています。華麗な人生に見えますが、キャリアを中断した時期も長くありました。思い通りにいかない人生と折り合いをつけながら、自己実現する秘訣を伺います。
人生をすべて思い通りに進めていく、なんて無理。むしろ、思いのほか順調にいかないのが、人生というものではないでしょうか。
4〜5割、理想通りにいけば、まあ良しとしよう。前向きな気持ちを持って、そのときどきの環境と折り合いをつけて、自分なりに工夫して楽しもう。
そんなふうにとらえられる人は、想定外の何かが起きたときでも、あまり焦らずゆったりと構えて、次につなげていけるはず。
留学生向けの日本語教育界で、知らない人はいないと言っても過言ではない嶋田和子さん(71歳)も、そんな生き方上手な人のひとりです。
現代女性と比べて自由や選択肢が少ない昭和20年代に生まれ、キャリア志向でありながらも、10年以上に渡って専業主婦として過ごしました。
働きたい欲求とうまく付き合いながら、再び仕事の現場に戻り、70代を迎えた今も国内外でオファーが絶えず、講義や講演で各地を飛び回る生活。
エネルギー溢れる嶋田さんに、どんな状況であっても楽しく、朗らかに、自分らしく生きる秘訣を伺いました。
■働き続けたかったけど、専業主婦に
――現在の日本語教育の職に就かれる前は、長いあいだ専業主婦として家事・育児に専念してらっしゃったと聞いて、驚きました。
浪人して第一志望校を受験することや大学時代の留学、大学院進学などを諦めたのを除くと、大学卒業まではわりと自由にさせてもらったほうだと思います。
ただ、私が就職する前後の1960〜1970年代には、「女性は結婚したら家庭に入るもの」っていう社会背景だったんです。
父から「女の子は結婚すべき」と言われて育ったのも、そんな時代だったから。1年だけ働いて、お見合いをして主人と結婚しました。
――どんな会社で働いていたのですか?
外資系の銀行です。当時、新卒女性の仕事といえば、お茶くみとコピー取りでした。でも、私がしたかったのは、英文科で学んだ英語を活かせる仕事。
だから外資系の銀行を選びました。あまり長くは働けないし、結婚したら家庭に入るという枠のなかでも、目いっぱい自分のやりたいことをしたいなって。
■どんな道も「自分で選ぶ」と納得できる
――柔軟な考え方ですよね。
楽観的なんですよ。「まぁ、いっか」精神というか、「次があるから気にしない」って考えるタイプなんでしょうね。
どういう方向に進もうと、「(誰かに)従わされた」なんて思うと、ネガティブになるでしょう?
だから、「自分で選んだ道なんだ」って考える。気持ちの切り替えもすごく早いんです(笑)。
結婚することでキャリアは一時的に途切れるけど、いつかは必ず道が拓けると信じてたかな。
「夫は働けていいな。なんで私ばかり家にいないといけないの」と思う時期もありましたけど。
3人の子どもの子育てが一段落つく10年くらいは、家事と育児を徹底的にして、合間にいろいろなことを勉強しよう、って決めたんです。
■キャリア復活に向けて準備していたこと
――旦那さんは嶋田さんが働くことについて、なんとおっしゃっていましたか?
「働かないでほしい」と言ってました。ただ、代わりに「どんなに勉強してもいい」とは言っていましたね。
彼は「家族には(ハンドルの)遊びの部分がないとダメ」だと、よく話していました。
全員がパンパンに張っていたら良くないから、私(嶋田さん)に遊びの部分を担ってほしい、って。
――勉強=家にいながらできる自己研鑽、クリエイティブな活動ということですよね。具体的にはどんなことをしていましたか?
その頃は、九州に4年間いました。これから何をしようかと、人生のなかで一番考えた時期だったと思いますね。
夫の会社の社宅に住んでいて、知り合いや友達が大勢いたから、毎週何かしてました。読書会をしたり、あるテーマについて意見交換をする会を開いたり。
自宅ではパンや味噌なんかも全部手作りにこだわったな。家事の効率化・時短化の方法も考え続けて、とにかくいろんなことを試してた。
私はいずれ仕事を再開するんだから、いつかそのときが来たら、家事が効率化されていないと、家庭と仕事を両立できなくなっちゃう、って考えてたわけですね。
■偶然の出会いが運命を変える
――「また働きたい」じゃなくて、「また働くんだ」という強い気持ちがあったからこそ、そこまで計画的に準備ができたんでしょうね。
今のままではいたくない、働きたい、という思いが、心の中にマグマのように発生していました。
――日本語教育の仕事につながる転機は何だったのでしょうか?
九州に住んでいたとき、周りの人たちから家族や子どもの問題とか、いろんな相談を受けてたんですよ。
真摯に答えていたつもりだけど、いつもどこか不完全燃焼だった。もし、私に相談を受ける側としての専門知識があれば、もっとうまくアドバイスできたんじゃないか、って。
東京に戻ってからはカウンセリングの勉強を始めました。それが日本語教育の仕事につながっていきました。
あるとき、英語でのカウンセリングを見る機会があって、日本語でのカウンセリングと全然違うことに気づいたんです。
それは、英語と日本語という言語の違いから来るものでした。そこで、日本語って何だろうって考えたんです。
そんなときにたまたま新聞で、1カ月で日本語教師になれる講座の宣伝を見つけて。早速申し込んで受講して、日本語教師になる資格を得ました。
■持つべきは、好奇心・持続性・柔軟性・楽観性・冒険心
――運命を変えるものとの出会いって、こんなふうに偶然起きるものなんですね。
そう、ある意味すべて偶然なんです。アメリカのクランボルツ博士が1999年に発表した「計画された偶然性」っていうキャリア理論があります。
好奇心・持続性・柔軟性・楽観性・冒険心を持っておくと、幸福な偶然を引き寄せるという内容です。
――嶋田さんを象徴する性質ばかりだな、って思いました。
私にはどんなときも「これでいいのかな?」と考えてる。だから常にアンテナを立てていて、それで偶然が引き寄せられたんじゃないかな。
日本語教師になってからも、業界内だけで動くんじゃなくて、「横歩き」って言うとわかりやすいかしら。所属するコミュニティを大切にしながらも、たまに外の世界、周りの世界を見にいってます。
人と人とを結びつける場「ヒューマンハーバー」を主宰し、異業種交流の大切さを説く青木匡光先生と出会って、異業種交流会に参加するようになりました。業界外の方と交流を深めて、日本語学校の授業に来ていただいたりもしました。
通常の授業で俳句や落語の授業を開講していましたが、それも横歩きをしたおかげで、俳人や落語家と知り合って、縁を作ったからできること。
■「鍵っ子になりたい!」働く母を応援する子どもたち
――日本語教師として就職したイーストウエスト日本語学校では、どのようにキャリアを築いていきましたか?
1990年10月にイーストウエストに非常勤で勤め始めて、翌1月に「学校を良くしていきたいから、嶋田さん、教務主任になってもらえないか」って打診されたんです。
いつかは常勤として働きたいとは思っていたけど、非常勤が常勤になると、働き方がまったく変わるでしょ? 家族にも相談しないといけない。
――ご家族はなんと言っていましたか?
夫と3人の子どもを集めて家族会議を開いて、常勤になっていいかと聞くと、満場一致で賛成でした。
子どもたちは、「一回でいいから鍵っ子になってみたかったんだ!」なんて言ってましたね(笑)。夫も「ずっと家事と育児に注力してくれてありがとう。もちろんいいよ」って。
家族を敵にするか味方にするかで、気持ちは変わってくるわよね。家族全員の賛同を得たから、より気持ちよく働けるようになりました。
■夫には選択肢を提示するとうまくいく
――それまで嶋田さんがほぼおひとりで担っていた家事は、どのように分担したのでしょうか?
「それなら家事に協力してね」と、家族会議の場で子どもにも頼みました。ただ当時、本当に激務で朝8時〜夜10時くらいまで働くことも多く、平均睡眠時間は3〜4時間なんて日もざら。
夫に「このままだと倒れるか離婚するかのどちらかになると思う。あなたはどう思う」って聞いたんです。もちろん、どちらも避けたいってなるでしょう。
そこで家事を掃除、洗濯、買い物、料理と大きく4つに分けて、「好きなのを選んでいいから、どれかふたつ取ってくれない?」っていう聞き方をしました。
――旦那さんはどれを選んだんですか?
掃除と洗濯。やったことがないから、簡単だと思ったんでしょう(笑)。
――あはは(笑)。洗濯なんて意外と作業量が多いのに。
真面目にやってくれましたよ。家に帰ったら条件反射的に掃除機を持って、掃除する習慣ができてたかな(笑)。
夫は定年になる数年前から75歳まで、12年間大学院生をしていたんです。彼が退職して大学院生という肩書だけになってからは、自分は時間があるからと家事の98%を引き受けてくれています。
■前向きに生きていれば、必ず「次」がある
――1991年から常勤となり、副校長まで務めたイーストウエスト日本語学校を2012年にやめられました。手放す勇気が必要な、とても大きな決断だったのではないでしょうか?
確かにそうですよね。でも、人生何が起きるかわからないし、何か起きたらすぐ決断する、というのが私の信条です。
3.11後、学校が少し大変な状況になって、経営者と戦ったけれど、うまくいきませんでした。そこで、自分は人生や仕事で何を大事にしているのか、冷静に考えて決めました。
辞めると決めた12月にはマンションを買って、翌年1月には法人(一般社団法人アクラス日本語教育研究所、以下、アクラス)を設立し、3月の退職日に向けて、皆に報告する文章や法人のホームページも完成させておくなど、コツコツと準備を進めていました。
――いざやめたときに足踏みしないための完璧な準備ですね。
再就職先も探さず、何のあてもなくやめたけど、とにかく前を向いて活動していたら、仕事は舞い込んでくるものだな、と感じました。
4つの大学で講義を担当していましたし、今でも日本語学校の顧問やアドバイザー、地域の日本語教室での講座を受け持っています。
講演や講座に呼んでいただけて、出張は年に50〜60回くらいあるのかな。夫からは「50回までにしてほしい」と言われていますが、数えてないです(笑)。
■これからのこと
――そのエネルギッシュさは、どこからくるのでしょうか?
フリーになって、前以上にやりたいことだけやれているから、本当にありがたいなって思います。社会に役に立つ仕事をしたいというのが私の願い。
そういった仕事のほか、ここ(アクラスのオフィス)を人が集まる場として機能させたいと思ってるんです。ここで、趣味の「人つなぎ」をしたい、集まった人たちにブラッシュアップとネットワーキングに活用してほしい。
そして、今後ますます増えていく定住外国人の社会参加と自己実現を、日本語教育を通じてお手伝いしていきたいです。
――立ち止まらない嶋田さんから元気をいただくと共に、しなやかに、強く生きていくヒントや勇気をいただきました。本日はありがとうございました!
(編集後記)
自分の身に起こること、抗いようのないことを、ひとまず受け入れる。その中で自分が望む在り方を実践する。
創意工夫を凝らしながら、やりたいことへ向けて、今できることを淡々と積み重ねていく。そうすれば新しい道が拓けるし、ぼやけていた未来がクリアに見えてくる。
嶋田さんのお話を聞いて感じたことです。少し不調だなと思うときがあったとしても、めげずに前を向いていよう。そう強く思わされるインタビューでした。
Text・Photo/池田園子
嶋田和子さん
1946年、東京生まれ。一般社団法人アクラス日本語教育研究所代表理事。元学校法人国際青年交流学園イーストウエスト日本語学校副校長。ACTFL-OPIトレーナー。津田塾大学英文科卒業後、外資系銀行へ勤務。1年で退職し、専業主婦に。1988年より、教師の指導、学生の日本語指導・進学指導にあたる。著書に『ワイワイガヤガヤ 教師の目、留学生の声』(教育評論社)、『キムチと味噌汁―韓日、異文化交流のススメ』(同)、『目指せ、日本語教師力アップ!』(ひつじ書房)、監修に『できる日本語』(アルク)、『漢字たまご』(凡人社)など携わった書籍は多数。
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