すべての経験は尊く、人生の物語のひとつになる──2種類の離婚から考えたこと
一口に離婚と言っても、そのかたちは夫婦の数だけ存在します。たとえば子どものいない離婚と子どものいる離婚にも大きな違いがあります。今回は、私や友人が経験した離婚を振り返りながら、離婚後に未来を切り開くヒントをお伝えします。
■私の現在から完全に消えた最初の夫
ひとり静かに過ごす夜。ふと思い立ってFacebookの検索窓に最初の夫だった人の名前を入力してみる。検索結果には同じ名前がいくつか出てきたけれど、別人ばかり。続いてTwitterやGoogleでも探したものの、やはり彼の情報はなく、空虚さを抱えたままスマホを閉じる……。
別れた夫に未練があるわけではありません。ただ、わずかな期間でも結婚相手として人生を共にした人の消息をつい知りたくなって、ウェブを手がかりに探すのです。結果、今では自分の世界から完全に消えてしまった存在であることを痛感します。
子どものいないまま3年で幕を閉じた最初の結婚。終わってしまえばあっけないものでした。その後、10年以上もの間、彼がどこにいるのか、何をしているのか、どんなふうに新しい人生を歩んでいるのか、知ることなく過ごしています。
■あっさりとしていた、夫婦ふたりの別れ
最初の結婚について、もう少し振り返ります。籍を入れたのは、26歳のときでした。相手は、仕事で出会った5歳年上のサラリーマン。寡黙で、自然の中で過ごすのが好きな素朴な人でした。
子どもを作らず、家事は分担、仕事は旧姓のまま。独身時代と変わらない生活でした。「脱サラして農業をしたい」という希望を持っていた彼。反対する理由もなく、結婚2年目の春に彼は夢をかなえました。
その後、畑仕事にのめりこむ彼と、出張や取材で忙しい私との溝は深まり、いわゆる“すれちがい”状態に。彼の就農から1年後、数回の話し合いを経て離婚。互いの荷物を運び出し、離婚届を提出するだけのあっけない別れでした。時間の経過と共に、彼の消息は途絶えました。
自分の人生から消えて、思い出の人となった最初の夫。今では、一緒に暮らしていたときのエピソードだけが、記憶の箱に横たわっています。
今になって思えば、子どものいない離婚は、引き返せない分岐点を別々に歩んでいくように、完全な別離を意味するものでした。
■子どもがいると、離婚後も関係は続いていく
一方、2度目の結婚と離婚は感じ方がまったく違います。結婚生活が13年と長かったこと。夫が創業した会社で共に働いたことで、同じ時間、同じ世界、同じ人間関係のなかにいたこと。息子がいたことで、離婚後もコンタクトを取り合い、息子を介して会い続けています。
SNSでも共通の知人がたくさんいるため、タイムラインには別れた夫の様子が流れてきますが、あえてそれを遮断していません。「お父さんが新しい仕事を始めたみたいよ」「知ってる。こないだ言ってたよ」というふうに、ウェブからの情報が息子との共通の話題づくりに役立っています。
別れたけれど、思い出に昇華することなく、現在を共に生きている。それが、私にとっての“子どものいる離婚”でした。
私とは違って、子どもを引き取り、離婚相手との縁を断ち切った友人もいます。別れた夫からさまざまな仕打ちを受けた彼女は、子どもが成人になるまでは元夫に会わせないと決意し、自身が父親がわりを果たしています。
けれど、子どもがそばにいるかぎり、物理的には会わないとしても、別れた人の面影にはふれ続けるのです。子どものいる離婚は、“終わっても現在進行形”なのです。
■子どものいない離婚、いる離婚を経験して思うこと
子どもがいなかった最初の結婚は、価値観や生活スタイルの違いといった個と個のすれ違いから離婚に至り、完全に過去のものとなりました。けれど、わずかでも同じ時間を共に生きたパートナーとの思い出は、今では宝物です。
かたや、子どものいる離婚を経験して感じるのは、子どもがそばにいる限り、その子の親である相手の存在も私のなかで生き続けている、ということ。時には途方にくれるような現実がありますが、一時の感情や憎しみにとらわれずに身近な人との関係を続けることで、自分というものの深みが増し、人生が豊かになっていくのを実感します。
ひとつめの離婚を経験した私と、ふたつめの離婚を経験した私は、別々の物語で生きる主人公のようです。
「生きるとは、自分の物語をつくること」と言ったのは、心理学者の故・河合隼雄さんでした。多くの人が自分の物語の価値に気づいていないかもしれません。けれど、人が生きてきた軌跡が物語であり、それはその人にしか作り上げられないもの。そう思えば、物語を重ねることで人の一生は面白くなる、ともいえます。
そう、人生の物語はひとつである必要はない。それが、たどりついた答えです。
■人生の物語はひとつである必要はない
自分の人生の物語はひとつだと思い込んでいる人がいます。
もちろん自分という登場人物をそっくり入れ替えることはできません。けれど、ひとりの女優が監督や脚本の異なるいくつもの映画に出演するように、ひとりの作家が複数の小説を創作するように、人生の物語を重ねていくことは可能です。
出会った人、関わっている人すべてが自分の物語の大切なキャストだと思えば、その存在を受け容れ、愛おしく思うことができるはず。
たとえ未完成な物語を重ねたとしても、胸を張っていればいい。終わってしまった関係も、現在進行形の出来事も、それぞれにかけがえのない物語なのです。
自分が重ねた経験を慈しみ、物語の登場人物たちにあたたかい眼差しを向けることができたなら、今よりもっと豊かな未来を切り開くことができると信じています。