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つらいことを乗り越えるほど、小さなこともとびきり幸せに感じられるの

年を重ねるにつれて体力の衰えを感じ、スポーツともすっかり縁遠い……そんな人は少なくないのではないでしょうか。今回ご登場いただく中野陽子さんは、82歳の現役ランナー。しかも、70歳からランニングを始め、世界記録を次々と打ち立てています。どうすればそんなにパワフルな人生を送っていけるのか、お話を伺いました。

つらいことを乗り越えるほど、小さなこともとびきり幸せに感じられるの

ビタミンカラーのランニングウェアをまとって、晴れわたる初夏の土手に現れた中野陽子さん。ぴんと伸びた背筋とかろやかな足取りは、まったく年齢を感じさせません。

70歳でランニングを始めた中野さんは、めきめきと頭角をあらわし、マラソンとトラック競技で、さまざまな日本・世界新記録を樹立。

2017年の東京マラソンでは4時間11分45秒で42.195kmを走りきり、80~84歳の部の世界新記録を打ち立てました。

……そんな偉業も、むべなるかな。目の前でにっこり、ぱっきり笑う中野さんを見ていると、本当にそう思います。

年を重ねて、さらに楽しく、パワフルに日々を送るヒントを教えてもらいました。

■82歳、まだまだ世界が広がる

――そもそも、70歳でランニングをはじめようと思ったきっかけは、何だったんでしょうか。

もともと、20代のころからずっとスキーをやっていたの。基礎スキーといって、タイムや技の難易度ではなく、ターンの正確さやスピードを競う競技です。準指導員の資格を取得して、国内外にも遠征し、かなり本格的に取り組んでいました。

でも、スキーはとってもお金がかかるスポーツなんですね。自分もそろそろ仕事を辞めて、収入がなくなる。

95歳の母もいるし、これからはあまり遠出もしたくない。だから、お金がかからないスポーツを考えて、マラソンに行き着いたんです。

――70代に入り、ふつうならスポーツ自体をやめてもよさそうなタイミングですよね……。

それは全然考えなかったですね(にっこり)。でも、お金がかからなくて一生続けられるスポーツがよかったから、いろいろ試してはみましたよ。

たとえば、卓球。でも、球技は上手な人とやれば気兼ねするし、自分より下手な人とやっても気を使うでしょ(笑)。相手が必要なスポーツは、場所や時間が制限されるのも、私にとっては困りものでした。

その点マラソンなら、高価な用具はいらないし、いつでもひとりでも楽しめます。各地の大会に行けば、お友達もできるんですよ。

初めて参加したフルマラソンは、旅行も兼ねて出かけたホノルルでした。ちゃんと練習もしていたけれど、4時間半~5時間くらいでゴールできたんです。

それで「私、走れるじゃない」って思ったの。それからは、本当にいろんな大会に出ています。

――とくに印象深い大会はありますか?

利尻島のマラソン大会は、10年間欠かさず参加していますね。全然知らない土地なのに、前夜祭や後夜祭を通じて、とても親しいお友達ができました。

最初の年に知り合った方と、毎年その大会で会うんですよ。レンタカーを借りて、みんなで観光なんかもするんです。

私たちの年代になると、若い方とお話しする機会はなかなかありません。でも、スポーツをしているからこそ、年齢や性別を問わずおしゃべりができる。

参加している人たちに、いろんなカラーがあるから楽しいんですよね。82歳で、まだまだ世界が広がっていくのを感じています。

■ただ走るだけじゃ、つまらない

――そうやってお友達と楽しむだけでも充分ヘルシーなのに、なぜ記録も狙っていらっしゃるんでしょうか?

だって、ただ走っているだけじゃつまらないでしょう?

基礎スキーをやっていたこともあって、趣味だとしても、まずはちゃんと走れるようになりたいと思ったんです。

だから、基礎をちゃんと勉強して。フォームがある程度できるようになってきたら、自然とタイムも狙いたいと思うようになりました。

74歳からは、マラソンだけでなくトラック競技に挑戦したんです。国立競技場で走ってみたくてね。

当時のタイムをあと1年キープすれば、75~79歳の部で世界新記録になることもわかって……がんばって、記録を獲っちゃいました。

しかも、75歳のときはめいっぱい走らないようにしたの。少しだけ余裕を持たせておけば、翌年76歳のとき、自分でまた世界新が出せるんじゃないかなと思って(笑)。

そんな調整もしたおかげで、75~76歳の2年間、どちらも世界新記録を残せました。

――世界記録って、そんなぽんぽん出せるものなんですか……!

私が70代だったときは、同年代のランナーがまだ少なかったんですよね。でも今は人数も増えているし、すごくレベルが高い。抜かれないようにがんばらなくちゃって思っています。

■大変な思いをしたから、幸せをより噛み締められるの

――中野さんを見ていると、自分のエネルギーをフル活用して、なんでも楽しみきる方なんだなと感じます。そういう姿勢は、昔からですか?

そうね、どちらかというと徹底的にやるほうだと思います(笑)。若いころに大変な思いをしているから、いろんなことを人より楽しめる、というのもあるかもしれません。

家が貧しかったから、中学を出てすぐ時計の会社に就職したんです。来る日も来る日も、ベルトコンベアで流れてくる部品の組み立て。

作業自体はすごく単純で、特に面白くはなかったけど、兄弟が5人いて、父親が若くして亡くなっているので、お金のためにがんばって続けました。

――別の仕事をするという選択肢はなかったんでしょうか。

お給料は悪くなかったから、すぐにやめるというのは難しかったですね。でも、もうすこし生活が楽になったら、絶対にほかの仕事をしたいと思っていました。だから、働きながら夜学に通ったんです。

夜学から帰ってくると、もう22時半くらい。家に寄ると銭湯に行く時間がなくなるから、母親が駅までお風呂道具を持ってきてくれるんですね。

ときには、それでも間に合わないことがありました。今も自分の家でお風呂に入るだけで、すごく幸せを感じるのは、そんな思い出があるからだと思います。

――10代で、たいへん苦労をされたんですね……。

いやな思い出ばかりではないですよ。仕事は大変だったけれど、会社の運動部でスキーにも出会えたし、夜学は楽しかったし。大変なことと楽しいことを並行していたから、やってこられたんだと思います。

■今やらなければもうやれない、と感じた55歳

――時計会社のあとは、自分が面白いと思える仕事に就けたんでしょうか。

はい。夜学を出たあとに洋裁学校へ通って、30歳でオートクチュールのパタンナーになることができました。当時はあまり職種が多くなくて、女性の仕事といえば洋裁、薬剤師、タイピストくらいだったんですね。

それでも、お仕事は楽しかったです。デザインをもらって、型紙を起こして仮縫いをして……モード雑誌なんかにも関わっていたんですよ。

いずれは自分のお店を持ちたいと思っていたけれど、そのまま55歳まで働いていました。

――55歳のとき、なにか転機があったんですか?

電車に乗っていたら、近くにいた70歳の方が具合を悪くされたんです。びっくりして付き添っていたんだけど、そのまま亡くなってしまわれた。

それで、私も70歳で死ぬとしたら、もう15年しかない。いまやらなければもうやれないと強く感じて、すぐに独立しようと決めたんです。それから73歳までは、自分のリフォーム店を経営していました。

――たしかに、それは人生を考えるきっかけになりますね。実際に70歳になった中野さんは、マラソンを始められたわけですが……。

そうね(笑)。大変なことや我慢を味わってきたからこそ、精神が強くなったと思います。だからきっと、長くて苦しいマラソンにも向いてるの。

今は、人生が本当に楽しいですよ。きょうだいやその家族たちもよくしてくれるし、毎日好きなマラソンをして、とても幸せです。

若いころよりも、おばあちゃんになった自分のほうが、ずっと明るいと思う。つらかった日々が、今を豊かにしてくれているんですね。

(編集後記)
最後に「いやなことがあったときは、どうやって乗り越えるんですか?」と聞いてみた。中野さんは笑って「私いやなことがあっても、寝られる人なの。それから、あんみつを食べるのよ」と、答えてくれた。

人生の壁にぶち当たったとき、みずからの不幸を嘆いたり、周りをうらやんだりするのはとても簡単だ。でも、どこに焦点を当てるかで、見え方は変わる。

「この時間はつらいけれど、楽しいことだってある」「今は苦しいけれど、この経験が私を強くしてくれる」――そんなふうに思えれば、きっとまた前を向けるのだろう。

運命を受け入れて淡々と進み、自らの手で、楽しい生き方をつかみとってきた中野さん。お手製のレッグウォーマーとランニングショーツは、とてもヴィヴィッドだ。中野さんの生き方に、よく似合う。

Text/菅原さくら
Photo/池田園子

中野陽子さん
20代で始めた“基礎スキー”で準指導員の資格を取得。70歳でスキーを引退後は、ランニングを開始。「全日本マスターズ陸上競技選手権大会」75~79歳の部で3種目の世界記録と2種目の日本記録を保有。

6月特集「聞かせて、先輩」

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6月特集は「聞かせて、先輩」。自分らしくありたい。自分らしく生きたい。でも、周りの目が気になることもある。そんな方に届けたいのが、自分なりのモノサシを持って、わが道を切り拓いてきた人生の先輩たちのお話。自分が目指す生き方を貫くヒントを探ります。

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