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「自分に嘘をつけない」三浦瑠麗が葛藤しながら歩いてきた自分らしい道

DRESSの『運命をつくる私の選択』は、これまでの人生を振り返り、自分自身が何を選び、何を選ばなかったのか、そうして積み重ねてきた選択の先に生まれた“自分だけの生き方”を取り上げていくインタビュー連載です。今回のゲストは、国際政治学者の三浦瑠麗さん。

「自分に嘘をつけない」三浦瑠麗が葛藤しながら歩いてきた自分らしい道

どんな相手にも物怖じせずに凛とした姿勢を崩さない、各メディアで新進気鋭の論客として注目を浴びる三浦瑠麗さん。幼い頃は、図書館にこもって本を読み漁る内気な少女だったのだそうです。控えめな文学少女は、どのような選択を経て自立した大人の女性に成長していったのでしょうか。お話を伺いました。

ヘアメイク・スタイリスト:下條秀之
取材・文        :仲奈々
写真          :池田博美
編集          :小林航平

■「女の子は控えめに」母の考えに影響を受けていた幼少期

――三浦さんは、ご両親から独特な教育方針のもと育てられたそうですね。どのような幼少期を過ごされたのでしょうか。

とにかく本ばかりむさぼるように読んでいました。テレビは見ないし、おもちゃもみんなが持っているようなものがあまりない環境で育ったので、本こそが私にとっての娯楽だったんです。

――幼少期に読んだもので、特に思い出深い本はありますか?

モンゴメリの『パットお嬢さん』は、精神形成に大きく関わっていると思います。登場人物のパットは内気な少女で、家族との穏やかな暮らしを何よりも愛していました。成長しても変わらずに家族仲良く暮らし続けたいと願うのですが、パットを取り巻く環境の変化がそれを許してはくれなくて……。

パットの性格や思想が、幼い頃の私と似ているんですよね。私も内気な性格で、家族……特に母が大好きでした。大人になったら、広い庭のある一軒家を建てて、そこで母と一緒に暮らすんだと思っていたんです。「内気で変化が嫌い」、そういうところが子どもの頃の私とパットはそっくりで。本当は変わりたくないのに変化を強要されるパットの煩悶に、自分自身を重ねて読んでいました。

――三浦さんのエッセイを拝読して、幼い頃は特にお母さまの思いが子育てに色濃く反映されているのかなと思いました。

わが家は父が国立の大学教員で母が専業主婦。父の給料で、5人も子どもを育てました。だから贅沢はできなかった。母親は無添加や無農薬の食べ物にこだわっていましたし、加工食品はあまり食べなかった。そうすると食べ物はほとんど手作りになるのですね。小さい頃はよく小麦粉を手でこねてパンを焼いていたし、自宅の庭で飼っていたチャボに卵を産んでもらって使っていた。コーンスープはトウモロコシから作っていました。今思えば、本当はその方が手間がかかっていて贅沢かもしれないのに、私は祖母の家でだけ飲めるスジャータのコーンスープが好きで……。インスタントのような便利で手軽なものは触れたことがなかったですね。

精神面から言えば、母は華美を避ける傾向にあり、「実るほど頭が下がる稲穂かな」と教えられてきました。彼女はカトリック系のミッションスクールに通っていましたから、物を大切にすること、身を慎むことがよしとされる教育を受けてきた。それは子どもたちへのしつけにも表れていたと思いますね。たとえば、小学生の頃は子どもが好みそうなキャラクターものの服とかは買わなかったし、地味な無地Tシャツみたいな服装をさせていましたね。私が高校生の頃は、親がメイクには反対だったから、学校でメイクして、わざわざ最寄り駅で落してから家に帰っていました(笑)。今思うと、「目立って変な嫉妬にさらされないように」と母なりに娘を守るための行動だったのでしょう。それに、母親というのは娘が女性になっていくことに対して抵抗を覚えるものです。ただ当時は、地味な服装をしていてもかえって私は浮いていたし、世の中のことを知らなくて恥ずかしい思いをすることも多かったですね。

――お母さまの教育方針によって「恥ずかしい思いをした」こともあったんですね。反抗しようとは思わなかったのですか?

高校生になるまでは、ですね。中学のときは家族が唯一安全な聖域だったから、反抗どころではなかった。私は小さいときからママっ子だったし、だいぶ大きくなってからも母は私にずいぶんと長く影響を与えていたと思います。「小さい頃は、るりちゃんは叱ることが本当になんにもなかったのよ」とよく言われるのですが、確かに反抗したことはほとんどなかったですね。むしろ、常に控えめに周囲を立てる彼女の姿を見て、それに倣っていました。

――どうして三浦さんのご両親は質素で“女の子らしい”子どもになるような教育を徹底されていたのでしょうか?

質素なのはうちに余裕がなかったこともあるけれど、質実剛健を目指すこと自体はけっして悪いことではありません。ただし、人間というのはやはり欲があるもの。抑圧しすぎるとかえって反動は生まれますよね。私の両親は私と同様、学生結婚をしているんです。私は三番目ですが、まだ父が博士課程にいて、家庭教師のアルバイトをしていたときに生まれた子どもです。まあ、子どもが子どもを育てているような感じですよね。うちには分厚い育児書があったのを覚えています。「理想の子育て」を追い求めたのだろうと思うんです。

それに、女の子らしく、という教育はあの時代の感覚で言うと割と普通のことでしたよ。ここ10年ぐらいはうちでも男性陣が配膳や片づけを手伝うのが当たり前になったけれども、要は男性も女性もやらねばならないこと、身につけなければいけない美徳が、女の子にはしっかりと求められる一方で、男の子にはあまり求められなかったということの差ですよね。女の子には専業主婦になる選択肢がある、だけれども男の子にはない、という親の意識があったんだろうと思います。


――家族との関わりは他のご家庭よりも濃密な印象を受けます。それ以外の、たとえば友人関係はどうだったのでしょう?

友達と呼べるような人はあまりいなかったですね。テレビを見ないから同級生が盛り上がっているドラマやバラエティの話題にはついていけなかった。とはいえ、テレビを見ていなくても多くの友人に囲まれている人もいますよね。共通の話題がなくても友達作りはできるはず。でも、私はその努力ができなかったんです。自分が興味のない話題で盛り上がっていても笑顔で話を聞くとか、そういうことができなかった。「周りに合わせるくらいなら、ひとりで本を読んでいる方が楽しい」と思っていましたね。

■「浮いている」といじめられた学生時代と“いじめるための正当な理由”

――ひとりで過ごすことが多かったという小学生時代。高学年にもなると多感な時期に入りますよね。三浦さんや周りに何か変化はありましたか?

高学年になると、周囲から浮いていることが際立ちます。孤立し、しばしばひとりで昼ご飯を食べるようになりました。浮く理由は小さなものごとの積み重ねです。私は幼い頃から視力が悪くてずっと眼鏡をかけていたのですが、当時は小学生で眼鏡をかけている子は少なかったとか。自我が強くて生意気だったし、家庭環境の違いも大きいでしょうね。

――どのようないじめがあったのか教えていただけますか?

一番記憶に残っているのは、中学時代に陸上部の仲間から突然憎まれたことですね。真面目に部活動に取り組んでいて、それなりに部活仲間とも関係性を築けていると思っていたのですが、あるときから突然女子部員が全員私を無視するようになった。言葉によるいじめもありました。母にそのことを言ったことがきっかけで、同じ学年の女子部員全員で話し合う場が設けられたんです。

部活の顧問が、女子部員一人ひとりに私をいじめる理由を尋ねていって、それぞれ「態度が偉そう」「男に媚を売っている」と、彼女たちなりに“いじめる正当な理由”を答えていく。仲間はずれにした理由や不満を順に聞く番だから、まずは黙って聞け、と。反論は許されませんでした。顧問は私と部員の仲を取り持つつもりで場を設けたと思うのですが、「なんで私はこの場にいるんだろう」とむなしい気持ちになったのを覚えています。

――目の前で大勢から自分の悪口を延々と聞かされたのですね。三浦さんは学区外の高校に進学されていますが、中学時代のいじめが影響しているのでしょうか?

この事件がきっかけで、高校は同じ中学出身の人が誰もいないところに行きたいと思うようになりました。それまではいじめにあっても「部活を辞めよう」とか「学校を休もう」とは考えなかったのですが。たとえば、部活でいじめがあったら、部活を辞めるのではなく、その状況を改善するために何かできることはないかと考えていました。でも、中学時代の“話し合い”の一件があってから、一度環境をリセットしないと高校でもいじめは続いてしまうと思ったんです。

――いじめから抜け出すために、環境の改善ではなくリセットすることを選んだのですね。

集団の中では、一度でも「こいつはどれだけ罵倒してもいいやつだ」と認識されると、そこから抜け出すのは難しいんです。小学校でできあがった人間関係は、中学校、高校と持ち越されていくんですよね。今自分が置かれている環境がつらい場合、改善を試みるよりもリセットする方が確実に抜け出せる。初めて何かを求め、自分の意思を貫いた瞬間だったと思います。

――三浦さんが、初めて自分の意思で決断した学区外への高校進学。入学後、三浦さんに何か変化はありましたか?

まずは、これまでの人間関係から解放されましたね。同時に、高校生になって、遅い反抗期を迎えました。これまでも、ひとりでいるのが平気な人間で自立心は育っていたのですが、やはり親に言えない暗い経験を抱えていたし、自分だけで物事を解決する性向がどんどん高まってきていました。もちろん、いいこともありました。学校と家の狭い世界しか知らなかった私は、通学に1時間以上かかる高校に通いはじめたことで、駅前のおしゃれなカフェとか、カラオケとか映画館のような新しい世界を知ることができたんです。遅刻魔になったのもこの頃からです。高校生になって多少の自由を手に入れたことで「他の子たちみたいにもっと遊びたい」「もっとおしゃれしたい」と思うようになりました。だから、私の自由に制限をかけようとする母に少し煩わしさを感じ始めていた。

――自由な時間が増えて、いわゆる“外の世界”に興味が出てきてからの学校生活はいかがでしたか?

中学生まではいじめにあっても保健室や図書室に行くくらいで、休まず学校に通い続けていたのですが、高校に入ってからは「つらいな」と思うことがあったら進級に影響しない程度に休むようになりました。学校に向かう電車とは逆の電車に乗って海を見に行ったり、図書館にこもってひたすら本を読み漁ったり……。

昔から、心にもないことを言ったり周りに合わせたりすることが苦手で、うまく友人関係を築けず、学生時代はつらい思いをすることもありました。でも、高校進学を機にこれまでの環境を断ち切れたことで、不器用な自分はそのままに、身を守る術を身につけられたのだと思います。

■「東大講師」から独立を選択。その先に待っていたもの

――これまでのお話から、三浦さんは何かを決断するときにはひとりで考える方なのかなという印象を受けました。

昔から、何か重い決断をするとき、他人はもちろん両親にすら相談したことがほとんどありません。でも、夫となる清志と出会って初めて「この人になら相談したいな」と思えたんです。

――なぜ清志さんには相談できると思えたのでしょうか?

彼は支配欲のあまりない人で、「何かアドバイスをしてやろう」とか「慰めてやろう」といった上から目線はなく、私と対等な立場で話を聞いてくれる人。付き合っている頃から、信頼できる親友と呼んだ方がしっくりくる関係でした。それまでは、誰かに相談しようと思ったら、その相手は母だったのですが、母親はどうしても心配が先に立つものですから。

――そんなパートナーと出会ってからの三浦さんにはどんな変化があったのでしょうか?

彼と暮らすようになって、テレビを見るようになりましたね。当時テレビでは連日イラク戦争の様子が報道されていました。大学生になっても時事ネタに疎かった私にとって、戦争のニュース映像はすごくショッキングなもので……。このときの衝撃がきっかけとなり、国際情勢に関心を持つようになったんです。

大学入学時は理系を専攻していたのですが、文系へ転向することを決めました。博士論文は、イラク戦争の経験から、軍が反対するのにシビリアンが主導してしまう戦争というテーマで執筆しています。

――清志さんとの出会いをきっかけに三浦さんの興味や関心が引き出され、やりたいことが見つかったのですね。

本を書くことは長年の夢だったので、そういう意味では政治や国際関係と出会ってやりたいことが見つかったと言えるのかもしれません。でも、就職では苦労しました。やりたいこととポストが一致するわけではありません。その結果、私は途中で肩書にこだわる必要はないのではないかと思うようになりました。それまでは、博士号という資格に加えて、立派な肩書と毎月きちんと振り込まれるお給料があるのがちゃんとした社会人になることだと思っていました。でも、文章を生業としたいのであれば、組織に属さず個人として挑戦することもできます。

肩書は確かに強いものです。しかし、博士号というきちんとした実績を出したことに伴う評価は別として、肩書自体がその人の価値を決めるわけではありません。むしろ、物書きでやっていくというのは、いい作品を持続的に生み出し続けることに対する評価という、最も厳しいが、しかし手ごたえのあるものに頼ってやっていくということです。他人の評価にまったくさらされないことは不可能ですが、少数の人や組織に依存して生きるのは嫌だ、と強く思うようになりました。

――その違和感は、どうやって払拭されたのですか?

それまでも、副収入の方が多かったわけですが、正式に東京大学を離れて、独立したときに払拭できたと思います。何せ、一国一城の主ですからね。山猫総合研究所、という冗談のような名前の株式会社を設立したのは2015年。初めて私が一般向けの新書を出し、そしてテレビ出演やインターネット番組の司会を始めた頃です。その後、以前非正規雇用で所属していた東大のある研究センターの先輩教授に、正式なポストが空いたから公募を受けないか、と言われて一度呼び戻されたわけですが、「組織人」としての生き方は、結局その任期の3年しか持ちませんでしたね。

――組織から離れ、独立してみていかがでしたか?

山猫総研の代表取締役社長に復帰して、夫とともに日当たりのいいシェアオフィスを構え、机や椅子をそろえて、もう本当にひとりでやっていくしかないんだと覚悟を決めました。大きな組織はもういりません。だからこそ、とことん自分が心地よく生きていける空間を作ろうと決めたんです。2015年からこれまでに広がっていった友人たちは、多くがフリーランスやひとり社長。組織に所属していると、自分の好きなことばかりはできないですよね。私にはそれがどうしても苦痛で、続けているうちに心のバランスが崩れてしまいそうになったんです。組織から独立して一緒に働く人や仕事を選べるようになったことで、ようやく私自身に余裕が生まれたんだと思います。

■周りの声に縛られそうになったら、ニュースも何も届かない自然の中で過ごしてリセットする

――三浦さんは現在、国際政治学者としてさまざまなメディアでご活躍されていますよね。誰に対しても物怖じせず、芯の通った発信は世間でもしばしば話題になります。一方で、心ない声が届くこともあるかと思います。

「思ったことは正直に言う」、それが発信者としての私のスタンスです。そのために、誹謗中傷を受けることもしばしばありますね。

――三浦さんからはいつも凛とした印象を受けるのですが、誹謗中傷の声は気にはならないのでしょうか……?

私も人間なので、周りの声が気にならないわけではありません。でも、誹謗中傷の声一つひとつに反応しても不毛なだけで、何も変化は起こせないんですよね。子どものときに受けたいじめもそうだったのですが、いじめる側にはいじめる側の「正義」があるんです。「態度や格好が気に入らない」という理由で人を裁こうとする。それは主観の問題だから、反論になど意味がないのです。行動と姿勢だけが自分を示すことになります。

――では、三浦さんが誹謗中傷を受けたとき、自衛のために何かされていることはありますか?

仕事が休みの日には都会から離れて、山の中にこもっています。ニュースもあまり見ないし、家族以外の人ともほとんど会わない。精神と生活を豊かにすることは重要です。どんな人でも、ずっと悪意にさらされていると疲弊してしまいますからね。

高校生の頃につらいことがあったときには学校を休むことで感情をリセットしていたように、今でもつらいときは現実から一度脱出して、自分を守ってあげられるといいなと思います。

■私たちには、“利他性”と“自己実現”の両方が必要

――周りに媚びず、自分らしく生きる三浦さんの姿に勇気づけられる人も多いかと思います。一方で、「どうしたら“自分らしさ”を実現できるのかわからない」と感じる人も多いかと思います。

私たちが自分らしく生きるためには、周りからの声が気になりつつも、やはり自分のやりたいことをやる必要があると思うんです。「批判されたくない」という感情は誰にでもあるはず。かと言って、周りの声を気にしてばかりいると自分のやりたいことは実現しづらくなってしまいますよね。両立させるためには、相手に強要しないことが大切だと考えているんです。

――「相手に強要しない」とは、具体的にどういったことなのでしょう?

相手との関係性に悩んでいるときって、無意識に自分が相手に「こうあってほしい」と望んでいることが多いんです。逆に言うと、周りに媚びず、自分に嘘をつかずに振る舞っていたとしても、同時に相手に何か押し付けるようなことをしていれば、相手はそれに反発するでしょう。相手に何かを求めない、けれど自分が心地よいと思える範囲でやりたいことをやってみる。それが「自分らしさ」を貫きながら、周りの声に耳を傾けながらもそれに振り回されないためのひとつの解だと思っています。私の場合は、組織から独立することで叶いました。

私はおとなしいように見えて個性の強い人間だった。周りに合わせられないことでいじめにもあったし、組織の一員に徹することができませんでした。でも「文章を書いて生きていく」という今の在り方を実現できたのは、選択を積み重ねた結果だと思っています。自分に正直に、つらいときには環境をリセットしながら少しずつ前に進んでいけるといいですよね。

三浦瑠麗プロフィール

1980年、神奈川県生まれ。幼少期を茅ヶ崎、平塚で過ごし、県立湘南高校に進学。東京大学農学部を卒業後、同公共政策大学院及び同大学院法学政治学研究科を修了。博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師を経て、山猫総合研究所代表取締役。博士論文を元にした『シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき』(岩波書店)でデビュー。近著に『21世紀の戦争と平和――徴兵制はなぜ再び必要とされているのか』(新潮社)。「朝まで生テレビ!」、「ワイドナショー」などテレビでも活躍する一方、旺盛な執筆、言論活動を続ける。第18回正論新風賞受賞。『孤独の意味も、女であることの味わいも』(新潮社)は初の自伝的著作である。

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