気の合わない家族や親は嫌っていい。「家族だからわかり合えるはず」をあきらめる 2/2
■わかり合えない家族は、あきらめてもいい、嫌いでもいい
その後、私は結婚した。
いま結婚して7年経って、ようやく「血のつながってる親子でも、わからないものはわからない」「親を嫌いだと思ってもいい」と思えてきている。
そう思えるようになったのは、親との心理的距離が遠くなったこともあるが、なにより一緒に暮らす夫や気の置けない友人が、私の闘病の経緯も含めて受け入れてくれるのを感じるからだ。
血もつながってなければ、親より付き合いの短い人たちが理解してくれてるのに、親には理解できない。もうこれは実の家族だからわかり合えるはず、という考えは幻想だな、と割り切れるようになった。
遠くの親戚より近くの他人、というのとはちょっとずれるが、わかり合えない実の家族より、わかり合える後天的つながり、だ。
もうひとつ、自分の同世代の知人で親になる人が増えたことも影響していると思う。
当たり前のことだが、人間は完璧に成熟してから親になるわけではなくて、ほとんどの人が未熟で不完全なまま、ある日親になる。そして、自分なりの正解を探しながら、手探りで子どもと接する。
親は子どもにとっては絶対的な存在だが、ひとりの人間としては長所も短所もあって、考えや行動が矛盾だらけなのが普通だ。
そう実感すると、自分の親もそうして「親」になったが、昔も今も欠点や矛盾だらけの人間なのだから、娘に間違った対応もするだろう、とあきらめに近い気持ちで冷静に見られるようになった。
そして私も不完全だ。完全ではない人間同士、合わないとか理解できないとか嫌いだとか思ってしまってもそれは自然だし、罪じゃない。親として子への愛情があるかとか、育ててもらった恩を親に感じるか、とはまた別問題だ。
■「嫌いだ」と認めたうえで親と付き合っていく
割り切れたとはいっても、冒頭で書いたように、父からメールが来るだけでいまだにビクッとするし、会うときは自分が傷つかないように、めいっぱい心をガードして会う。
長年の心の習慣はそうすぐに変えられるものじゃない。
でも少なくとも、わかってほしいのにわかってもらえなくて辛いのに、嫌いになれなくて……とがんじがらめの感情に苦しむことはずいぶん減った。かなり考え方の偏った人を親に持ってしまった、苦手だし嫌いだがどうにか付き合っていこう、そんなところだ。
「親を嫌ってもいい」という気づきは、反抗期らしい反抗期が無かった私にとって、ようやく訪れた親離れだ。