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「つくづく思いますけど、人ってすぐ死んじゃうから」~バビ江ノビッチの場合~

“オネエ”と呼ばれる人たちの素顔に迫る連載、『オネエのすっぴん』。ショーガールとして活躍しながら、新宿2丁目のゲイバー「marohige」のマダムを務めているバビ江ノビッチさんに話を伺いました。

「つくづく思いますけど、人ってすぐ死んじゃうから」~バビ江ノビッチの場合~

ドラァグ・クイーンもトランスジェンダーも女装家も、なんでも「オネエ」とまとめたがる乱暴な時代で、さらりとそれを引き受ける方の素顔に迫る連載『オネエのすっぴん』。

今回は、ショーガールとして活躍しながら、新宿2丁目のゲイバー「marohige」のマダムを務めているバビ江ノビッチさんに話を伺いました。

バビ江ノビッチさん プロフィール

空を飛んだり火を吹いたり、まるで1人ディズニーランドのようなショウスタイルは奇抜でゴウジャス、ソウルフルでかつコケティッシュ。

そのスタイルは幅広い層から支持を受け、東京をはじめとした全国のクラブシーンはもとより、アーティストのプロモーションビデオやライブ、企業のパーティや結婚式からキャンギャル、学園祭、村おこし(!)、果ては昨今の女装ブームに便乗したテレビ出演まで、アングラからメジャーまで都市伝説的に活動しているDRAGQUEEN。

新宿二丁目のBAR marohigeのマダム、現在はTBSラジオ「LOVE RAINBOW TRAIN」にてMISIAのアシスタントパーソナリティを務める。

■「本当の人生」を始めたい、それだけだった

小さい頃を思い返すと「賢くならなきゃいけない」と考えてましたね、それこそ幼稚園のときから。

私は性の目覚めがやたらと早くて、その頃には自分がゲイで、みんなと違うと自覚してたんです。でも育ったのは千葉の田舎で、時代もあったし、バレたらおしまいだな、みたいな思い込みが強かった。だから隠し通すためには賢くならなきゃいけない。そんなことを考えてましたね。

公文式ってあるじゃないですか。あれがめちゃめちゃ得意だったの。小学生の頃にはもう大学数学を解いてたりして、神童って呼ばれてたんですよ。おかしいよね。実際はただ要領がよかっただけなんだけど。

自分は上下女に挟まれた三人兄弟の真ん中でね。ほら、真ん中の子って要領よくなるじゃないですか。上の子の失敗を見てたりしてね。私は一事が万事、要領がよかったんです。

地域のガキ大将の草野球チームに入れられてたんですけど、それも月に一度だけ参加しとけば女っぽいところがバレないだろ、みたいなね。男子に交じって女子に意地悪したりとか。本当は女の子とおしゃべりしてる時間が好きだったし、そういうのだけやっていたかったけど、周りを見てうまく合わせてましたね。

けど、内心はずっと「早くここから出たい」とばかり考えてましたよ。自分の人生はまだ始まってない、都会に出て「本当の人生」を始めるんだって。

高校生になると欧米のゲイがらみの映画とかドキュメンタリーを見るようになったので、その影響が強かったんでしょうね。映画に出てくる主人公みたいに都会にでて、いつかはカミングアウトもして、嘘も偽りもない「本当の人生」を始めるんだって、そう思ってました。

将来は物理学の道に進もうと思ってたんですけど、志望校に二年連続で落ちちゃってね。その年の後期、理系だったけど洒落で受験したロシア文学科に受かっちゃって。東京の大学だし、ずっとロシア文学が好きだったので、「あ、もうここでいいや!」って行くことにしました。将来の物理学の夢より何より、もう、とにかく早く都会にでたかった。今思うともっとしっかり勉強しとけよって話なんだけど。18、19の頃の私は自分の性とセクシュアリティのことで頭がいっぱいだった。孤独でしたね。

■母が洗ってくれたブラジャー、女装がバレる日

女装を始めたのは、東京にきてクラブで飽きるほど遊んで、やることがなくなったとき。いつも遊んでた友達が「まだ女装はやってないじゃん!」って思いついて、私はお付き合いで半ばイヤイヤやることに。

当時、南青山に伝説的なクラブがあってね。そこでいつもレズビアンパーティーが開かれてたんだけど、水曜日だったから人も少ないしゲイも入れたんです。だからそこが丁度いいんじゃないかって話になって、みんなで出かけました。衣装は一緒に遊んでたレズビアンの子がお揃いのものを作ってくれて、メイクは今思うと破壊的にブスなんだけど、その時はまんざらでもない得意顔でね。キャッキャと騒ぎながらフロアに立ちました。そしたら、びっくり。ハッとしてね。

なんていうの、これまで日の目を見ることのなかった自分の中にある女性性が、文字通り光を浴びたというか。東京に出てきて、思う存分に男とセックスしても、ゲイバーで飲んでも、クラブで踊りちぎっても満たされなかった何かが、女装をして踊ったそのとき満ちた気がしました。人生の足りなかった最後のピースが「これだー!」って、見つかったような瞬間。それこそ「本当の人生」が始まったようなね。

それからはすっかり女装にハマって大学も辞めちゃうんですけど、本当はちゃんと卒業して就職するつもりだったんですよ。だけど、もういいや、女装しちゃえー!ってなるような出来事があって。ふふふ。当時の自分にとっては仕方のない選択だったのかな、と今は思いますけど。

あれはたしか、本格的に女装を始めて数カ月経ったときでしたけど、「用事があるから」って母親がこっちに出てきたことがあったんですよ。

母は「朝からの予定だからアナタの家に前泊したい」と言っていて、私はその頃もう夜の仕事を始めていたので家にいないよって伝えたんだけど、それでもいいと言うもんだから鍵だけ渡して、私は仕事にいきました。

それで朝方、酔ってるし眠いしでドロドロになって帰宅すると、親ってなんだろうね、部屋とか掃除してくれてたりするんだよね。

母はもう出かけていて、私はありがたいなーって部屋にあがって、綺麗に片付けられた部屋に干されたTシャツをボーッと見てたんですけど、そしたらそのシャツの横に、隠しておいたはずのストッキングとかブラジャーが同じ顔して干されててね。テーブルには女装の写真が丁寧にならべられていて。あ……、ばれたわって。目、さめるよね(笑)。

それでさすがに焦って母親に電話したんですけど、それはまあ泣かれて泣かれて。しかも女装からばれたから母も混乱するよね。「お前もう、ちんちんないのかい?」なんて聞いてくるので、いやいや実は自分はゲイで、写真の女装はパフォーマンスでやってるもので、ニューハーフさんとは違ってちんちんはあって……とイチから説明しました。「私の育て方が悪かったのかしら」と泣くので、それは違うよとなだめたり。。最後に「お父さんには自分で言いなさいよ」って言うもんだから、それには「わかりました」と。

それで電話を切って、いよいよ来週父にカミングアウトか、ちゃんと言えるんだろうかとか、いろいろ考えましたね。

■あっけなく始まった「本当の人生」は重く、長く

というのも当時、父親との関係があまり良くなかったんですよ。東京で一人暮らしをすると言ったときにも「援助はしないぞ」と言われて「結構です」と言ったっきりで、3年以上は口をきいていなかった。だから、カミングアウトより前にいろいろ話すことがあるし、どうしようかなとか考えてたんですけど、母との電話の3日後でしたね、たしか。

死んじゃったんですよ、父親がね。交通事故で。

ビックリしましたよ。私はその日も仕事があって二丁目にいたんですけど、ショーを終えて楽屋に戻ると、携帯電話にいろんな親戚から尋常じゃない数の着信が残っていて。こんな深夜になんだろうと折り返したら「お父さんが交通事故にあった」と。それで慌てて友達の車で千葉まで送ってもらったんだけど、実家に着いたらちょうど父の遺体が病院から運ばれてきたとこで。私はメイクは落としてたものの、落ちきってないラメで顔が微妙にキラキラした状態でのご対面っていうね(笑)。

すごいタイミングだよね。うちの母親からしたらダブルパンチじゃんっていう。今は母からもそれとなく「付き合ってる人はいるのかい?」くらいは聞かれるようになりましたけど、事故が起きてからの数年は、私のセクシュアリティや仕事についてはタブーみたいになっちゃって触れられなくなりました。

そんなんで結局父へのカミングアウトはできなくて。女親ではなく男親へのカミングアウトが「本当の人生」の最も重要な儀式だと思っていたので、なんだか宙ぶらりんになってしまって。それに、親の死に目に女装してキャッキャしてたなんて、とんでもない親不孝だし、とんでもない喜劇だよねぇ、なんて考えてたら、私も頭がパンクしちゃってね。「もうとことん女装してやれ!」って変なアクセル踏み込んじゃったんです。ははは。すると仕事がどんどん増えて学校に行ってる時間が無くなっちゃって、それで大学もやめて、そこからはこの仕事にさらにのめり込んでいきました。

私のカミングアウトは何もかも思い描いた通りに行きませんでしたね。「本当の人生」は、思ったよりずっとあっけなく、かと言って気楽さもなく始まっていきました。

■女装に打ち込む自分が、父と重なっていく

それからは誰とも変わらない、泥臭い日々ですよ。こんなみずものの商売をしている身なので「あ、ヤバい、死ぬかも」みたいなことはこれまで何度もありましたし、10年くらい前は二丁目ドラァグクイーン不遇の時代なんてのもあって、ノンケ営業や全国津々浦々のドサ周りに力を入れたりもしました。

でも結果的にそれにハマってね。新しい出会いが沢山あって、いろんな面白い人と仕事ができて、めちゃめちゃ楽しかった。実は、そこで「また会いたい」と思った人達と会えるようにと構えたのがこの店なんですよ。一夜限り、一期一会な仕事が多い業界だけど、またいつでも会えるようにって。

それからありがたいことに10年が経ちましたけど、お店は今もまだまだです。ゲイバーに遊びに行くときにはみんな喜怒哀楽いろんなテンションを抱えていくわけですけど、それを瞬時に理解して上手く掬ってくれるお店は本当にすごい。哀しいときには存分に哀しませてくれて最後には少し浮上させてくれる、楽しいときにはさらにこの上なく楽しくさせてくれる、そんな尊敬するお店やママ達に少しでも追いつきたいと思って、うちもやっていますけど、今も失敗だらけ。反省の毎日です。

思い返せば、私は人生の全てを女装に教えてもらいました。

女装を始めてからの20年という長い年月をかけてようやくオトナになれて、自分という人間の本質に気づいていったわけですけど、その中で面白かったのは、自分のあり方が父の姿と重なっていったことです。

私、ショーの準備とかで三日三晩徹夜をしたり、寝食を忘れて異常なまでに集中しちゃうことがあるんですけど、時間に追われて夜中に衣装を作ったりしているとき、ふと父親の姿を思い出すことがあるんです。

父は建築家で、自分の仕事がとにかく好きでね。仕事のためなら何でも犠牲にするような人でした。仕事人といえば聞こえはいいけど、悪く言えば自分本位で利己的な人だった。

昔は被害者の側からそれを見ていましたけど、今こうして仕事に打ち込む自分は、もしかしたら加害者の側にいるのかもなと。ふと、そんなことを思ったりします。仕事上の不条理な出来事から正体を失うくらいまで酒を飲んだりするところも、怖いくらい父にそっくりですし(笑)。

でもそうやって自分と父の相似を感じる度に「あのとききっとこう感じていたんじゃないか」と彼を理解できた気がして、許していくことができました。そして同時に若い頃の自分の過ちや弱さも、許していけたように思います。

今も仕事で迷ったりすると、父のことを考えますよ。

自分の中の正しいものや美しいものに決して背かなかった父の姿勢は、自分にも受け継がれてると思うけど、私は日和ったりサボったりしがちなので、そんなときには彼の背中を思い出して、自分を律しているつもりです。今、父に何かを言えるとすれば、なんだろう。もう「ありがとう」しか残ってないかな。

それにしてもつくづく思いますけど、人ってすぐ死んじゃうんですよ。

私がゲイだからか、こういう職業だからかはわからないけど、父だけじゃなくて、これまでたくさんの人を、思わぬときに亡くしてきました。

だから、大切な人に伝えたいことは先延ばしにしないで「今」伝えた方がいいと心から思うし、やりたいことはどんなことでもやってみたらいいと思うんです。みんないろんな事情があったり、逡巡したりヤキモキしたり、周りの目が気になったりするものだけど、「ねぇ、そんな時間ないよ!」って。躊躇してる時間なんて無い。アレもやってないコレもやってないと後悔しながらじゃなくて、アレもコレもやったった!と思いながらその時を迎えようよって。それは言いたいかな、なんて。ははは。

■見たことのないものを見せてあげたい、私がそうしてもらったように

「ドラッグクイーンとは何か?」っていうのは、20年もやってるとよく聞かれるんだけど、説明しづらいね。説明するのに飽きたところもあるけど(笑)。

例えば、なんというか、「白」って言われたら「黒」って言う、「黒」って言われたら「白」って言う、じゃあ黒なの? 白なの? って問われたら灰色って応える。そんなのがドラァグクイーンの本質に近いんじゃないかなと思います。

この仕事は良くも悪くも目立つ仕事だし、いろんな人が自分たちを見て何かを考えるきっかけにしたりするわけじゃないですか。なので、常にそういうきっかけとなる要素は纏っていたいとは思います。だけど私自身の意見が大事だとは思ってないですね。それを求められている仕事じゃない。たとえば社会が右にいけば左に、左にいけば右に振舞いたいものです。

とはいえ今、個人的にはドラァグクイーンとしてよりもゲイとしてよりも、ショーガールとしてのアイデンティティが一番強いかな。とにかくどんな手を使ってでもお客さんを楽しませたいっていう気持ちが、私の中にはある。だからこれから先は、もっともっとショーをやっていきたいですね。

ちなみに最近、昔のようにショーガールになりきれてないなと感じることが多々あって、ちょっと悩み中です。自分は女装を始めてから20年ずっと女装のことだけを考えて、仕事しかしてこなかったし、お店を始めてからは毎日のように女装してるので、もはや「バビ江ノビッチ」はすっぴんみたいなものなんですよ。日常なんです。最近はショーをやってる時もすっぴんのままでいるような奇妙な感覚があって。なので「バビ江ノビッチ」以外に、自分の中に何かもう一個キャラクターを作った方がいいのかな、なんて考えたりしてます。

これから先の夢は……、うーん、秘密かな(笑)。自分は、何事もこっそり準備してドンっと発表したいタイプなので。

だけど若い子たちに、今まで見たことのような面白いものを見せてあげたられたら、とはずっと思っています。それは自分が若かりし頃、クラブだったりアングラな空間だったりで出会った数々の衝撃によって解放してもらったから。あの頃私がこの街にきて「ゲイに生まれてよかった」と思えたみたいに、一人でもいいから遊びに来てくれた子が「あぁ、よかった」と思ってくれたら、そんな感動を与えられたら。そう思っています。

バビ江ノビッチのお気に入り化粧品

shu re[シュレ]美容保湿クリーム

ハイブランドからプチプラまで、基礎化粧品は幅広くジプシーしてる私ですが、成分ヲタなところがあるので「新発見の成分」なんて言われるとすぐ飛びついちゃいます。こちらは、日本酒に含まれるα-EGという成分が真皮層のコラーゲンを増やすということを学術的に証明した金沢の大学と老舗酒造会社が共同開発した美容クリーム。確かな効果と使用感の軽さ、そして手頃なお値段で最近ずっと愛用しています。

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#1 「どんな呼び名で呼ばれても、私たちって素晴らしいし」 〜ドリアン・ロロブリジーダの場合〜

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#3 「つくづく思いますけど、人ってすぐ死んじゃうから」~バビ江ノビッチの場合~

太田尚樹

編集者・ライター。LGBTエンタメサイト「やる気あり美」編集長。ソトコトにて「ゲイの僕にも、星はキレイで、肉はウマイ。」を連載中。人の気持ちに一番興味があります。

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