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私にはバグがある。そんな自分を好きになるまでの話

私は人間として生まれた。バグがいっぱいある。そこがとても良い。バグも個性だからたまに友達と見せ合えたら楽しいし、友達のバグをきっと好きになる。良い悪いの前に、バグを尊重し合いたい。

私にはバグがある。そんな自分を好きになるまでの話

若い頃「人からどう見られているか」を病的に気にしていた。いい人でいたかったのかもしれないし、真面目だったのかもしれない。

原因は不明だけど、とにかく自分以外の他人と関わろうとすると、気を遣いすぎてしまう。そんなことを繰り返すので、あまりに疲れると、人間不信になったり、家から出られなくなったりすることもあった。

無理して笑った反動で、お酒に酔って泣いたり、本音を吐きすぎて自己嫌悪に陥ったり。当時の私は、自分で自分をコントロールできず、どうしたらいいのかまったくわからなくなっていた。

器用そうで不器用。明るそうで根暗。ポジティブ風だけど超ネガティブ。私の持つ天の邪鬼な部分は、自分でも持てあますほど面倒で、生きやすいとは言いがたい日々だったと思う。

生きているのがいつも怖かった。ずっとこんなふうにうまくやっていけないのかな。そう不安に感じていても日々は過ぎていく。

どうして自分以外の人はちゃんと笑えているんだろう。渋谷のスクランブル交差点や新宿の居酒屋へ行くと、他の人は楽しそうに生きているように見えた。羨ましくて悲しくなった。

■力んで生きなくていい

ある日、何かきっかけがあったわけではないけれど、考え方をちょっと変えてみようと思った。

私という人間をコントロールするのは難しい。けれど、私をひとりの人間と捉えて、人間という生き物の癖を勉強したら、自分というものがもう少しクリアに見えてくるかもしれない、と。

脳科学や行動心理学、行動経済学、そこから飛躍して、この世界がどうやってできたのか知るべく、生態系まで(人間も生態系の一部なので)広げて本を読み始めた。

次第にわかってきたのは、人間という生き物には、行動や心に癖があり、私だけが苦しいわけではないこと。私が苦しいのではなく、人間は苦しいと感じる部分を持って生きていること。脳はすぐ勘違いをして思い込んでしまうこと。……なるほど。全体を俯瞰的に見えるようになっていった。

「人生はコントロールするものではなく、バランスを調えればなんとかなる」

そんな風に思えるようになり、力んで生きるのをやめてみた。バランスを感じられるようになりたくて、「いい人」と「真面目」を卒業した。自己嫌悪のひとつだった「人間不信」を「世の中のルール不信」に切り替えてみた。

■自分を無理にコントロールするのをやめた

私たち人間は自分を簡単にコントロールできないように生まれてきた。コントロールしようとすればするほど、ルールが増えれば増えるほど、酸欠みたいに身体や心は苦しくなる。

コントロールはストレスが溜まるし、無理をすることになる。あれは良い、これはダメ。そのルールは誰のためにあるのかよくわからないことは多い。疑うなら自分や他人よりルールを疑う方がいいのかもしれない。

「早起きって本当に得?」「結婚したら妻にならなきゃいけない?」「友達っていっぱい必要?」「大人になったらゲームする時間って無駄?」「規則正しく生きるより、良い気分で生きる方を大事にしてもよくない?」

社会の中にある暗黙のルール。「ルール不信ごっこ」はとても面白かった。凝り固まっていた自分の思い込みがゆっくり溶けて、風景全体が変化した。思い込みは生キャラメルに似ているなと思う。

ぱっと見堅そうだけど、食べたらほろっとすぐ溶けるもの。なぜ今まで生キャラメルを眺めるだけで食べてみなかったのだろう。ふとそんな感覚を知り、なにかが変わったなと自分でも気づけた。

■バランスを大事にしながら生きる

少しずつ気づいていく中で実践するようになったのは、バランスを意識して、自分ができることもできないことも、自分が好きなモノやコトも嫌いなそれも、ぐるっと引き受けて楽しんでみること。

疲れたら休む。元気になるまでしっかり休む。自分以外の他人も苦しかったり悲しかったりする。同じくらい楽しかったり嬉しかったりもする。だから、たまに、よく聞いてよく話したらいい。聞けばわかることはたくさんある。話せば伝わることも多い。

こうやってコントロールからバランスへ考え方や感じ方を変えると、生きるのがどんどんラクになった。抗(あらが)わない生き方もあると知った。

そうすると、街中で自分以外の人も、違って見えてきた。きっとみんなも苦しいし、みんな悲しい。でも時々嬉しくて、楽しくて、みんな一緒でみんなちょっとずつ違う。

■自己嫌悪に苦しまなくなった

素直に感じる心が育ってきたら、酔っても泣かなくなったし、泣くほど酔わなくなった。言いたくても言えない本音はあれど、寝たら忘れるという特技も身についた。死にたいくらいの自己嫌悪も「まぁいいか」と思え、感情にゆるみが出てきた。

コントロールしないことで、潮の満ち引きが自然に起きるように、自分の感情や体調のゆらぎを見守ることができた。気分にも朝と夜があっていいし、世界にも朝と夜があっていい。いろいろな自分がいて、それぞれ違っていいのだとわかってきた。

静かで地味でほどほどに幸福で健全な不安を持っている。そこまで心が穏やかになったとき、ようやく「みんな」という言葉が、この世界のどこにも存在していないことを理解できた。

私が羨ましがっていた「みんな」という塊は私が作った幻で、全員違う、名前のある人々が、街中を歩き回っているのだと。世界を点や線ではなく風景で見ることができるようになった。私たち人間も自然の街も、ひとつの風景でつながっている。風景を作っている大切なひとり。私もアナタも。

■自分に「バグ」はあって当たり前

生きづらさが愛おしい。生きづらいなと感じるくらいでいれば、私には他人を思いやる気持ちや優しさがちゃんと残っているのではないかと思える。

生きやすくてラクだなと楽観的になりすぎると、それはきっと私がただ鈍くなっただけなのだろう。だから、生きづらさと共存していくことにした。これも個性でいい。

生きづらさと寄り添いながら、生きづらさの正体が何者か、真摯に学び続ける。知識はいつも人生をやわらかくする。自分にも他人にも。「知らないことがたくさんある」という謙虚さ。

自分の中の酸素が足りなくなってきたら、ここから考え始めている。生きづらさ自体も、実は時代に合わせて変化しているのかもしれない。

寄り添って生きるとは自分も寄り添う相手(この場合は生きづらさ)も変化していて、なんとなく間を取って「このくらいで」を見つけていく作業なのだろう。

間を見つける作業に、知識と経験はとても役に立つ。だからきっと私は本を読んだり、人の話を聞いたりする。私の話が誰かの少しでもお役に立てるなら嬉しいなと思う。

簡単なものより、わかりやすいものより、数値化されたものより、優しい方を選ぶ。声が小さい方を良く聞く。同じ生きづらさでも、受け入れるのと否定するのとでは感じ方がずいぶん変わったなと思った。人に優しく、自分にも優しく。

私は人間として生まれた。バグがいっぱいある。そこがとても良い。他の人と同じ部分もあれば違う部分もある。バグも個性だからたまに友達と見せ合えたら楽しいし嬉しい。友達のバグをきっと好きになる。良い悪いの前に、まずバグを尊重し合いたい。そこから助け合う方法はきっと見つかる。全員に共通する正義はない。

「アナタもいいし、私もいいね」。それくらいがちょうどいい。そしてもし、ちょっと気持ちに余裕があったら「世の中がちょっと良くなるといいね」と想いを持って行動する。余裕分だけ、本当にちょっとだけでいい。その積み重ねで世界も私も変わっていけたらいいなと思う。

私の人生は少しだけ生きづらくていい。生きづらくとも、ちゃんとここで生きてるから。「生きている」。この実感があればたぶん大丈夫。それくらいが健全でいいなと思う。

いつからだろう。ゆるみのある自分が好きになった。

イラスト/兎村彩野

1月特集「私の好きな、私と生きる」

兎村彩野

Illustrator / Art Director

1980年東京生まれ、北海道育ち。高校在学中にプロのイラストレーターとして活動を開始する。17歳でフリーランスになる。シンプルな暮らしの絵が得意。愛用の画材はドイツの万年筆「LAMY safari」。

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