戸田菜穂連載『横顔の女』#3
お裁縫
子どものころから不器用で、大雑把な性質だったせいか、この「お裁縫」という言葉から大いに逃げてきた。
まず第一にアイロンが苦手。
アイロンが嫌いだから奥の部屋のそのまた奥に入っていて、いよいよいいハンカチがなくなり、あれ? これ20代のとき、京都で買ったハンカチ? となって初めて重い腰を上げる。アイロンをかけ始めると夢中になって山のように仕上げていくのは、楽しかったりもするのだが。
裁縫をピシッとさせるにはまずはアイロンが大切らしい。リビング寄りに置くことにする。
ふたつ目は、ミシンが怖い。
ガガガガッーと、私の思考のスピードより速い。
下糸もすぐどこかへ行っちゃうし、いい思い出がない。機械音痴ということで、目も合わせず逃げてきた。
が、この秋急展開が起きた!
我が家にミシンが来たのだ。
それも1950年代の足踏みミシンが!
名前ももうある。そのものずばりの「ブラザー」。
ブラザーは黒光りして、フェイスのメッキにも意匠が凝らしてあり、ミシン台も丸みを帯びてそれだけでもすてき な机となる。初めは、動かなくてもインテリアのひとつになればと思っていた。
しかしなんと、ブラザー君は動くのだ。直線縫いと返し縫いができるそうだ。スマホで足踏みミシンの操作方法を勉強。今ではスススッと上糸を掛けることができる。
そんなこんなで縫製のプロの友人が、ぜひ連れて行きたい店があると、吉祥寺のまるでパリの生地屋さんのようなセンスのいい店に入った。
そして、そこで働くマダム風の美しい女性にズキューンと焦がれたのだ! 黒っぽいパンツルックに布のメジャーを首から掛けた姿が、洋裁のプロ中のプロという雰囲気をかもし出していて私なぞ容易に近づけないオーラを感じたのだ。「勉強しますっ!」と、心の中で誓った。
そういうわけで、日夜ブラザー君と格闘している。
何しろ音がいい。真っすぐ進むと家族みんなが拍手する。初めて機械というものを愛しく感じた。ミシン油をさすと喜んでくれて、調子もいい。
これで裁縫は苦手と言い続けた自分から、一歩前進できた。新しい扉が、パアッと目の前に開けた。それはそれは楽しい世界が。
このごろ感心した言葉がある。無我の境地と聞くと、瞑想したり、座禅を組んだりと、 堅苦しく思いがちだが、実は違うらしい。好きなことに没頭していれば、たとえば料理やピアノや書道などなんでも、それが無我の境地と同じだという。そしてそれはすこぶる心の健康に良いそうだ。
その言葉を胸に、ブラザー君のカバーを縫い、緑色のミシンのアップリケまで作ってカバーに縫い込んだ。
もちろん、手縫いでねっ(笑)。
戸田菜穂