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やがて幻になるこの街で 「くだものたちの停戦条約」

めまぐるしいスピードで開発が進み、日々変化していく大阪の街。 いま目の前にあるわたしたちの街が徐々に幻になっていく光景を、リアルなのに少し不思議な物語で描く。 小説家・磯貝依里による大阪を舞台にした読み切り短編小説連載です。

やがて幻になるこの街で 「くだものたちの停戦条約」


 それは夜空に輝く巨大なバナナだった。
 見慣れているはずの通天閣が真っ黄色のネオンに縁取られていた。
 可哀想に、きっと通天閣自身はなぜこんな変身をさせられているのかも知らずに滑稽なかたちに光らされて、けれどもそれが日頃とてもよく見慣れたバナナの姿そのものだったから、わたしは思わず笑ってしまいそうになる。
 巨大なバナナの下には〈明けない夜はない〉〈マスクの下は笑顔で!〉と書かれた横断幕が張られていて、三十人ほどの見物客が口をぽっかり開けて見上げていた。
 あまりにも見上げることに夢中になっているのか、どの者も足もとをふらふらさせて危なっかしい。スマホを掲げて巨大バナナの記念写真を撮る若いカップルや、きのうのスポーツ新聞を丸めて握ったままぼんやりと遠目に見上げる浮浪者、高齢者。仕事を終えた汗だくの肉体労働者。この街の市民であるらしい外国人の家族。
 半年前にはあれほど通天閣の下をにぎわせていた海の向こうからの観光客は、もうこの市には一握も残っていない。国境や街の境目など今や存在しないのだと、かつて市長が誇らしげに会見で答えていたのを見たことがあったけれど、巨大なバナナが輝きはじめてからはまるで初めから何もなかったみたいに観光客たちが溶け消えて、国や街の境目はむしろ強く強く浮き上がってきたように思えた。
「なあママ、バナナ、いつ緑になるん?」
 小さな顔に小さなマスクを付けた女の子がわたしのすぐ隣で夜空を見上げていた。
 女の子のやわらかな髪に黄色のネオンが反射し、さらさらと光る。
 わたしは女の子のその美しい髪に目を落としながら、バナナのバ、の形につい口を開きかけ――、と、背後に立っていたその子の母親が、わたしの想像していた軌跡をなぞるように女の子の髪を撫で、
「バナナは緑になるって言わんのよ。バナナは青くなるって言うんやよ」
 と微笑み、「さあ」と女の子の手を引いて夕陽丘の方向へ行ってしまった。
 ふたりの影が夜の奥に消えていく。
 もう一カ月以上も休業しつづけてすっかり埃まみれの死骸みたいになってしまった新世界の観光通り。
 わたしは止めていた自転車に片足を戻し、渾身の力でペダルを踏みしめて巨大なバナナの光の下を走り抜けていった。

 この週末が明ければバナナはきっと青くなってしまう。

 街で起こっていた戦争は一度形を変えてしまうとつぎつぎに新しいフェーズへと移り変わっていき、今ではもう誰も、くだものを誰かに投げつけたりはしない。
 何十年も続いていたこの戦争が終わるのはあまりにも呆気なかった。
 すべての市民が腰にバナナホルダーをぶら下げて出歩き、憎むべきひとにも憎まざるべきひとにも平等にくだものを投げ、仕掛け、たゆまぬ努力のもとにあれだけ毎日いたずらをくりかえしていたにもかかわらず、あの光景はこの街からもうすっかり消えてしまった。
 終わりのはじまりは去年の初夏だった。新世界で勃発したどて焼きテロをきっかけに、街ではくだもの以外でもなしくずし的に戦闘可能になった。倫理はあっというまに失われ、秋に入って戦いが歴史上のピークを迎えた途端、ひとびとはすっかり疲弊して、そして突然悪い夢から目が醒めたようにぴたりと戦争をやめてしまった。
 終戦の日はなんばパークスの屋上にあるバナナの森で豪華なセレモニーが催された。やがて春をむかえる、今年最後の雪の日だった。

 その終戦セレモニーを、わたしは朝潮橋のマンションでシュウちゃんと一緒にテレビで観ていた。
 地上波はどのチャンネルでも終戦セレモニーの中継をやっていたからリモコンでオンにした時の番組そのままでよかったのに、シュウちゃんはシュウちゃんらしい潔癖さで「NHKにしたい」と言って、だからわたしたちはNHKでその儀式を眺めていた。
 テレビのなかでは、シャッターの光の雨のなか、つい前日まで緊急事態時の作業ジャンパーを羽織っていた大阪府知事と大阪市長が燕尾服を着、バナナの木から垂れ下がる黄白幕の前で固く握手を交わし、他府県の首長たちとともに万歳三唱していた。
 セレモニーにはバナナの母と呼ばれる伝説のバナナ農家女性のゲストスピーチがあったほか、この地にゆかりのある著名人や芸能人、それからたくさんのゆるキャラたちが全国からお祝いのために駆けつけていた。
 セレモニーの終盤、府知事はスピーチ台から厳かに一歩歩み出し、
「この長い年月、府民のみなさんとつねに一緒に戦ってまいりました。みなさんがこの戦い、そしてこの戦いを経て大阪に〈ありがとう〉と思ってくださる感謝の気持ちを私は一番嬉しく思います。戦ってよかった、この日々があってほんとうによかったと、いっそう強まった絆をみなさんと共有し、私たちは未来に向かってよりひとつになることができます。最後にどうか、ご唱和ください! バナナ、大阪! どうも、ありがとうございました」
 と、べしょべしょの涙を滲ませながら、黄色いバナナ型マイクを舞台の床に置いてわたしたち府民に満足げな顔を上げた。
「……僕たちの絆を誤用しないでほしいよ」
 府知事を冷たい瞳で見つめ返すシュウちゃんの表情を、あれからもう随分経つのに、わたしはどうしても忘れられない。

 シュウちゃんと出逢ったのは三年前の春だった。
 紹介してくれたのは通っていた個人経営のカフェの店長だった。大阪城公園にほど近い森ノ宮にあるカフェで、ウォールナット材で調えられた店内に数えきれないほどのエアプランツが飾られているのが心地よく、職場のそばなので、そこへ週に三度はソイラテを飲みに行くのが数年前からの習慣になっていた。
 カフェは常連が多いので新入りはとてもよく目立つ。
 二十二時に仕事を終えてどろどろの身体を引きずりカウンターに腰掛けて「店長ー、いつもの」となんとか絞り出したわたしの隣に、三年前のその晩、初めて見る男の子が座っていた。
 男の子、という年齢ではなさそうだったけれど、うつむいてホットキャラメルラテを啜っている頼りなげなすがたが「男」というにはあまりにも幼すぎてどきりとした。
「その子、最近よく来はじめたねん。サラちゃん、しゃべったってな」
名前はシュウちゃん、と髭の店長が微笑みながらわたしに熱々のソイラテを差し出して、ああそうやこれ、試しに作った新作のフルーツエッセンスババロア。エッセンスだけで実は入ってないから安心して。シュウちゃんとサラちゃんで仲良くわけっこして食べ。と、桃色のぷるぷる光る輪っかもくれて、隣に座っていたシュウちゃんは「あ」と、そこでようやく顔を上げた。

シュウちゃんは大人しい性格なのか自分で自分のことをほとんど話さず、店長によればシュウちゃんはわたしより四歳下でその時二十六歳。
 仕事は書店員で、担当分野は自然科学。新卒で契約社員となり入社当初は雑誌と新刊担当に配属されたものの、日々押し寄せる膨大な雑誌を冷静に捌くのにどうしようもなく向いておらず、それでじっくり棚を育てるタイプの分野に異動となった。
 とはいえ、自然科学担当もくだもの関連では凄まじく忙しい時があります。新しいくだもの図鑑やくだものライフ系雑誌の発売日には。と、シュウちゃんは疲れた顔で笑って、それが今日だったんです。と、ババロアをフォークでぷにぷに突いた。
「サラ……さんは、何してはるひとですか?」
「わたしの職場は大阪城の向こうのすぐそこ。この国で一番有名な放送局。そこでニュース番組に字幕を付ける仕事をしてる」
「字幕を、リアルタイムで?」
「そう。その場でパタパタパタッて、ひたすら無の境地でニュース音声をタイピングしていく。二年前にこの仕事就いたばかりの頃はいくら練習打ちをしてもぜんぜん上手くできひんかったけど、今はもう、文字のプロだよ、プロ」
 使用する特殊なキーボードの話やその打ち方についてわたしが喋ると、ついさっきまで内気に閉じこもっていたシュウちゃんの瞳がみるみる熱を帯びてきて面白い子だなと思った。
 それで三杯もソイラテをおかわりしていたらすっかり終電の時刻になり、シュウちゃんはその晩会ったばかりだったけれどまるで店内に垂れ下がっているエアプランツみたいに静かに乾いていたし、どうせ性的な関係にはならないだろうと思って「宅飲みしよっか」と、港区朝潮橋のわたしのマンションまでつい連れて帰ってしまったのだった。

 その後シュウちゃんはわたしと同じペースで同じ時間に森ノ宮のカフェに顔を見せるようになり、隣に座る度、あるいは家に飲みに来てもらう度に、わたしはシュウちゃんに対する自分の好意に気がつきながらもどうしてだかなかなか手を出せず、彼も出してくることはなく、初めてセックスしたのは結局、出逢ってから一年以上も経ってからだった。

 その日はシュウちゃんが彼の人生でもっとも傷ついた日だった。
 サラさんたすけて、と電話が掛かってきたのは、わたしがちょうど非番の朝のことだった。
 始発の時間帯で、いかにも梅雨らしい土砂降りだった。たっぷり眠るつもりだったのにじくじくする偏頭痛に起こされて、仕方なく寝起きルーティンの一服をしていたら突然スマホの画面にシュウちゃんの名前が光り、一拍置いてけたたましいトゥインクル音が鳴った。
 飛び上がった心臓を抑えつつ通話ボタンを押すとその瞬間、シュウちゃんが今にも押し潰されてしまいそうな声でわたしにすがりついてきた。
《助けてください。気持ち悪くて動けない》
「今どこ?」
《……どこ……。……駅です》
「何駅?」
《心斎橋……》
 心斎橋か、遠いな。汗と脂まみれになっている自分の寝起きの顔を触りつつ、「で、どうしたん、貧血にでもなったん?」とシュウちゃんに訊ね、隣室に会話が漏れ聞こえないようにとりあえずテレビを点けたら、シュウちゃんが今まさにそこにいるのだという地下鉄心斎橋駅の阿鼻叫喚の光景が映し出されていて、呆然とした。
「なにこれ」
 ドリアン暴動です、とリポーターが険しい表情で実況していた。
 昨夜の終電間際、地下鉄心斎橋駅の御堂筋線ホームで棘皮(きょくひ)をていねいに除去したドリアンの剥き実を多数の民間戦闘員が千個以上も投果しあい、暴動が発生、大量の一般客が激臭の混乱に巻き込まれダメージを受けています。リポーターがそう解説する。
 テレビの画面には改札周辺にうずくまり、倒れ、黄色い腐臭に涙を流しながら折り重なって救護を待っている夥しい乗客たちが映っていた。
 サイレンが聞こえる。地上は大雨。どろどろに充満する湿気と臭気。呼吸ができず次々と人間が溺れていく。混乱。負傷者たちの泣き声と、警察らしき黒い影の叫び声が錯綜している。
 この渦のなかにシュウちゃんがいる。わたしはテレビを消して耳を澄ませた。
 訊くとシュウちゃんは津波のような人のかたまりに揉まれ流され、なんとか地上に這い上がってきていたらしい。
 大阪メトロは全線運行休止となっているとのことだったので、シュウちゃんに「迎えに行くからなんとか近鉄の大阪難波駅まで頑張って歩いて」と指示を出し、わたしは寝起きのまま家を飛び出して環状線の弁天町駅から電車に飛び乗り、西九条駅を経由して近鉄に乗り換え、普段より随分遠まわりで難波へと向かった。

 連れ帰ってきたシュウちゃんはぼろぼろだった。ドリアン暴動に遭ったのはレイトショーを観に行った帰りだったらしい。
 臭いで、ものすごく気持ち悪くなって、彼女に電話したんですけど、ぜんぜん通じなくて。朝になっても、ぜんぜん。と、ベッドに横たわるシュウちゃんの口からこぼれた言葉で、わたしはシュウちゃんに彼女がいるのを初めて知った。
 いや、嘘。知っていたけれどわたしはシュウちゃんにそれを訊かなかったし、シュウちゃんもわたしに絶対に話さなかった。
 わたしは黙ってシュウちゃんのお腹を撫でた。
 救いの手を伸ばしたのに彼女に握り返してもらえなかったのはたまたま運が悪かったのか。彼女がその手に気づかないふりをしていたのか。
 彼女に助けを求めて、けれど通じなくて朝になって、電話でわたしの名前を呼んですがりついてきたのはそこにどんな意味があるというのか。
 確かめたいことのすべてに口をつぐみ、わたしはシュウちゃんのお腹を撫でつづけた。
 ……ゆっくり眠って、安らかに眠って。何ひとつ思いわずらうことなく、好きなだけここで眠ったらいい。手のひらで子守唄を歌ったら、シュウちゃんがわたしの手を握り返した。
 弱々しく、けれど芯に強さを秘めた手だと思った。シュウちゃんの頬の涙の跡に口を浸けると毒かと思うほどに甘ったるいドリアンの実の味がした。
 自分はこの味がけして嫌いではない。と、思った。
 先に服を脱がせて抱き合おうとしたのが、わたしとシュウちゃんのどちらだったか。
 それは誰にも言いたくない。

 シュウちゃんと男女の関係になって一年が過ぎた頃に、新世界のどて焼きテロが起きた。
 テロの火の手は二十二時頃から上がりはじめ、いち早く情報の下りてくるテレビ局にいたわたしはちょうど仕事を上がったところだったのに、緊急事態につき居残るようにと上司から命じられた。
 その晩から翌昼にかけての記憶はほとんど残っていない。これまでの仕事でもっとも集中して、もっとも長い時間、ニュースの字幕を打ちつづけていた。
 奇妙な興奮だけが今もこの手に残っている。
 仲介者となって伝達している自分もまるで、この街を襲う戦闘員のひとりみたいだった。
 どて焼きテロが終息するまでの一昼夜、シュウちゃんは朝潮橋のわたしのマンションに上がり込んでずっと眠っていたらしい。勤め先の書店はちょうど休業日だったそうだ。
 今度はわたしのほうがぼろぼろになって部屋に戻ってきて、シュウちゃんがていねいに介抱してくれた。
 家に帰らなくていいのかと訊いたら「今日はここにいる」とシュウちゃんはやわらかく微笑んだ。その頃、シュウちゃんと彼女は冷めた関係になっていた。
 優しい手に導かれてベッドに運ばれながらその日、戦争で傷ついたおかげでわたしはとても満たされていた。

 輝く巨大なバナナを背に自転車を飛ばし、新世界、日本橋、難波と夜空に放たれた鋭い矢のように走り抜け、十分もすると東心斎橋の飲屋街へ到着した。
 一カ月前までは当たり前に溢れていた人波が完全に引き、路地のアスファルトはヘドロの浮く濡れた砂浜のようになって、潰れたタバコ箱や割れた酒瓶、破れたビニル袋などがぽつぽつと落ちているばかりだった。
 休息や噂話をついばみに来る呼び込みの黒服がいなくなったから、八幡筋の西寄りにある老舗のタバコ屋も固くシャッターを閉ざして〈しばらく休業いたします〉の張り紙をテープで留めている。
 そのタバコ屋の向かいに建つ七階建ての大きなスナックビルを見上げた。毎夜新鮮なくだものの房のごとく灯りをともしているネオン看板はいずれも暗い。
 目を細め、文字の沈んだ五階の〈ラウンジ・梅〉 を見上げた。
 シュウちゃんの彼女 はもうあそこでは働いていないらしい。

 べつに知りたいと思って知ったわけではない。
 彼女の職場を知ったのはシュウちゃんがわたしに教えてくれたからだ。彼の持ち前の無邪気さか、それとも気を遣ってわざわざ教えてくれたのか、真意はよくわからない。
 半年前、東心斎橋の肉バルでシュウちゃんにご馳走してあげたその帰り、「あそこ」とシュウちゃんが唐突に夜空を見上げた。彼女があのラウンジで給仕係として働いていて、けれど最近心の調子をくずして休みがちなのだと言った。
 それをきっかけに、一度も目にしたことのないシュウちゃんの彼女の影が、頭の片隅に色濃く棲みつくようになってしまった。
 最初は我慢していた。それを嫉妬などと名付けてはいけないと思った。けれど必死でこらえていた感情の汚水は飲み込んでも飲み込んでも身体の奥から溢れてきて、それだけは死んでもやらないと固く禁じていた彼女のTwitterアカウント検索に、わたしは無意識のうちに手をつけてしまった。

 一度見つけて引っ張った情報の蔓は、少し力を込めてみたらとても簡単に根が抜け現れた。
 彼女のツイートは至極平凡だった。その平凡の日々のなかに、時おりシュウちゃんと過ごした彼女の軌跡が読み取れた。文中に〈恋人〉〈彼氏〉あるいはシュウちゃんという明確な名は一度も検出されない。
 それでもその名が記されていなくとも、わたしにはふたりの光景をまぶたの裏にはっきりと思い浮かべることができる。
 一カ月に数度シュウちゃんと睦みあう自分の行動と、スマホの画面のなかに浮かび上がる彼女のぼやかされたつぶやきの内容と、それがつぶやかれた時刻とが頭のなかの数式に自動的に代入されると、一瞬のうちに鮮やかな正解がいとも容易くはじき出されるのだ。
 ふたりがセックスをしたであろうその日の彼女のツイートは、まるでなめくじの這った道すじのように言葉がぬめり光って見える。
 ツイートを追ううち、冷めていたはずのシュウちゃんと彼女が、少しずつ関係を戻していたことを察した。
 先々月ふたりが事実婚の届を提出したと知ったのは、シュウちゃんの口からではなく、彼女のツイートを通してだった。

 くだものの残り香がわたしたちの生活を脅かしている。と、大阪府から発表があったのは、シュウちゃんが西区で彼女と暮らしはじめ、わたしの家を訪れる頻度が途端に減った頃のことだった。
 府民が府民にくだものを投げ、戦いつづけてきたその後遺症として、街には未だ至る場所に潰れた大量のくだものが散乱している。
 埋められたまま誰にも踏まれなかった手榴弾のように、爆発を待ちながら腐っていったくだもの。
 大義名分を失い放棄された、かつての武器としてのくだもの。
 それらが風雨に晒されひとびとに踏まれ、ほかのさまざまな街の汚物と混ざり合ううちにある日突然、果肉から奇妙な菌が発生したらしい。
 くだものを揺りかごにふつふつと育ったその菌は、薄い香りとなって街じゅうに飛散した。

 何か異状が起きていると最初に気づかれたのは年始のとても寒い時期だった。とはいえ、クリスマスも大晦日も元旦も無事に済ませたひとびとは、テレビのローカルニュースの片隅で〈くだものの匂いによる体調不良が発生している〉と報道されても、その頃はまだ何ひとつ気に留めたりなどしなかった。
 戦後初の年末年始にみな異様に浮かれていた。元号が変わった年の初めての年始でもあり、この改元に合わせて大阪府は強制的に戦争を終了させたのではないかというまことしやかな陰謀論のほうが府民にとっては大きなニュースで、テレビもそればかり報道しては炎上していた。
 体調不良が流行爆発したのはそれからしばらく経った二月の末だった。
 どこからともなく漂ってくるくだものの薄い薄い匂い。府民はそれを無意識に吸い込みつづけ、やがて熱や気管支の異常、めまいや嘔吐を訴えた。
 果染者 (かせんしゃ)は府内だけで二千を超え、多様な経路から全国に拡がっていった。
 匂いのない場所にいなければ罹患しないというわけではない。たとえば、どろどろに潰れた桃のそばを一度でも通り抜ければその甘ったるい腐臭が身体にしつこくこびりつきいつまで経っても落ちないのと同じように、身体にくだものの匂いを付着させた人間と接触すれば、その香りと症状はいともたやすくうつってしまう。

 三月に入ると果染拡大防止のために府内および近隣他府県の学校が閉鎖になり、それにつづいて匂いの濃厚率の高まる危険性を指摘され、府内のライブハウスやクラブ、飲食店などの長期休業が要請された。
 匂いをうつし合わないよう、街での行動も自粛を求められた。効果があるのかないのかわからないまま、外出時はみなマスク着用を義務づけられて――それはまるで、ついこのあいだまでバナナホルダーの着用を強制されていたのと同じように――、目玉だけをきょろきょろと不安げに動かして歩いていた。
 わたしは報道関係だったから出勤日数を減らされつつも街に出ていたけれど、森之宮のカフェは無期休業となったため、もう二カ月ほど親しい誰とも会っていない。

 シュウちゃんの彼女は休業をきっかけにとうとうラウンジを退職したとTwitterに書いていた。
 市区間の移動が制限されて、シュウちゃんの顔をわたしはもう随分長いこと見ていない。
 ひとも活気も、街を彩るすべてが一度に消滅してしまった。
 心斎橋のひっかけ橋の上を誰ひとり歩いていない光景は永遠に終わらない白昼夢みたいで、これほどぞっとするものだとは思わなかった。
 街に出られないから、たとえ街に出てもそこにはもう何もないから、府民はみな常にスマホに目を落として情報収拾をしつづける。手ではけして触れられない、真偽の見えない、文字と文字による想像だけを通して現状を掴もうと必死になる。
 見えない危険なものが確かにここにあるのだと知らせるために、大阪府は果染状況の深刻度に合わせて通天閣のネオンを光らせた。
 一日の果染者数がアラートラインを超えた時は通天閣のすべての照明が消され、闇に沈む。アラートラインを下回ったらてっぺんから足もとまで真っ黄色のバナナに点灯する。
 そして黄色いバナナの状態が三週間継続し、日常が非日常へと無事に近づいたら、緑のネオンに縁取られた青いバナナに戻り、学校も店もすべて再開の許可が下りるのだ。

 とはいえ状況は好転するもので、巨大バナナアラートシステムの開始後、果染者数は着実に減少していった。
 外出自粛要請を府民が予想以上におとなしく承諾し、また、できる限りくだものの匂いを吸い込まないよう、あるいは吸い込んだ可能性があれば即座に病院に申告するなどして精一杯果染拡大防止の努力をした結果が効いてきたのだ。と、有識者が解説するニュース字幕をわたしは日々ぼんやりと打ち込んだ。
 あまりにもスムーズに減少していくので不審がる声が多数ではあるものの、戦時中とは違いとにかく敵が見えないので疑念の解消先がない。
 おまけに〈くだものの匂いによる体調不良〉が流行しているとどれだけ警鐘を鳴らされていても、そもそも街にはひとがいないので、果染者のすがたが実感できないのが府民の危機感を不思議に宙ぶらりんにさせていた。

 黄色いバナナが輝いているこの期間、わたしの感情はひどく上下した。
 誰かのすがたや感情がSNSを通してでしか知れないことは憂鬱であり、けれど同時に、それはとても安らかだった。
 シュウちゃんにはもう長く会っていないけれどつねに文字の向こう側にいた。 
 書店が休業して自宅待機を余儀なくされたシュウちゃんは非常事態の世界の片隅で、しかし日常よりも穏やかに、彼女と仲良く料理に凝ったり、リビングのプロジェクターでいろんな国の映画を観たりしていた。
 まるでわたしなどシュウちゃんのなかに初めから存在しなかったみたいに。
 非日常は約束事のない関係を浮き彫りにする。みんなが自分たちの関係を強化させていくなかで、わたしのようなみじめな人間はそっと路傍に置いていかれる。
 まるでこの菌を発生させた、孤独に腐ったくだもののみたいに。
 目に見えないわたしの感情が、ずぶずぶと毒の匂いを放っていく。

 けれど、ひとは疲弊する。
 最初は取り憑かれたように観察していたシュウちゃんや彼女のTwitterを、わたしはやがてほとんど見なくなった。
 どうしてかはわからない。画面越しにばかり眺めつづけているうちに、現実のシュウちゃんに対する執着が少しずつ溶けていったのかもしれない。
 夜空に輝く巨大なバナナが黄色から青へ、みずみずしさを巻き戻していくその過程で、わたしの心は少しずつ凪いでいった。
 でも次の変化が来たら、きっと今度こそ追い詰められてしまう。
 バナナが青くなって現実のシュウちゃんと会える日々に戻ってしまったら、きっとわたしは、変わってしまった自分自身と、変わってしまったシュウちゃんに、正面から向き合わなくてはならないだろう。

 シュウちゃんの彼女の元職場前を離れ、今夜の待ち合わせ場所であるひっかけ橋に到着した。たもとのドラッグストアの入り口には、すでにわたしを待ちかまえているあのひとが居た。
 よ、というまろやかな笑顔は、最後に会った三年前と何ひとつ変わらない。
 細い金縁の丸メガネはかつてわたしがプレゼントしたものだったし、口まわりの髭も同じ。むかしから夏が近づけば髪をいつもよりほんの少し短めにする、それも相変わらずでつい吹き出してしまいそうになる。
 〈今はまだわたしの夫〉であるホヅミは、涼しげな短パンのポケットに手を入れながらわたしを真っ直ぐに見つめて言った。
「悪いね、こんな非常時に呼び出しちゃって」
「あんたとはつねに非常時やわ」
 わたしの答えにホヅミはハハッ、と大声で笑った。道頓堀にはわたしたちだけが立っていて誰にも何にも遮られずに、ホヅミの笑い声はものすごく長く夜空に反響していた。

 いい加減、関係に決着をつけないか。と、離婚前提で別居して三年になる夫のホヅミから連絡があったのは一昨日の晩だった。
 離婚届はわたしのほうが保管していて、ホヅミの分は別居時に記入済みだった。大学一回生からの付き合いで結婚して、そして三年前、いずれ別れようと決めたのは、子どもを作るかどうかの意見が永遠に一致しないとわかったからだった。
 わたしは子どもがほしかったけれどホヅミには不要だった。
 不毛な状態で暮らしていても息苦しいだけだからと別居になった。これまでもホヅミとは別れてはよりを戻してを繰り返していたから別段驚くような流れでもなく、そもそもホヅミとは恋人や夫ではなく親友で居続けるべきだった。
 俺は自分の子どもはいらんから別れたいけど、サラは俺の子どもがいいんでしょう。でもそれは無理やから、サラがいつか納得がいったらこれを出してくれたらええよ。ホヅミはそれまで住んでいたマンションをてきぱき解約し、わたしにほどよいワンルームを用意してくれた。港区の朝潮橋がいいと言ったのはわたしだった。海の近くがいいと思ったのだ。
 わたしはほかにどんなに好きなひとができたとしても、ホヅミとの婚姻をやめるつもりは一切なかった。離婚届は棚の奥に眠らせつづけた。ほかの好きなひとと何度セックスをしようと、ホヅミとの糸はけして断ち切らない。
 他人からずるいと蔑まれようとかまわない。ホヅミはわたしのそんな振る舞いさえ許すような相棒だった。口に出さずともわかる。そしてホヅミはそれを許すと、わざわざ口に出したりもしない。

 そんなホヅミが決着をつけたい、届を提出しようと突然電話をかけてきた。
 すぐに離婚したいのかと訊けば可能な限りすぐにしたいらしい。
 すぐか、と思いながらテレビを見ると、有識者が《不要不急の外出は控えてください》と冷静に解説していて、非常事態に急を要する権利を突然得たわたしはなぜなのか妙に興奮し、「いいよ、心斎橋で会お」と返事をした。
「あの電話ん時、サラ、笑ってたよ」
「うそ」
「うそちゃう。サラはほんま、そういうとこやで」
「そういうとこって。非常事態でハイにならんほうが変人やわ」
「だってうちら、せっかくの不要不急を手に入れたんだよ」
 ホヅミはまた笑ってくれる。ホヅミはほんとうにからからと屈託なくたくさん笑うな、と思う。

 時刻は二十二時を過ぎたばかりだったけれど、道頓堀周辺で開いている店などひとつもない。ホヅミは今兵庫県に住んでいた。今夜は車で来ているという。「わたしはチャリ。向こうに停めてきた」
「チャリ? 朝潮橋から? 遠ない?」
「だって今は電車の本数が半分以下に削られとるし、たとえばもしも今大地震が来たとしても、チャリがいちばん機動力があるよ」
 わたしがそう言うとホヅミは呆れながらも嬉しそうな――懐かしい、安心する――顔をして、「ほんなら店も入るとこぜんぜんないし、せっかく心斎橋まで出てきてもらったけど、送りがてら大阪港までドライブしよう」と手を引いた。
 ホヅミの愛車はとても大きくて自転車は二台まで詰め込める。久しぶりの助手席はわたしをはじき返すみたいに硬く、シートベルトに手間取っていたらホヅミが覆いかぶさってカチャリとはめてくれた。
 きっともう二度と交わることのないホヅミの肌の匂いと温度。
 そういえばホヅミがマスクを付けていないので「どうして?」と訊くと、だって街には今誰もいないでしょう、誰にもうつさないしうつされない。過剰は異常だよ。と言う。

 ミナミを出発した車はやや北へ進み、四ツ橋から阪神高速に流れ込んでそこからひたすら西に向かった。
 大阪港線を縁取るオレンジ色の光と次第に濃くなる潮風によって身体が宙に浮き、猛スピードで運ばれていく。
 弁天町を過ぎ、わたしのマンションのある朝潮橋を越え、左側に黒々と横たわる安治川の幅がしだいに広がっていく。闇に沈んだユニバーサルシティの遊園地はまるで巨大な子どもが眠っているかのようだった。
 ライトやクレーンに彩られた工場地帯の向こうに、夜空の紫色を反射した見事な大阪湾が見える。思わず息が漏れた。
 大阪の街のなかでわたしは眼下に広がるこの臨海部がもっとも好きだ。
 三つの人工島の浮かぶ、頓挫した未来都市。叶わなかった未来の夢は幻獣のような工場群にうずもれて、その工場は、現実世界のわたしたちを支えつづけている。
 夜の海はみずみずしく光る。ここでならきっと、タイムトラベルもテレポーテーションもできる。
「サラ、好きなひとできた?」
「あー」
唐突に投げられた問いに、どちらとも取れる曖昧な返事をしてしまった。
「ホヅミは?」
「まだおらん。おらんから、契約上ではサラが一番のまんま」
 ホヅミは海遊館の手前で車を停め、海際の展望スペースへつづく幅広い階段をすたすた歩いていった。一段上がるごとに潮の香りが強くなる。
「通天閣が黄色くなったニュース観てさ、サラは大丈夫? って一言メールしようとしたんやけど、なんかそれってこんな時だけ都合よくサラを思い出したみたいで俺きしょいわ。って思ったんよね。急に」
「それですぐ離婚したなったん?」
「そう」
 律儀やなあ、とわたしは笑って、だけど彼の言うことがとてもよくわかったのでほんとうは笑ってはいけなかった。
 恋人でも夫婦でもなくなっているのに、いつまでも契約を断ち切らないせいで、誠実な感情までもがすっかり間延びしてしまっていた。
「離婚届はちゃんと書いてきたから帰りの車で渡すよ」
「よかった。嫌や言われたらどうしようかと思った」
「言わんよ。ホヅミの嫌なことはしない」
 それにこれからもホヅミにはわたしを思い出しつづけてほしいし。足もとのコンクリートに重々しい波が絶え間なく打ちつける。
 頭のなかで海が鳴る。生きているかぎり心臓の鼓動が止まらないのと同じだなと思った。

 用件を話し終えたホヅミはわたしの手を引いて海沿いを歩きつづけた。
 ホヅミの手はシュウちゃんのそれとは比べものにならないほど力強くて安らかだった。この安らかさが今夜の帰りにはもう自分のものではなくなるのだ。自然に込み上げてくるエゴを千切って丸めて、海に投げ棄ててしまいたかった。
「夜の海はいつもより量が多く見えるね」
「そのうち大地震が起きて津波が来たら街の半分くらいがなくなってしまうかな」
「二十年前に起きるって言われてた地震、まだ来やんもんな。いつ来るかな」
「いつ来ても嫌やわ」
 戦争や病の影に押しやられてひとびとはいつのまにか忘れかけているけれど、この街は二十年前に八十パーセントの確率で巨大地震に襲われる予定だったのだ。
 海の底のプレートはもうとっくに限界を超えているはずなのに不思議と何も起こらない。水平線は凪いだままだ。もしも津波が押し寄せてきたら、海辺でひとりで暮らすわたしは瞬く間に粉々に砕けて街と一緒に消えてしまうんだろうか。
「その時はもう他人だから、ちゃんと素直に《大丈夫?》ってメールしてね」
「はい」
「これからは目に見えない絆だけになるんやし」
「絆は最初から目には見えんもんやで」
「ねえ、何あれ。桃?」
 突然、ホヅミがわたしの手を振りほどいて海面を指差した。
 月明かりに小刻みに揺れる波間に浮かんでいたのは確かに桃だった。
 どろどろに腐りかけた実だった。ところどころ皮の残った茶色い半顔をこちらに向けて、どんぶらこ、どんぶらこ、と漂っている。
 腐った桃からは病のもとになる臭いが放たれているはずなのに、どうやら強烈な潮風に押しのけられて、わたしたちのもとまで届いていないようだった。
 ここは海の匂いしかしなくて最高やな、とホヅミが言う。
 ほんとうにそのとおりだと思ってわたしは微笑み返す。
 このまま潮風に包まれてすべてが清潔になってしまえばいいと思う。
 この桃ひとつだけじゃなくて、この街を覆うすべてのくだものの香りも。この街に突き立つ巨大な黄色いバナナも。黄色いバナナが知らせる明日も、この街そのものも、わたし自身も、わたしにまとわりつくあらゆる約束事も、何もかも。
「そろそろ帰ろっか」
 大の字に身体を伸ばして潮風を浴びていたわたしの背をホヅミが叩く。わたしは手脚を閉じて振り返り、どうしてだかホヅミに抱きついてしまう。
 ホヅミは何も言わない。わたしの背に手を回したりもしないし、頭を撫でもしない。
 わたしのスカートのポケットのなかには今はもう遠くなってしまったシュウちゃんの世界に繋がっているスマホがあって、夜の海の桃は、まだ眠るように波間に浮かんでいる。

 臨海の工場群が黄泉の国みたいにまぶしくて、くらくらして、わたしは目を閉じて、いつまでもいつまでも情けなくホヅミにすがりついていた。

 この週末が明ければ、バナナが青くなってしまうというのに。

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『やがて幻になるこの街で』バックナンバー


#1「くだもの大戦争」

#2「赤いあなたは植物由来」

#3「鬼さん味園、手の鳴るほうへ」

#4「異界の言葉で書かれた手紙」

#5「愛のていねいな暮らし」

#6「よろ星のもとに生まれて」

磯貝 依里

本を読むのが好きです。小説を書いたり、DJをします。関西出身在住。

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