われらの時代?

40代になって、社会の真ん中世代なのかもしれない。どんな世の中に住みたいか、何を大事にしたいか、一人ひとりが言葉にしていこう。

われらの時代?

家族とオーストラリアにいるときは、夫が食事を作ってくれる。一人で東京にいるときは、たまにしか自炊できない。しない、というよりできない。時間がないので、どこかで食べてきた方が効率がいい。

テレビの収録が終わって、さあ帰ったら原稿を書かなくちゃというときに一から自炊していたら、作って食べて片付けたときには疲れ果てて使い物にならなくなっている。

というわけで最近、一人で行く店がいくつかできた。40代はいい加減大人なので、一人ご飯も気が楽だ。カウンターや隅のテーブルで、心静かに食べられる。

自意識過剰で居心地が悪かった若い頃がウソのよう。そう、ちょっと敷居が高そうなところでも「もう大人なんだし、ここは自分のテリトリーだ」と思えるようになったのだ。

私は20代から現場の第一線に立つ仕事だった。だから、ずっと周りは年上ばかりの環境で仕事をしていた。ところが40代になったら急に、仕事の相手が同世代になった。そうか! みんな年齢とともに社会的に責任のある立ち場になったんだ。そういえば私たちの世代は人数が多い。このごろはどこで仕事をしても、あ、同い年ですねとか、一個違いですねという人がいる。私たちが今、社会の真ん中世代なのかもしれない。

ああ、世の中はずっと、大人のものだと思っていたけれど、ようやく自分の居場所になったんだ。それまでは背伸びして混ぜてもらっている感覚だった。でもいまは堂々としていられる。小さい頃からずっとずっと大人になりたかった。もしかしていまようやく、その夢が叶ったんじゃないか? つまり「私たちの時代」って言える年齢になったのかも。

時代はいつも誰かが作るもので、そこに巻き込まれている自分はどこか被害者意識というか、おミソの感覚があった。だけど40代は、時代の当事者だ。前世代からの制度疲労や悪しき慣習を引き継いで、それを自分の手で改善しなくちゃならない、改善できる自由を手にしている。道理で少し息が楽になった。目の前が明るくなった。当事者になるということは責任が発生するということだけれども、私たちはもう、それなりに手段も知恵も持っている。

政治も社会保障制度も税金も、自分の暮らしをどうするかという話。おじさんたちがどうにかしてくれる、という心持ちで未だに「難しい話」と敬遠している人もいるけれど、わざわざチャンスを手放しているようなもの。今私たちは、自分で自分が住む世界をカスタマイズする自由を手にしているのだから。

70年代前半生まれは人数が多い。日本のいい時代を知っているけれど、バブル世代ほど浮かれた経験はない。ちょうど働き始めた頃にはもう景気が悪くなっていて、長く低迷を続けている社会を見てきた。

そう、空手形世代なのだ。幼い頃から聞かされてきた大人たちの成功体験、そして親たちが与えてくれた「いい学校からいい会社へ」が幸せを保証してくれるという思い込みが、私たちがちょうど働き始めた頃、はしごを外されたみたいに通用しなくなっていた。未知の世界に放り出されたのだ。

あれから20年近くたって、私たちは変わっただろうか? 世の中こんなものさ、とあきらめたのかな。一人ご飯が怖くなくなったように、政治や社会の仕組みづくりについて「私はこう思う」って、今ならもう言えるはず。

好きな服を着て、呼吸するように言おう。どんな世の中に住みたいか。何を大事にして生きて行きたいか。私たち一人一人のささやかな実感を言葉にすることでしか、「大人が用意した未来」を書き換えることはできないのだから。

小島 慶子

タレント、エッセイスト。1972年生まれ。家族と暮らすオーストラリアと仕事のある日本を往復する生活。小説『わたしの神様』が文庫化。3人の働く女たち。人気者も、デキる女も、幸せママも、女であることすら、目指せば全部しんどくなる...

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