「まずGiveがくる人」になれば、仕事の成果は必ず上がる 【覆面姉さんのワサビトーク@DRESSING ROOM #8】
「どんなに仕事ができたとしても、一人の力ではその仕事の成果は1倍にしかならない。協力者が多ければ、成果は2倍にも3倍にもなる。助けてもらうこと、協力してもらうことは、悪いことではなく、良いことなんだ」。上司からそう諭された日から、OLIVEさんのパフォーマンスは大きく変わっていったのです。
本連載は、酸いも甘いも噛み分けたDRESSのお姉さん世代の働く女性たちが、仕事やキャリア、結婚、出産・子育て、離婚などの女性が対面する様々な問題を、自身の生々しい経験を交えて匿名でコラム化したものです。隔週でお届け。
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はじめまして。外資系証券会社で25年間勤務し、昨年晴れてリタイアしましたOLIVEと申します。今年20歳になる大学生の子どもを持つシングルマザーです。
短大卒業後大手信託銀行で3年勤務した後、親の大反対を押し切って単身渡米(当然自費)したのが30年前。西海岸の(残念ながら)名門校ではない大学に編入して働きながら卒業し、バブル期に帰国。
Bクラスの外資系証券に潜り込み、3年後にAクラスの競合会社に転職。結婚、出産、家族の病気介護、離婚と、なんともカラフルな(?)30年間でした。
■このままダメOLでいいの?
雇用均等法施行前、4年生大学を出た友達の姉たちのほとんどが、正社員として就職できずにいた現実。その光景に唖然とする私を、親は「有名短大なら大手企業に入れる」と説得してきた。
親の言うことは正しく、就活は確かに楽で、大手金融機関にするっと入社できた。しかし、ほどなく女子社員は男性社員と結婚して入社後5年程度で退職するのが花道であるという都市伝説が真実であることに愕然……。
キャリアも長く、仕事に精通する先輩女子社員は20年勤めても係長で、課長に仕事を教えている光景を見て絶望。事務の仕事にも興味が持てず、訂正印を連発して欝々としていた頃だった。
このままダメダメOLで終わるのはマズイだろう。せめて英語をマスターして外資系企業に転職したい。そう思った私は英語レッスンに通い始めた。
■Can You Speak English?
ある日、仕事帰りに銀座線の中で明日のレッスンに備えて教本を広げて予習していたら、いきなり頭の上から、”Can You Speak English?” と聞かれ、本当は“No”なのに、なぜか反射的に"Yes”と答えたことが、今でも不思議でならない。
当時の私は、英語テープとFENラジオを聴きながら通勤していたものの、そこでYesと答えられるレベルには程遠かったから。彼の日本語は私の英語の数倍レベルが高かったので、英語と日本語のちゃんぽんで語り合ううち、半年くらい経った頃、彼は私にこう言った。
「今の生活が自分の目指しているものじゃないなら、直したらいい。留学することが夢だったのなら、お金がないからいけない、じゃなくてどうしたらいけるかを考えるべきだ」
雷に打たれたように、何の道筋もなかったけれど、幼い頃からの夢であった留学を決意した。Au Pairという、いわゆる住み込みのお手伝いさんをしながら学校に通うというチャンスがほどなく巡ってきた。
■できない、で終わらせない。どうすればできるかを考える
やる気満々で乗り込んだアメリカでの生活は、想像以上にキツかった。英語は通じないし、日本ではまったくしたことのない料理と家事手伝いが仕事。まさに他人の釜の飯を食う状態。
おまけに日本のではなく、奥さまのレシピ(もちろん英語)を使うことを命じられる。毎日辞書片手にレシピ本と格闘していたら、予想外に早くTOEFLに合格してしまい、大学に編入できることに。何がどう転ぶかわからないものだ。
奥さまに、大学に編入できても卒業するまでの学費はないこと、今でもアップアップなのに、大学の勉強についていけそうもない、と拙い英語で相談したところ、本気で怒ってくれた。
「なぜできない理由ばかり話すのか。どうしたらできるかを考えなさい。You can be whatever you want to be」
この言葉はその後ずっと、今に至るまで、私の人生における指針になっている。
■段取り力と精神力をつけていて本当によかった
他の留学生たちが週末になると遊びまわり、長期休暇中は旅行に行く中、私はというと、毎日買い物に行き、料理を作り、片づけて、犬の散歩やシャンプー、銀カトラリー磨きなどいきなり振ってくる雑事をこなし、夜もふけてからやっと勉強するような日々を送っていた。
自分はこんなところまで来て、何をしているのか、こんなことをしていて本当に将来の役に立つのか、と自問自答することが多々あった。それでも、その度に、「どんなことでも、くだらないことでも、目の前のタスクがまともにできない人間が、大きなビジネスなんてやれるわけがない」と自分に言い聞かせた。
振り返れば、このときに養った段取り力と精神力こそが、その後25年間に渡って外資系証券の前線で生き延びる力の源泉になっていたと思う。正直、仕事は確かにしんどかったけれど、キツいから辞めたいと思ったことは一度もなかった。
アメリカでは、週に50ドルの小銭をもらうのにも、きちんと成果を出さないといけなかった。どんなに小さい額でも、お金をもらうならきちんとやれ、お金の多寡は関係ないのだと教え込まれた。だから、まともにお給料もボーナスももらえるのだから、つらいのはあたりまえだと考えるようになっていたのだ。
当初の予定では、学費は1年分しかもたないはずだったが、留学生向けの奨学金をもらい、不可能と思っていた卒業もできることに。まさに、できない理由をではなく、どうしたらできるのかの方法を考え、実行することを身につけた時期となった。
■私が「イタい女」だった時代
帰国して最初の外資系証券で3年働いた後、憧れだった競合会社から面接のオファーをもらったときは嬉しかったものの、まだ実力が身についていないと感じていた。
しかし、どうせ落とされるだろうから、面接と称して一流の先輩方に会えるチャンスに変えよう、と気持ちを切り替えた。どうしたらあなたのレベルに到達できるのか、仕事する上で大切にしていることを3つあげてください、など質問ばかりしていたら、「あなたの面接なので、あなたは質問するのではなくて、答えるものですけどね」と苦笑されたこともある。その後、採用されたことには、心から驚いた。
初登社前日はストレスと緊張で1日中吐き続けて、真っ青な顔で自己紹介をしたものだった。二軍から一軍に上がってきて、学歴も周りにまったく追いついていないことを重々自覚していたので、必死に働き、なんとか結果を出してはいたが、当時の私は相当イタいキャリアウーマンだったと思う。
自分が頑張っているぶん、そうでない同僚や上司に対して厳しかった。毎年の360度評価では「仕事面では評価するけれど、一緒に働きづらいところがある」と指摘され、怠け者たちが何を言うか! と息巻いていた。大きな肩パッドをつけて、仕事ができたら勝ち、できなければ負け、外資系ってそんなもの、と思っていた。
■「肩パッドを外せ、助けてもらえ」
そんなとき、ある社内のパーティで、当時史上最年少で最高位まで登り詰めた、自分より若いスタープレイヤーに会った。かなりキレキレな人なんだろうとイメージしていたが、にこやかでジョークを飛ばし、周囲を和ませる、肩パッドどころか、肩の力が抜けている姿に衝撃を受けた。
「あれでいいの?」 でも、みんな彼に気軽に話しかけて、楽しそうにしている。社内中の人が知り合いみたい。あの方が、仕事がしやすいのかもしれないと思った。
その直後にNY出張があり、当時のグローバル部門責任者(とても偉い)となぜか二人で食事することになった。今考えてみると、私の扱いに窮した上司がアレンジしたのだと思う。3時間の間、こんこんと説教された。
どんなに仕事ができたとしても、一人の力ではその仕事の成果は1倍にしかならない。あなたに協力してくれる人が多ければ、その成果は2倍にも3倍にもなる。助けてもらうこと、協力してもらうことは、悪いことではなく、良いことなんだ。弱みを見せたって良い。これから子どもを育てながらずっと働くのに、そんなに肩の力を入れていてどうする? スポーツと同じ、自然体でいたほうがパフォーマンスできるでしょ。助けてもらうには、自分も助けること、Give and Takeというように、Giveがまずくるのだ、と諭された。
あたりまえのことだけれど、仕事のプレッシャーで余裕がなくなっていた自分は、こんなに大事なことを忘れていたのだと気づかせてもらう経験になった。
帰りの飛行機で、自分がこれから掲げていきたい指針を考えた。4つの指針を大事にしながら今までやってきたので、最後に紹介しておきたい。
■4つのP
Performance comes first:まずは仕事のパフォーマンスが第一。何かを提案するにしても、まずは仕事で一目置かれるようになってから。できない人のコメントは不満にしか聞こえないが、できる人のコメントは提言とみなされる。
Be Positive:ポジティブでいること。嫌なことが起きても、無理やりにでも良い方に解釈すること。暗くしていいても何も生まないし、廻りが迷惑。
Be Proactive:どんなに親切な上司でも、私の頭の中を覗いてはくれない。自分のキャリアは自分で管理するべきで、そのためには積極的に自分から廻りに発信すること。何も言わなくても皆はわかってくれると考えるのは妄想。
Be Patient:我慢強くあること。諦めないといけないことも、ときにはあるけれど……。
(OLIVE)