あなたが考える幸せって? 哲学者による「幸せ」の定義から得る生きるヒント【佐藤あつこ】
人間は何が幸せかを知っているのといないのとでは、人生の過ごし方が変わってくるはず……哲学的・学問的に「幸せ」の定義を明確にした4人の哲学者を取り上げ、読者の皆さんと一緒に幸せについて、ちょっとだけ真剣に考えるコラム、前編です。
「幸せ」を一言で定義するのは難しい。でも、みんな「幸せになりたい」って思いますよね。
私が政治を志したのも、「この国で暮らす人の幸せってなに?」と考えることから始まりました。
政治家は人々の幸せを考えるのと同様に、自分にとっての「幸せ」が何かを知ることも仕事のひとつであると考えたからです。
きっと、何が幸せかを知っているのと、いないのとでは、人生の過ごし方が変わってくるはず。
……ということに気づいたアラフォーの私が、ちょっとだけ真剣に、哲学的・学問的に「幸せ」の定義を明確にした4人の哲学者について、読者の皆さんと一緒に考えたいと思うのです。
きっと生きるヒントになると思います。
■「幸せ」とは「快楽」だ――功利主義を唱えたベンサムの定義
近世・イギリスの哲学者であるベンサムはずばり、「幸せ」とは「快楽」だと言いました。
しかし、ここで言う「快楽」は、あなたひとりがどっぷりと浸る快楽ではありません。あなたにとっての快楽でもあり、同時に「社会の幸せ」を増大させることはあっても、減少させることはない。この条件があっての「快楽」が「幸せ」にふさわしい「快楽」です。
これ、ベンサムのいわゆる「功利主義」ですが、「快楽」は「幸せ」を生み出し、反対に「不幸」を防止するものであると、彼は言いました。
つまり人の不幸を喜ぶ……などは「幸せ」になれない。つまり不幸の始まりなのです。これは「最大多数の最大幸福」という考え方です。
ところが、ベンサムの主張には大きな疑問がありました。
「最大多数の最大幸福」であるからには、「幸せ」と思える「快楽」が量的に多ければ多いほど良いということになります。
つまり「幸せ」の「量的」な比較が前提となります。
「この幸せ」と「あの幸せ」を量的に比較して「どっちがより幸せなのか?」を明確に示さなければ「最大多数」とは言えないからです。
ある人は「お金」という物質的な量を「幸せ」と感じ、ある人は「親切」や「達成感」という心の在り方に「幸せ」を感じるとすると、一体どうやってそれらに優劣をつけたらよいのでしょうか?
ベンサムはこのことを解決する術を持ちませんでした。
解決する術はないものの、「最大多数の最大幸福」こそが「幸せ」なのだ! という考え方は、日本よりもむしろ欧米で、今でも広く受け入れられています。
幸せとは「お金」か? それとも「心のあり方」か? という議論は、近世からずっと続いているのです。
■「幸せ」は量より「質」である――意識高い系の哲学者ミルの定義
近代・イギリスの哲学者であるミルは、「幸せ」を量的に比較するよりも「質的」に比較する大切さを明らかにしました。
実際のところ、セックスなどの「身体的な快楽」やお金などの「物質的な快楽」以上に、人は「楽しさ」「嬉しさ」「喜ばしさ」といった精神的な快楽を追求できることを明確にしたのがミルです。
人はより、「人間的な」快楽を求めることができるのです。
そのためには、量的に多ければ多いほど「幸せ」であるという考えを捨て去らなければならない……。
満足した豚よりも、不満足な人間になることのほうがよい
満足した馬鹿よりも、不満足なソクラテスになることのほうがよい
幸せにも「低い次元」と「高級な次元」があるならば、人は動物でも持つことのできる「低い次元」での快楽ではなく、人として持つ「高級な次元」によって感じることのできる快楽を目指すべきだと、ミルは言いました。
かなり「意識高い系」のミルですが、かといって「下劣な幸福」そのものを否定しているわけでもなく、「低い次元の快楽」で「幸せ」と感じる人々を否定しているわけでもないのです。
ただ、「高級な次元での快楽」が人にとっての「幸せ」であるということです。
結局、「量」か「質」か?
■物質的なものか、心の問題か?
今回は近世・近代の「幸福論」で有名な哲学者をふたり取り上げました。
欧米ではやはり「量的」な幸せを主張したベンサムの「最大多数の最大幸福」が広く支持を得ています。
日本はどうでしょうか。そしてあなたの「幸せ」はどちらですか?
ちなみに私の「幸せ」は「平和」です。
後編は、「苦痛を伴う正義」を「幸せ」とした哲学者、そして明治維新の日本の哲学者のふたりを取り上げます。
(後編に続く)