橋本愛は、夢を持たない。そして“何者”にもならずに生きていく。
山内マリコ原作の映画『ここは退屈迎えに来て』が、本日10月19日に公開となった。まぶしい10代の日々、そこから続いてきたはずの、いま。主演を務めた橋本愛さんにインタビュー。
細くて長い手足が動くたびに、直線的な黒髪が、しゅるり、と揺れる。まるで、緻密につくられたお人形のようだ。とても強い意志が凝縮された、お人形。目が合っただけで、瞳の光に貫かれる気がする。
映画『ここは退屈迎えに来て』で橋本愛が演じたのは、何者かになりたくて上京したものの、結局なにも形にできないまま、地元に戻ってきた27歳の“私”。高校時代に憧れていた“彼”の面影を、いまだにひきずっている。物語は“私”が仲間と一緒に、成田凌 扮する“彼”のところへ約10年ぶりに会いに行くロードムービーだ。
「“私”という役はわたしよりもすこし年上だから、わたしがこれから出会うであろう感情を先取りで体験するような、不思議な感覚がありました。学生時代をまぶしく思い出す気持ちには共感できるけれど……やっぱりそこでもまた、役とわたしではちょっと違う感情がある。なぜなら彼女には、夢を成し遂げられなかった、という欠落があるんですよね」
欠落、という言葉選びが印象的だった。作中では「若いうちに夢を見る期間があったほうがいい」といった台詞を投げかけられる場面もある。
「……夢を持っているということは、すごい強みですよね。好きなことややりたいことが明確にある人のほうが、やっぱりいきいきしてるし、夢があるとそれを達成できない苦しみが伴うじゃないですか。その感じも、人としてすごく密度が高いなぁと思います」
夢を持てば強くなれるはず。なのに“私”はそれを活かせないまま、反対に欠落を抱えてしまう。
それはなにが敗因だったかというと、と、橋本愛は続けた。
「描いたはずの夢が具体的じゃなかった、っていうところだと思うんです。“私”は漠然と『何者かになりたい』と思っているだけで、その矢印が自分に向いちゃってた。『好きなことがやりたい』『これを成し遂げたい』みたいな目標を掲げていれば、矢印は本来その対象である物事に向いていくじゃないですか。それがなくて、自分のほうしか見ていなかったから、何をやっても鏡みたいで、世界が広がらなかったんじゃないかなぁ……」
■なにかの名前を求めていても、なにも手に入らない
自分が放った言葉を確かめるように、細い手首を、もう片方の手で握りしめる。
では、橋本愛はどんな夢を見るのだろうか。
「わたしは、夢を見ないんです。見ているのは夢というより、目標とか目的という言葉のほうが近い。だから、もしも矢印が自分に向きそうになったときは、無理やり外側に向けて動かしますね」
自分のやり方を信じているけれど、過信もしていない。でも、22歳だ。若くして『あまちゃん』『桐島、部活やめるってよ』といった大きな仕事を成し遂げてきてはいるけれど、まだ発展途上のはず。きりりと強いそのスタンスは、どんな感情に裏打ちされているのか。
なんなんでしょうね……と、いったん口をつぐむ。
「『何になりたい』っていう言葉が、やっぱり危険だと思うんですよね。『何をやりたい』だったら明確だし、行動できるけれど、『何になりたい』は自分の存在を否定する可能性があるじゃないですか。わたし自身もこの仕事が好きで、ああしたいこうしたいっていう気持ちがたくさんあるから、ちゃんと快活に生きられる。でも、わたしがもし『有名になりたい』『大御所俳優になりたい』みたいに、なにかの名前をもらいたいと思って生きていたら、なにも手に入らないと思う」
なにかの名前をもらわないということは、何者にもならなくていい“自分”を探す、ということでもあるだろう。それは、何者かを目指すのと同じくらい、もしくはそれよりもずっと、茨の道だ。
■誰かの描く自分には、ならない
橋本愛は「自分らしさという言葉に、ピンときたことがない」と、かすかな笑みを漏らす。
「でも、ひとつあきらかに言えるのは、誰かの理想に自分を当てはめることは、自分らしさから一番遠いだろうな、ということです」
迷いのない言葉だ。彼女はずっとこうして、茨の道をかろやかに歩んでいくんだろうと思わせる。
「あんまり我慢ができないタイプだから、基本的には直感で、そのときにやりたいことをやっていくんです。でも、自分の直感や本音が見えなくなってきたら、危ない。そんなときは閉じこもって、結界を張ります(笑)。自分を見失っているときほど周りの顔を見てしまって、人の思惑を感じ取ってしまうから、わざと自分以外は見えないようにする。それで、自分がやりたいことをもう一度感じられるようになったら、結界を解くんです」
■自分のできないことに、悔しさを感じながら生きていく
これからは、どこに向かおうとしているんですか? と尋ねる。
「まったく考えていないですね。未来のことは、考えてもしょうがないから。極端なことを言えば、生きているかどうかもわからないし」
決して投げやりではない口調に、彼女の在りようがにじんでいて、面白い。
いつ人生が終わってもいいようにしておきたいから、未来のことを考えるより、いま目の前にあることに力を注ぎたいのだという。
「しいて言うなら、いつもエネルギーを保っておきたいと思うんです。年齢を重ねれば重ねるほど、童心がどんどん研ぎ澄まされてゆく、みたいな感じが理想かもしれない。わたしは、精神性がすごく子どもなんですよね。どこに行っても大声で歌いたいとか、スーパーを走り回りたいとか、ブランコに乗りたいとか……そんな気持ちが生まれるけれど、世間はそれを許してはくれないじゃないですか(笑)。でも、そういう感情は捨てたくないとも思ってるんです」
くっきりと黒い瞳が、くるくると動く。なんだか、気高い猫のようだと思った。
今作には高校時代の“私”が、大勢の友達や“彼”と、制服のままプールで水をかけあう場面がある。橋本愛には、もう二度と訪れない時間。だからこそそのシーンでは、見ている人の心がえぐられるほどの美しさや輝きを放ちたかった、と語る。
「自分の人生でできないことから、目を離したくないんです。できないことに、いつも悔しさを感じながら生きていきたい。そういう欲望が、役者という仕事を続けていく原動力にもなるんでしょうね。役を演じることで、わたしは普段できないことができるようになるんですよ。そのありがたみこそが心の栄養だし、わたしの幸せだと思う」
役者という仕事の面白いところは、もうひとつある。作品にかかわるたび、自分の現在地を確認できることだ。
日常のすべてが材料になる仕事だから、どんな瞬間も自分が変化している。現場に入ってすべてをぶつけ、できあがってくる作品を見ないと、自分がいまどこにいてどんな状況なのかがわからない。
スクリーンに映る姿を見て、橋本愛はいつも、いまの自分を知る。
「とはいっても、映画の撮影はだいたい1年以上前のことだから、公開されるときにはもう過去の自分なんですよね。だから、いまはまた、早くこの自分を壊していきたい。新しい自分に出会いたい、と思っています」
未来のことは考えない。過去にも縛られない。いまここにしか存在しない橋本愛の放つ閃光を、目撃した。
取材・Text/菅原さくら
Photo/池田博美
映画『ここは退屈迎えに来て』 10月19日(金)より全国ロードショー
出演:橋本愛 成田凌 門脇麦/渡辺大知(黒猫チェルシー) 岸井ゆきの 内田理央 柳ゆり菜 瀧内公美 亀田侑樹 片山友希 木崎絹子/マキタスポーツ 村上淳
監督:廣木隆一
原作:山内マリコ「ここは退屈迎えに来て」(幻冬舎文庫)
音楽:フジファブリック
配給:KADOKAWA
公式サイト:http://taikutsu.jp/