『35歳――希望の在処』第二話
別居中だった結婚5年目。夫からの「他に好きな人ができた。離婚したい」メールを見た葉子がとった行動は――。作家・南綾子さんが描く「35歳×離婚」をテーマにした短編小説を全5回でお届けします。
約5年、別居と同居を繰り返した。もちろんその間、何度も話し合いをした。結婚を続けるためなら、葉子はできることは何でもしたいと思った。念願だった商品開発の仕事をあきらめ、定時で帰れる総務課へ異動願いを出した。涼太が帰ってきてくれた日は、必ず手の込んだ料理を用意して、部屋も隅から隅までピカピカにした。一緒にいる間は、なるべく明るい雰囲気になるように心掛けた。
でも肝心の涼太が、自分にどうしてほしいかを、はっきり言ってくれないのだ。話し合いのときも「葉子は悪くない」と「ごめん」のふた言を繰り返すばかり。
決定的な事件が起こったのは、結婚5年目の春。別居中だった。あるとき、めったにこないメールが届いた。
他に好きな人ができた。離婚したい。
その“好きな人”は、高校時代の部活のマネージャーで、同窓会で再会し、ときどき2人で食事にいくようになったという。食事だけで、深い関係ではないと涼太は言い張った。
離婚は絶対に嫌だった。
自分はもう34歳。この歳でバツイチなんて、終わってる。涼太さえ戻ってきてくれたら、それ以外のことは、すべて、どうでもいいと本気で思えた。今まで通り、冷めた関係でもいい。どうしても別れたくなかった。
何度も何度も泣いてすがって、「別れたくない」と繰り返した。みっともなくても、自分にはそうするしかなかった。
多分、100回目か、もしかすると200回目ぐらいの話し合いのとき、涼太は声だけでなく、すべての勇気を絞り出すようにして、言った。
「ずっと思ってたんだけど……俺ら、いつも会話がかみ合ってないと思うんだ。話していて、楽しくない」
意味が、よくわからなかった。今でもわからない。話がかみ合わないって、どういうこと? そんなことで、もう10年以上も一緒にいるわたしを、捨てるっていうの?
本当の理由を言いたくないから、適当な理由をでっちあげている。そうとしか思えなかった。でも、本当の理由って何?
「その、好きな人とは、話は合うの?」
葉子が聞くと、涼太はこう答えた。「合うと思う。なんでも相談できるし。俺、よく笑うんだ、彼女といると」
葉子はずっと、自分の夫は、元から笑うのがあまり好きじゃない人なんだと、思っていた。
急に、とてつもない疲れを感じた。何もかも捨ててしまいたいようなやけくそな気分に陥り、勢いで離婚届に記入して判を押してしまった。涼太はそれを手にすると風のように目の前からいなくなった。その瞬間、後悔した。今の今まで、ずっと後悔している。
結婚時に買ったマンションに、葉子はそのまま住んでいる。ローンは涼太が支払い続ける。母親に資産があるようなので、きっと痛くも痒くもないのだろう。
風呂に入り、簡単な食事を済ませると、午後8時。パジャマ姿でソファに座ると、コンビニで買ってきた新作のチーズケーキの封を開けた。生活の唯一の楽しみは、甘いものを食べること。しかし、以前ほどは心が弾まない。涼太と付き合っていたときは、デートの帰りにケーキを買って、どちらかの部屋で一緒に食べるのが楽しかった。ため息をつきながら、テーブルの上に出しっぱなしの結婚相談所のパンフレットをなんとなく広げた。
入会するための書類はすでにそろえた。あとは入金するだけだった。
パンフレットをすぐに閉じた。今度はスマホを手にする。
涼太のFacebookのアカウントを、チェックする。
朝起きたときから眠るまで、1日に何度見ているか、わからない。
例のバツイチ女とは、すでに破局済であることがわかっている。今年の1月はじめ頃、友達リストから、突然、削除された。
葉子は、チッと舌打ちした。
また、あの女の記事にコメントしてる。
あの女——時田恵理子は、金融関係の企業に勤務し、金融に関する何らかのリポートをするのが主な業務らしい。Facebookは平日の夜はほぼ毎日更新、内容は金融に関することのみだったが、必ず本人の自撮り画像が添えられている。
年齢は30代前半ぐらいだろうか。美人だ。それも、かなりの。毎日大量の「いいね!」とコメントがつく。当然、九割が男だ。
涼太は離婚後、いわゆるデイトレに手をつけ、今ではかなり熱中しているらしいことを、Facebookを通して葉子は知っていた。その過程でこの女を見つけたのだろう。なんとか彼女に気に入られようと、毎日毎日せっせと真面目ぶったコメントを書き込んでいる。バッカみたい。こんな男に執着している自分がバッカみたい。でも、もとに戻れたら、自分は死ぬほど安心すると葉子は思う。