誰かを幸せにしたいなら自己犠牲はNG! 自己分析で自分の心から幸せに
誰かの役に立ちたい。大切な人を自分の力で幸せにしてあげたい。人は時にそう願って突き進みます。誰かのために、自分の心を犠牲にしてまでがんばりすぎてしまうあなたへ。巫女であり「心の相談屋さん」としても活動中の紺野うみが、自らの自己分析と心理学の学び、多くの人の悩みの中から見つけ出した、人生を幸せにする「心の種まき」コラム。
■自分を「犠牲」にすることは、本当に美しいの?
「あの人は自分がボロボロになってまで、人のために尽くしている」
「私は今までこんなにも、皆のために、身を削って頑張ってきました」
そんな人物を目の当たりにしたり、話を耳にしたりすると、多くの人が「そこまでするなんて立派だ」「なかなかできることではない」と、その姿を高く評価することでしょう。
確かに、その通りです。
世の中すべての人が「自分さえ良ければ、他の人はどうだっていい」と、自分のことだけを考えて生きていては、思いやりのある平和な世界にはなりません。そして、日本においては特に、自己犠牲の精神は「美しいもの」として語られることが多いのではないでしょうか。
でも、今日は少しだけ、一緒に考えてみませんか? 誰かの幸せのために、自己を「犠牲」にすることは、本当に「美しく」「もっとも望ましい」生き方なのかどうかを。
■自己犠牲の意識で、人のために尽くすことの怖さ
もし、あなたが誰かに「私はあなたのために、自分を犠牲にして頑張っているのよ」と言われたら、どんな風に感じるでしょう。
きっと、自分にとってその人が大切であればあるほど、「いやいや。私はあなたに自分を犠牲にさせてまで、幸せにしてほしいとは願っていませんよ」と答えるのではないでしょうか。
人は誰だって、誰かの役に立ったり、大切な人を幸せにしたいと願うものです。しかし、「自分を犠牲にする」という形で誰かに何かをしてあげたとして、それは本当に相手が喜ぶことでしょうか?
むしろ、その気持ちが重荷になったり、そうやって得られている幸せに対して、罪悪感すら感じてしまうかもしれません。
それにもし、その犠牲の果てが好ましい結果にならなかった場合、あなたの心の中には「こんなにがんばっているのに、なぜ報われないんだろう?」「一生懸命やっていても、それを理解してもらえないのが悲しい」といった、マイナスな気持ちが芽生えてしまいかねません。
「自己犠牲」という考え方は、一見すると美談のように思えるのですが、実のところ双方にとって、あまり望ましいことではないのです。
■苦しいときほど、視野が狭くなってしまう
ここから少しばかり、私自身の話をさせてください。
……というのも、実は私もかつて、自分自身の願望や本音をことごとく我慢して飲み込んでは、ひたすら自己犠牲のようなことばかりを繰り返していたことがあったからです。人から必要とされ、心から喜んでもらうために。どんなに苦しいことや嫌なことでも、我慢してがんばり続けるしかないのだと思い込み、その頃はとにかく必死に生きていました。
今思えば、自分の心を殺してまで「人のため」に何かするという行動は、人の顔色や判断に振り回されながら過ごすということだったように思います。その本質に気づけなかった間は、ずっと出口が見えず、ただただ苦しい日々が続いていました。
いくらがんばっても、どれだけ苦しい思いをしても、うまくいかない。私の力で周りの人を幸せにするどころか、何の役にも立てていないのではないかという思いが、ますます気持ちを臆病にする悪循環。
なぜ、そうなってしまうのか。その頃は、まったく答えが出ませんでした。自分の気持ちを無視してがんばり続けることは、結果的に自分の視野を狭くすることにしかならなかったのでしょう。心の余裕がなくなって、私はいつの間にか、自分の本心でさえも、よくわからなくなるところまで追い詰められていたのです。