ごきげんに歳をとるのに、シミの数をかぞえている暇はない
歳を重ねるということは、単純に考えれば体が衰えていくこと。歳をとれば当然、シミや皺、体のたるみは多少増えていく。けれど、それを悲観して臆病になることだけが生き方だろうか? 雨あがりの少女さんが考える、「ごきげんな歳のとり方」について。
■美肌加工の自撮りにハマる母
最近、母が写真アプリ「SNOW」でバッチリ加工した自撮りを送ってくるようになった。忙しく出歩き日焼けしているはずの肌は真っ白に、加齢によりくぼんできている瞼や涙袋もふっくらして写る。もうすぐ60歳。アプリを使いこなしている10代とは違い、加工もあまり上手くはない。目がぎょろりと大きくて不自然だし、背景の歪みから小顔に操作したことがまるわかりである。
LINEのグループでは子どもたちから「え、誰?」とか「加工しすぎ」とかド直球の返信が飛び交うが、本人は「え、いつもの私じゃん!」と平然としている。冗談なのか、本気なのか、もはやわからない。「本来の私になるようにちょっと整えただけ」と本気で思っているのかもしれない。そのうちに各種SNSのアイコンもすべてSNOW自撮りに替えてしまった。(案の定、「加工しすぎ」と友人からコメントがついていたが、やはり本人は「いつもの私だ」と言い張っていた)
そんな母を私は笑えない。というか、すごく気持ちがわかるのだ。最近30代になった私は、トイレの鏡を見ても楽しくなるより憂うつな気分になることの方が多い。「会社のトイレは照明が青白いから顔色が悪く見える!」とか、「ルミネのトイレは照明が明るすぎるから毛穴まで見える!」とか、そんなふうにトイレの照明に内心悪態をついている私よりは、SNOW自撮りを「これが私なのよ」とばらまく母のほうがよっぽど潔く、清々しいような気さえする。
■鈍感は加齢の最強の武器である
歳を重ねていくということは、体の水分を失っていくことであり、重力に逆らえなくなっていくことであり、死にむかって衰えていくことである。その事実をしっかり受け入れ、自分事とするのは、そう簡単なことではないと思う。事実をごまかしたり何かのせいにしたりしながらでも、胸を張って生きてもいいのではないか。
むやみに体重計に乗らない。もし増量していたらたまたま「肉を食べたから」とか「便秘だったかも」とか理由をつける。顔色が悪いのはきっと光の加減だ。シミはアプリで消せば、もともとなかったのと同じ。「そんなのおかしい、鏡を見て、ちゃんと向き合った方がいい」と言われるかもしれない。でも、そんな残酷な意見は無視していいと思う。鈍感になれるということは、加齢が持つ最強の武器である。都合の悪いことには鈍感に、終始ごきげんに、生きていければいい。
■限られた時間を、ただ楽しむように
人生とは単純に、生まれてから死ぬまでの時間のことだと私は思う。有名になろうが、美人であろうが、凡庸であろうが、太ろうが痩せようが、何者であろうが関係なく、その限られた時間をどう過ごすか、ということでしかない。「人生を楽しむ」とはつまり、「その時間を機嫌よく過ごす」ということであって、シミの数をかぞえるとか、体のたるみを自覚するとか、そういうブルーになりそうなことをむやみにしなくてもいいんじゃないかなあと思う。
ただ、一方で、シミやたるみも、なかったことにするほど忌まわしいものでもないのかもしれないとも思う。「シミを消す美容液」とか「たるみを矯正する下着」といった広告があまりに多くて、ネガティブなものと思い込んでいるという面もあるだろう。自分が鈍感になっていくことを自覚しつつも、これまでの思い込みを疑っていくような、視野の広いおばさん、おばあさんになっていきたいなと思う。
私にとって歳をとるとは、もちろん衰えていくことでもあるけれど、いろんな人に出会い、いろんなことを体験し、いろんな物語を読み、「人生に正解はない」ということを実感していくことでもある。正解がないと分かるからこそ、他人を尊重できるし、限られた時間を気張りすぎずに楽しむことができる。そしてさらに自分の楽しいと感じることに集中できるようになるのではないか。
正月休みに実家に帰ったら、両親ともに「今はまったくストレスがない」と話していた。他人に指示されるのが嫌いだった父は自分の自由がきく仕事をはじめ、子育てや家事から解放された母はよりいっそう趣味や交友に打ち込んでいる。母に「SNOW」のウサギの耳がつけられる機能を教えてあげたら喜んでいた。限られた時間を、ただ楽しむように。そうやって生きられたらきっといい。