死は遠いどこかの出来事じゃない。今日も誰かが亡くなり、その人を想って泣いている人がいる
死というと、縁起の悪いもの、というイメージがありますが、現状は赤ちゃんが生まれるよりも亡くなっている人の方が多いんです。死生観というと大げさですが、毎日の暮らしの中にこそ、自分の中で大事にしているもの、そうでないものがはっきりと反映されています。日常の中にある死、今回は「死にたい気持ち」にフォーカスして考えていきます。
■私、死にたいかもしれない
今日もまた残業。
大した仕事してる訳でもないのに
どうして定時で帰れないの?
帰りもぎゅうぎゅうの電車に乗って、コンビニに寄って、ハイボールとおつまみ買って、家についたらヒール脱いで化粧落として、部屋着に着替えてテレビをつける。
毎日これの繰り返し。
つらい。
彼氏はいるけど、レスになってもう2年目。
お給料だって私とそんなに変わらないし
結婚なんて考えられない。
学生時代の友人は、みんな結婚してしまった。
週末のSNSは、家族がいて幸せアピール合戦みたいになってる。
それに比べて私は……?
そういえば、実家にもずっと帰ってないな。
お母さんもおじいちゃんのお世話があって大変だろうけど、娘のことは心配じゃないのかしら。
もし、もし今、私が死んだら
心の底から悲しんでくれる人って
本当にいるのかな。
もう何もかも嫌。
私、死にたいかもしれない。
おそらく、多くの女性が
一度は似たような思いを
抱えたことがあるのではないでしょうか。
お酒を飲んでも
ベッドで横になっても眠れない。
心と頭がつかれすぎて
そのまま死にたくなってしまう夜が。
でも、みなさん、本当に死にたいわけではないはず。
これって現実から目を背けたいだけですよね。
死にたいって言えば誰かが助けてくれるんじゃないか。
今のこの状況や環境を変えてくれるんじゃないか。
優しい人がケアしてくれるんじゃないか。
そんな都合のいい矛先としての「死にたい」だったりします。
けれども、実際にいざ人の死そのものと対面すると、どうしていいかわからなくなるのが私たちの現実。
人が亡くなるのは、だいたい病院か施設です。
毎日誰かが亡くなっているはずなのに
それはニュースの中の出来事であって
自分の生活圏内に、死なんてものはない
みんな、そう思い込んでいます。
でも、考えてみて欲しいんです。
生きるのがつらい。
でも死ぬのもこわい。
両方から目を背けていて
本当にいいのでしょうか?
ここで、私が昔担当した患者さんの話をさせてください。
彼女は生と死、このふたつを考える上で、ヒントとなるようなものを残してくれました。
■頭と心、その差の果てにあったもの
飯田有希子さん(仮)
70代の女性、胃がんの末期の方でした。
できる治療はもう症状をおさえるのみ。
お看取りのための入院でした。
夫は地主・株主・経営者。
本人も当時にしては珍しく大学を卒業したような家柄で、暮らしにはまったく不自由してこなかった人でした。
身なりも綺麗で言葉遣いも丁寧。
自身を「わたくし」というような人だったんです。
病気についてはもちろん
余命についても宣告されており
「私は死を受けて入れているわ」と
穏やかに話していました。
けれども
がんが悪化し、症状が進行するに伴い
品の良さや穏やかさが失われていきます。
飯田さん、頭では寿命や死について理解していましたが、心がまったく追いついていなかったんです。
この頭と心のズレがきっかけとなり
不眠
昼夜逆転の生活
興奮して泣きじゃくる
看護師への暴言・暴力
5秒おきのナースコール、など
さまざまな症状を引き起こしていました。
難しい言葉で言うと「せん妄・不穏」を引き起こしている状態だったんです。
しまいには、点滴の管を抜いたり、ベッドから起き上がって転んでしまうため、止むを得ず「抑制」といってベッド上に飯田さんを縛りつけることもありました。
「離して、もういや! どうして私だけがこんな目に遭わないといけないのよ!!」
と、それでも興奮がやまない時は鎮静薬を頼ります。
これ以上使用すると呼吸が止まってしまうかもしれない……。
そんな量を投与しても興奮は収まりません。
抑制を抜け出そうとやせ細った身体で懸命にもがく飯田さんのその姿は、もはや品のいい奥様ではありませんでした。
夫もふたりの娘たちも、その姿をみて呆然。
「こんなの妻じゃない」
「こうなったのはがんのせい」
といって、今目の前にいる飯田さんの状態を
受け入れようとしませんでした。
入院当初、家族の中で看取られたいと話していた飯田さん。
最期の瞬間は、夫が仕事の電話のため部屋から中座し、娘たちがトイレに立った、ちょうどそのあと。
皮肉にも、彼女はひとりで天国へと旅立っていきました。
■飯田さんの最期から、恐怖を見つめる勇気について考える
がんの患者さん、すべてがこういう症状をたどるわけではありません。
最期まで自分らしく穏やかな方も、もちろんいます。
では、なぜ飯田さんは不本意な最期になってしまったのでしょう。
これは私の考えですが、飯田さんは社会的役割や周りから求められる姿と、実際のご本人の精神性や人格に大きな格差があったと思うのです。
「経営者の妻なんだからしっかりしなきゃ」
「ここでみっともない姿を見せたらダメ」
「娘たち、そのお婿さんたちにも迷惑がかかる」
「毅然に、気丈に、逝かなくては」
という建前が
「本当は怖くてたまらない」
「死にたくない」
「不安で夜なんて眠れない」
という自分の本音を押さえ込んでしまい、結果、あのような最期になったと思っています。
■死は見えていないんじゃない、あなたが見ようとしていないだけ
たしかに、普段の暮らしに
死ってなかなかありませんよね。
けれども、実は生活の中にたくさん隠れています。
食べ物は腐るし
花は枯れるし
時計だっていつか壊れる。
それと一緒です。
今日も誰かが亡くなり
その人を想って泣いている人がいます。
死はもっと身近にあるもの。
あなたに見えていないだけです。
日本では、これまでの歴史や風習から、死について、あまり公には語られてきませんでした。
語る場があるとしても、病院や施設、患者家族会など、ごく限られた空間だけ。
それに、お葬式から帰ってきたら塩をまきますよね。
こういう習慣がそれを表すように、死は
・邪悪なもの
・縁起の悪いもの
・語ってはいけないもの
このような認知をされているのではないでしょうか。
けれども、そういった認知がまた
日本人の死の質を下げているとも言えます。
怖いから
不安だから
縁起が悪いからと言って
死から目を背らし続けていると
いざ、そうなった時にもっと怖いんです。
例えば、お化け屋敷。
真っ暗で先が見えないからこそ、怖くておもしろいですよね。
これがもし、明るくて先に何があるかわかってしまったら面白さも怖さも半減してしまいます。
死にも、逆説的に同じことが言えるはず。
だからこそしっかり照らして、目をひらいて
よく見つめましょう。
そして、情報と経験、覚悟を携えてみて欲しい。
死への恐怖や不安を0にすることはできなくても、軽減することはできます。
さすがに1回死ぬわけにはいきませんが
闘病記やご家族の手記を読む、など
経験を得る方法はたくさんあります。
■死にたい気持ちを否定しないで、肯定する勇気を
冒頭にあった、私、死にたいかもしれない。
まずはその気持ちを否定することなく
自分の心で受け止めてみてほしいです。
逃れば逃るほど
遠ざけようとすればするほど
「死にたい気持ち」は追いかけてきます。
逃げて逃げて、追い詰められて行き場を失った人が、死にたい気持ちを死ぬ行為そのものに変えてしまった例も、臨床で多くみてきました。
だから、逃げないで
自分の気持ちに素直になってほしい。
自分で自分を否定することほど、悲しいことはありません。
その方がよっぽど「死」に近い状態なはずです。
ここでポイントとなるのが
気持ちと自分自身は別物ということ。
私も看護師を長くやっていますが「白衣の天使」とは裏腹に、患者さんに対してネガティブな感情を抱くことは多々あります。
そして、新人の時にはそのような気持ちを抱くことに対して、自己嫌悪を感じたり、看護師失格なのではないかと思うことさえありました。
でも、それは、看護師として抱いている気持ちのひとつであって、私自身がその気持ちに支配されているわけではない、ということがわかってから、その気持ちも自分の中の一部なんだと客観視できるようになったんです。
死にたい気持ちも一緒。
ここまで偉そうに話していますが
私にも、死にたい夜はあります。
そういう時は、自分と自分の気持ちを離しましょう。
それから、気持ちだけを見つめてみる。
そして、受け止められたら、いろんな角度から光をあてて見つめてみましょう。
一度にパッと照らすことは難しくても、手持ちの懐中電灯でいろんな角度から光を当ててみることはできるはずです。さきのお化け屋敷のように。
もしかしたら
満員電車は通勤の経路を変えれば緩和するかもしれない
仕事が定時で終わらないのは、そもそも終えるようにタスクを組んでなかったからかも……
彼氏だって、日々の寂しさを埋めるための都合のいい存在だっただけかもしれない
こうした発見があるかもしれません。
落ち着いて一つひとつ、考えていきましょう。
「死にたい気持ち」の反対側には「今、生きてる自分」が必ずいます。
死んでしまったら、死にたいという気持ちさえ抱くことはできませんから。
「死」をみつめることは「生」をみつめること。
恐怖や不安の先には必ず希望があります。
どうか、未来を照らせる人がもっと増えますように。
DRESSでは12月特集「死ぬこと、生きること」と題して、今と未来を大切に生きるために、死について考えてみます。