Illustration / Yoshiko Murata
DRESS SEPTEMBER 2014 P.25
やっぱり産みたいですか?【甘糟りり子の生涯嫁入り前】
こと人生において、「計画通り」は難しい。
その気になれば、いつだって結婚はできる。きっと、私は心のどこかでそう思っているのだろう。
だから、「生涯嫁入り前」なんて開き直れるし、年齢を顧みず目先の楽しいことに振り回されたりできる。そう、六十になったって七十になったって、結婚は可能なのだ。理論的には。
でも、出産はそうはいかない。肉体的な限界がある。はっきりと不可能をつきつけられる日がやってくる。やっかいなのは、そのXデーがいつなのか、何年何月何日何時何分なのか(小学生の男子か?)、過ぎてみないとわからないということ。あと何日で子供を産めなくなりますよ、あと何カ月で生理が止まりますよ、なんて誰も教えてはくれない。四十近くなった頃から、じりじりと可能性がすり減っていく実感だけはあるというのにね。
女性は選択を迫られる性だ。その上、選択をしたとしても、選んだ通りになるとも限らない。あきらめる、という選択肢も含まれてくる。
七月末に、『産む、産まない、産めない』という短編集を刊行した。タイトルには、女性はこのどれかの状態に当てはめられざるをえないという現状を託したつもりだ。受け取る人によってはキツいかもしれないけれど、思い切ってこれに決めた。自分の連載で自著について取り上げるのは図々しいかと思ったが、『DRESS』の読者のみなさんには、ぜひ読んでいただきたいので、あえて書くことにしました。
内容は、出世を目前にした不意の妊娠、不妊治療、男性の育児休暇、死産、ステップファミリー、染色体異常、子宮癌など、妊娠や出産に関するさまざまなことを書いた。ハッピーなことばかりではないから、嫌悪感を持つ方も多いだろうと覚悟していたが、版元に届いた読者の声には、意外にも「気が楽になった」「心が落ち着いた」というものが目立った。
女性は誰しも、多かれ少なかれ、「産まなければならない」、そして「果たして、無事に産めるのだろうか」というプレッシャーを抱えている。
先月号の「多婚さんに学ぶ、幸せのつかみ方」では、何人かの多婚さんに取材をした。その時も、再婚そのものより出産に対して言及する方が少なくなかった。彼女たちは、子づくりに協力的でない人との再婚は考えられないそうだ。
もう一度書こう。結婚は何歳でも可能だけれど、妊娠や出産には年齢的なリミットがある。あせって当然だ。
正直なところ、私は、切実に産みたいと思ったことはないし、きちんと考えて産まないと決めたわけでもない。気がついたら、もう産めないだろうなあという年齢になっていた、というのが現実だ。相変わらずの行き当たりばったり。マヌケだなあ、我ながら。
この選択(というか、選択のし忘れ?)が正しいのかどうかわからないけれど、特に後悔はしていない。自分で家庭を持つということに憧れも執着もそう大きくはなく、あればあったで、それもいいかなあと思うぐらいだ。私程度の能力&自堕落な性格で本を出し続けたかったら、他のことに使うエネルギーなんて、あんまり残っていないしね……。
それはさておき、出産にまつわる物語を書いて強く感じたことは、主にふたつ。
まずは、ある程度の年齢になったら、妊娠や出産は積極的に行動を起こさないと、なかなか実現しないということ。だから、それに関しての努力は決して恥ずかしいものでも、隠すものでもない。最新医療に頼ったからといって、それはその人の意思の重さだ。何もそこまでして、という横やりのほうが恥ずかしい。
同時に、出産はすばらしいことだけれど、それがすべてではない。産めなかったとしても人生は続くし、その人生を色彩豊かなものにするかどうかは、自分次第だと思う。
それぞれ家庭の事情があるだろうし、他人がいうことではないのはわかっているけれど、「産む」ことにこだわり過ぎて、自分の人生ではなくなっている人を見ると、胸が痛くなる。
出産だけではないだろう。恋愛も結婚も、対人関係も仕事も、思うように、計画通りに行かなくても、現状を受け入れる。受け入れた上で、自分なりの対処をする。それは言葉でいうよりむずかしいかもしれないけれど、最も大切なことなんじゃないかなあ。あ、ダイエットだけはこれにあらず、ですね。