人の美醜を笑うな

他人の外見を笑うのは当然のことながら褒められた行為ではない。美人かそうでないかは大げさではなく人生を左右する。しかし、時代が変われば美人の定義も変わる。美人とはいったいなんなのか。

人の美醜を笑うな

美しい女性が好きだ。美しい男性よりも好きかもしれない。

美しい女性は、顔のパーツが整っているだけじゃなくって、一つひとつの些細な仕草が美しかったりする。

20代のころは、「美人に生まれたかったなあ」と思うこともあった。けれど、それもいまは次第に過去のものになりつつある。

■美人は得か

「美人はいいなあ」

そう羨んだことはないだろうか。

美人というのは大変なもので、顔が整っているだけでは済まない。

すらっとした体躯、白い肌、ツヤツヤの黒髪、清潔感、ファッションセンス、エトセトラエトセトラ。

何か取りこぼしているものがあれば、「美人なのに……」と言われてしまう。異性にモテたらモテたで、「顔ばっかり」などと陰口を叩かれる。

落ち度がないように十二分に気をつけて、自分を磨き続ければならないんだろうな、とその負担を想像してため息が漏れる。

……と想像して書いてみたけれど、自分が美人ではないのでどうもピンとこない。

■不美人は不幸か

個人的な話で恐縮だが、筆者自身の見た目をできる限り客観的に見てみる。

中の下、下の上あたりだろう。

鼻ぺちゃで一重だし、顔はまん丸だし、別にスタイルがいいわけではないし、年中体重計とにらめっこして100g単位で一喜一憂する。

別に見た目を罵られたことはないし、見た目のせいでフラれたなんてこともない(交際していた人たちが良い人たちだったか、もしくはB線だった可能性も捨てきれない)。

ただ、子どものころに祖母から「もう少しかわいかったらよかったのにね。かわいそう」と言われたことを引きずっているだけである。そうか、私は不美人でかわいそうなのか、と思い込んだ。

大人になれば、小道具はいくらでもある。メイク、小物、服。

それなりに見せる方法はなくもない。でも、万が一、外見を褒められても、それを素直に受け止めることができない。

そんなことないよ、というのは謙遜ではなく、本気で思っている。褒めてもらってるんだから卑屈にならずに受け止めなさいよ、と言われるけれど、それもまたひどくモヤっとするのだ。

■自分の美醜は自分で決める

人それぞれ、好きなタイプがあると思う。でも、自分の好みの顔がすべての人にとって「イケてる」とは限らない。

これは、自身の外見についても同じことが言えるのではないだろうか。何年も見慣れた顔だけど、それが好きかどうかで自分の美醜は決定する。

自分のことをかわいい、美人だ、という人のことは嫌いじゃない。「はぁ? なに自画自賛してんの?」と言ってる人のほうがちゃんちゃらおかしい。

自分を醜いと言っている人には、「じゃあどんなふうになりたいの?」と聞いてあげればいい。なりたい自分になるためのヒントがあれば教えてあげればいい。「そんなことないよ、かわいいよ」と言われてもかわいそうだと思われてるんだろうな、とため息が出るだけだ。

人の美醜を笑うな、というよりは人の自己評価を笑うな、というほうが正しいかもしれない。

自分のことは誰よりも自分が知っている。ただ、自分のことを一番知らないのも自分だ。

笑わずに、自己評価を変える分析をしてあげるのはどうだろうか。あなたが目の前の人が言っていることを本当に否定したいというのならば。

ふくだ りょうこ

シナリオライター。1982生まれ、大阪府出身。大学卒業後、2006年よりライターとして活動を始める。現在は胃が虚弱な痩せ型男性と暮らしながらラブストーリーについて考える日々。焼き鳥とハイボールと小説、好きなアイドルのライブに...

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