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華のCAとして、野球選手のお嫁さんになるはずが……

今や日本を代表するアボリジニアートのコーディネイターとして、数々のメディアに登場する内田真弓さん。華やかな日々を謳歌していた彼女が、どんなきっかけでオーストラリアに渡り、アボリジニアートと出会い、何を感じたのか。日々に少し息苦しさを感じているあなたにこそぜひ読んでもらいたい物語。第2回です。

華のCAとして、野球選手のお嫁さんになるはずが……

「ちやほやされ、お金の価値観もわからなくなって。怖いものなんてなーんにもなかった」。今やアボリジニアートのコーディネイターとして、日本を代表する存在の内田真弓さん。彼女が大手航空会社にCAとして入社したのは、バブル真っ盛りだった。「茨城の小さな町で育った私にとって、世界中をフライトする毎日は夢のようにキラキラしていました。」。けれど次第に、ある疑問が芽生えていく。「こうして大きな組織に守られていれば、きっと60才まで安泰。でも会社の肩書きがなくなった時、私はどうなるの?」。そして6年後、彼女は大手航空会社のCAという肩書を捨てる。「親には泣かれました。せっかくCAになったんだから、プロ野球選手と結婚して欲しかったって(笑)」。

裸の『内田真弓』で勝負したい。そんな思いから航空会社の勤務と並行して通信教育で日本語教師の資格を取得し退職。1年のアメリカ留学を経て、ボランティアの日本語教師としてオーストラリアに派遣される。勤務先は人口たった800人の小さな村の小学校だった。

最初は慣れない場所にひとり上手くコミュニケーションもとれず、疲れては寝てばかり。「日本人はよく寝る人種だな、って村の人に思われたはず(笑)」。けれど次第にこの村に愛着が湧いていく。「村中みんなファミリー。家の鍵なんてかけないし、隣の人がどこへ出かけるのかも知っている。家の前に採れたての野菜が置いてあったり。なんだか地元の茨城みたいだなって」。

自ら心を開き、村のみんなも慕ってくれるようになった頃、ボランティアビザの期限である1年がやってきた。オーストラリアに残るべく、就労ビザを手にいれようと尽くしたが、12%超の失業率だった当時、外国人を積極的に採用してくれる企業は見つからなかった。「思わず偽装結婚まで考えましたが(笑)万策尽きて、帰国のチケットを買いました。荷物も船便で送って」。最後に日本の友人へのお土産を買いに、大きな街まで出ることに。偶然選んだメルボルンで、彼女は人生を変える出会いを果たすことになる。

>>次回
https://p-dress.jp/articles/1505

内田 真弓
アボリジニアート・コーディネイター。1966年茨城生まれ。大手航空会社でキャビンアテンダントを経験後、26才で退職しオーストラリアでボランティアの日本語教師に。1994年よりメルボルンのアボリジニアートの画廊に6年間勤務。2000年に独立、「ART SPACE LAND OF DREAMS (http://www.landofdreams.com.au )」を立ち上げ現在に至る。 著書に『砂漠で見つけた夢』(K.Kベストセラーズ)。今年10月、東京銀座三越にて「内田真弓プロデュース・アボリジニアート展(仮)」を開催予定。

DRESS編集部

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