怖がる必要はなし!「イタイよね」は脱皮のサイン
「あの人、イタいよね」と思われているときは、ちょっとばかり無理をしているとき。でも、慣れたものから脱皮しようとしている、大事な瞬間だ。私たちはいろいろなものに手を出して、小さな違和感を積み重ねることで、よりしっくりくる今を手に入れられるのだから。
私事だがつい先日、第一作目となる著書『家族無計画』が出版された。優秀な編集者さんについてもらい、「ここを具体的に」「つまりどういうことですか?」とより噛み砕く作業を延々と行った。一度直して編集者さんに提出すると、新たに修正点や疑問点が赤ペンで書き加えられた原稿が返ってくる。それをまた直して提出すると、また戻ってくる。そんなキャッチボールを何度も重ねるうちに、だんだん頭が麻痺したような感じになってきて、最後はもはや自分の根気との勝負、といった感じで、フラフラになりつつなんとか校了。大変だっただけに、ようやく本が世に出る頃には正直少し、気が抜けていた。戦場から帰還した兵士のように、平和な世界でどう生きたらいいのか、ヒーヒー言うほど苦しくない時間を過ごすのは怠惰なのではないか、というような気持ちになってしまったのだ。
作品を“産む”とはよく言うけれど、人間の子どもを産む出産と、本などの作品を産むことの大きな違いは、産んだ後に育てる必要があるかどうかということだ。本などの作品の場合、産んだ時点で完成されているはずなので、人間の子どもと同じように、出産直後から慣れない子育てに翻弄されたりはしない。作品が育つことがあるとすれば、受け止めてくれた人が、その人の中で育ててくれるものなので、私が手を出しようがない。かろうじてできることといえば、より多くの人に届くように宣伝をがんばる、くらいのものだ。だから今回、飽きっぽい私にしては、根気強く、それなりに大きな仕事をしたと思うけど、にも関わらず生み出した後に何ができるでもない、ちょっと手持ち無沙汰な感じが、だんだんと私の中で大きくなってきた。
■イタいと言われるのは脱皮できている証拠
何とも言いようのない時間をただじっと耐えるように過ごしているうちに、あるとき何かが弾けて、オレンジの鮮やかな口紅と、黄色いレンズの入った丸メガネを買った。どちらも、そんなの一体どこでつけるんだよ、という代物だし、特にメガネに至っては、ちょっとチンピラみたいな風合いを漂わせている。けれども私にはこんなふうに、突如見えない力が働いて、普段なら決して買わないもの、身につけないものを、ふと手にとってしまうときが、昔から定期的にある。そういうときは決まって、周囲が穏やかで、調和が取れているときだ。たとえば、コップいっぱいに水を入れて、表面張力でコップの縁以上に水面が盛り上がっているけれど、でも、ギリギリこぼれないという状況で、静かに落ち着いているような感じ。落ち着いているんだから放っておけばいいものを、私はどうしてだかつい自分から調和を崩して、一刻も早く水を溢れさせたくなってしまうのだ。均衡状態には緊張感があるので、それに耐えられないだけなのかもしれない。いずれにしても、その調和を崩すトリガーとなるものが、私にとっては、普段身につけないもの、自分らしくないものを身につけることなのだ。
とはいえ、この年で自分らしくないものを身につけると、さすがに子どもや友人など、身近なところから「ちょっと、それどうしたの」とか、「やめたほうがいいよ」といった具合に、露骨に引かれたりする。後で顔から火が出る思いがするけど、でも最近思うに、それでいいのだ。過去を振り返ってみると、イタイよね、と後ろ指さされるくらいイタイときというのは、ちゃんと脱皮しているときなのだ。Facebookがたまに余計なお世話で見せてくれる過去のポストだって、キラキラを装っててやけに痛々しい。お前はそうじゃないだろう、と現在から過去の私をどつきたくなる。しかしそうやってちょっと無理して、あちこちに手を出してみて、「何か違う」を積み重ねながら、よりしっくりくる今を、手に入れてきたのだ。
荒療治でなければ打破できない惰性の壁は、定期的に目の前に立ちはだかる。